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法話

心の籠に花を摘む 3 心の籠に花を摘む方法

先月は、心にみな籠を持っていて、
その籠の中にはさまざまな思いが入っているので、
その思いを整理するというお話。

そして、心の籠にどんな思いを摘み取っているかで、
その人の幸せが違ってくるというお話でした。
続きです。

経験の力

先月は、心の籠を整理するということでお話を終えました。
今回は整理した心の籠の中に、大切な思いを摘み取っていく方法を考えていきます。

まず、考えられるのは、自分自身が今まで体験してきた中で、
忘れられない尊い出来事や学び取ったことを思い返し、
心の籠にもう一度摘み取ってみるのです。

たとえば「冷暖自知」という禅語があります。
水の冷たさや暖かさは、実際に自分で経験することで知るという意味です。

本でクロールや平泳ぎの泳ぎ方を調べて知識として持っていても、
実際に泳いでみなければ、泳ぎは上達しません。

オール電化の家で育った子どもは、実際に燃える火を見たことがないので、
キャンプ場で火を焚いた時、火が熱いものと知らずに、
その火に手を突っ込んで火傷をしてしまったという話をどこかで聞いたことがあります。

お袈裟の功徳

私は頭を剃り僧侶となって45年ほどになります。
坊さんとして、さまざまな体験をし、
霊的なことや見えない仏様の世界のことも、
うっすらとではありますが、感じるようになりました。

その体験の中でお袈裟の大切さを、
道元が著した『正法眼蔵』で学びました。

私は臨済宗で道元は曹洞宗を興した方なので、
その深い意味は知るよしもありませんが、
『正法眼蔵』の「袈裟功徳」の中に、次のようなことが説かれています。

玉城康四郎の訳(『現代語訳正法眼蔵』大蔵出版)で、
その部分を載せてみましょう。

この蓮華色比丘尼(れんげしきびくに)が、
阿羅漢(あらかん)になりえた原因は、外(ほか)でもない。
ただ袈裟をたわむれに身につけた功徳によって仏道に入ることができた。

二生目には迦葉仏(かしょうぶつ)の法にお会いし比丘尼となり、
三生目には釈迦牟尼仏にお会いして大阿羅漢となり、
三明(さんみょう)・六通(ろくつう)を身にそなえたのである。

〈中略〉

この比丘尼は、ただ戯(たわむ)れに袈裟を着けただけで、
それでも三生目には仏道に入っている。

まして、究極の悟りを目指して浄らかな信心をおこし、
かくして袈裟を着用するならば、どうしてその功徳の成就しないことがあろうか。

ましてや、一生のあいだ、袈裟を受持し、頂戴たてまつるならば、
その功徳はまさしく広大無辺なるものがあろう。

※()内のフリガナは筆者

この中には難しい表現が出てきますが、説明をしていると、
今月号の『法愛』の限られた文字内ではおさまらなくなりますので、
肝心なところをお話していきます。 

比丘尼は女性のお坊さんですが、
この蓮華色比丘尼が前世、遊女であったときに、
遊びで袈裟を着けたことがあったのです。
遊びとはいえ、袈裟を着けるのは、何か袈裟に関心があったのかもしれません。

袈裟を着けるという縁で、
次に生まれてきたときに、女性としてお坊さんになり、
その縁で次に生まれてきたときお釈迦様に巡り逢え、
そこでご修行をされて、大いなる悟りを開いたというのです。

自らの体験から尊いものを選ぶ

遊女だった女性が戯れにつけたお袈裟の縁で、未来世、仏の道に入った。
その袈裟を常に頂いている者は、その功徳ははかりしれないと、
道元は書いています。

なぜ、ここでお袈裟の話をしたかというと、
私自身僧侶として、大変身近にある経験から、
大切な教えを、心の籠に摘み取ることができたわけです。

一般の人は、お袈裟など着けることもなく、
あるいは難しい『正法眼蔵』など読まれないでしょう。
これは僧侶という仕事をしている、私自身の体験から得たものです。

私は会社勤めをしたこともなく、
医者でも看護師士でも介護士でもありませんので、
そこでの仕事がどのようなものなのか知りません。

この夏、お寺の玄関のアルミサッシでできた戸の開け閉めが
スムーズにできなくなりました。
戸を外して、どこが故障したのかを探したのですが、まったくわかりません。
専門の方に来ていただいて見ていただくと、一瞬で直してしまいました。
その道の専門の方の仕事には頭が下がるものがあります。
ですから、その道で働いている人は、その場のさまざまな体験から、
たくさんの尊い教訓を得ていると思います。

それぞれ従事している仕事から得た体験を静かに振り返り、
何か尊いものを、そこから学び取ったのであるならば、
それを心の籠に納めるのです。仕事ばかりでなく、
母として父として、妻として夫として、
祖父母としてのさまざまな役割を持っている私たちです。
そこからも、大切なことを学び取っています。
それを心の籠に整理して入れます。

相手の体験を我が体験とする

自分自身が体験した事ごとも尊いのですが、それには限りがあります。

半分水が入ったコップを見ても、それぞれ人の見方は違います。
喉の乾いている人は、水が半分しか入っていないと思うでしょう。
乾いていな人は、水を飲みたいとも思いません。

コップの水を花にあげようと思う人、捨ててしまう人、
そのままにしてダメにしてしまう人、
この水にはどんなものが含まれているのかを知ろうとする人、
さまざまです。人によって、見方や考え方が違うからです。

また、他の人から指摘されたことや、あるいは何気ない言葉で、
自分の大切なものに気づくこともあります。
そう考えると、自分のまわりに、
考えの違ったさまざまな人がいるというのはありがたいことなのです。

時には独りになりたいときもありますが、
人は互いに影響し合って、学びを積み重ねているといえます。

相手の言葉から発見する

ここで一つの投書を載せてみます。
相手から言われた言葉に、自分の優れたところを発見したのです。
「礼を言われ、ようやく自信が」という題で、44才の女性の方の投書です。

「礼を言われ、ようやく自信が」

絵画教室を始めて13年。さまざまなことがあった。

5年前、小学4年生の女の子の生徒に父親が付き添って教室に来た。
女の子がコンクールで入賞したそうで、
父親は「お礼が言いたくて来ました」と言い、続けて
「先生、娘は才能ありますよね。うまいですよね」

「はい、とても上手です」と答えると、
「先生みたいになりたいと娘が言いますが、どうしたらいいですか」
と重ねて尋ねてきた。
先生みたいに、という言葉がとても嬉しかった。

私は子供のころからコンプレックスの塊だった。
絵画教室を始めた頃も自信がなく、
生徒の反応を見ながら手探りでやってきた。

誰かに「仕事は?」と尋ねられても
「ちょっとパートに・・・」と言葉を濁していた。

だが、生徒の父親に礼を言われた日から
「絵画講師です」と堂々と言えるようになった。

(産経新聞 平成25年11月22日)

関心がなければ見過ごしてしまうような投書ですが、
この女性にとっては、とても大切な発見をした体験でした。

女性は子供のころからコンプレックスを持っていて、
絵画教室を始めても、「絵画講師です」と胸をはって言えませんでした。
そんな彼女に生徒の父親から子供が
「先生のようになりたい」という言葉を聞き、
コンプレックスから抜け出して、
誇りを持って今の仕事をしていくことができるようになったのです。

自分自身が思っている自分と、
他の人から見る自分とはときどき違うように見えるようです。

この投書のように、相手がいることで、
自分が気づいていない尊い自分を教えてもらえることもあるのです。
その意味で、相手がいるからこそ、たくさんの尊い学びができるのです。

相手の良いところを見る

相手がいることで、
心の籠に大切な事を摘み取ることができるお話でしたが、
さらには相手の良いところを探すことで、
自分の中にも、そんなよい点があることを知るのです。

先に「冷暖自知」の話をしました。
冷たさや暖かさを知っている人が、
そのことを理解することができるという意味でした。

相手の優しさに触れて、
「優しくしてもらって幸せ」と感じることできます。
それは自分の心の中に優しさがあるからわかるのです。

相手の悪い面ばかりを見つめていると、
自分の内にある悪いものが芽生えて、心の籠を汚していきます。

10月の月の言葉は
「こんなにしてあげてるのに・・・。そこに魔は入りこむ」
でした。

相手が感謝もしてくれない。ねぎらってもくれない。
相手の悪いところばかりを見ていると、不満な思いが増幅して、
そこに魔が入りこみ、幸せが逃げていくのです。

こんな詩を見つけました。
この詩の気持ちがわかる人は、心の中に同じような尊い思いがあるのです。
その尊い思いを大事にしていくと心の籠も、花々のほほえみに満ちてきます。

55才になる男性の詩です。「母の手」という題です。

「母の手」

女手ひとつで
子どもを育てるため
畑仕事 清掃員
時には建設労働者の
手伝いもやった母

いつもガサガサだった
母の手は 今
棺(ひつぎ)の中でもガッサガサ

けれど ぼくにとって
母の手は
仏様の手
拝まずにはいられない

(産経新聞 令和元年8月14日)

母の手は仏様の手で、拝まずにはいられないと書いています。
その手でどれほど母が苦労し、育て守って来てくれたかを知って、
感謝しても感謝しきれない。 そんな思いから、母の手がガサガサであっても、
その手を仏様の手と思って拝むのです。

こんな詩に巡りあうと、心が洗われるような気がします。
それも、自分の心の中に、この母の生き方が尊いものだということを知っている、
何か尊いものが心の内にあるからです。

お読みのみなさんは、どう感じられるでしょう。

人としての生き方を学ぶ

きれいな花を心の籠に摘み取っていく方法で、次に大切なことは、
「人としての教え」を学ぶということです。

教えを学び、その教えに沿って生きていくことが、
大切なものを心に蓄えていく方法になります。

お釈迦様は徳行について、次の4つを挙げ、
徳を積むことで、亡くなった後、天の神々の世界に赴くと説いています。
それは、信じる心、恥を知る心、戒めをたもつ心、そして財を分かち与える心です。

逆に、徳を積めない生き方は、
信じる心がなく、恥を知らない、戒めを持たない、財を分かち与えないで奪う。
そんな生き方を心の籠に摘み取っていれば、「幸せにはなれませんよ」ということです。 

3番目の戒めは、
一般には悪をしないように、自分の生き方を律していくことですが、
この場合は、善を行う戒めで、信じる心、恥を知る心、
そして財を分かち与える心を戒めとして持つ、と解釈してもいいかもしれません。

三つを守るのが大変であれば、
どれか一つを戒めとして受け止め、実践していけばよいのです。

信じる心とは、目には見えない神仏(かみほとけ)を信じることです。
信じていれば、心の眼で見えるものです。

「お天道様がみている」という言葉がありますが、
誰も見ていないと思って悪いことをしようとしても、
天から仏様が見ていると信じていれば悪を止めることができます。

そればかりでなく、「いつも守ってくださり、ありがとうございます」
と手を合わせ礼拝することもできます。
そうして、心の籠に美しい花びらが摘み取られていきます。

恥を知る心も大切です。
悪を止めて善を行うことを仏教では大切にしています。
なぜならば、そう生きることで心が清らかになっていくからです。

さらには、善いことをしないのも恥ずかしいことと知っていることです。
悪いことをしない、立派なことです。
でも、善いこともしないのは、恥ずかしいことなのです。

そして財を分かち与えること。
自分が困ってしまうほど、財をわけ与えてしまうのではありません。
余裕の財の中から、自分のできる範囲で、分け与えること、
布施(寄付)をしていくことです。

この教えに沿って生きていくと、美しい花びらが心の中に摘み取られていきます。
このように生きていくと、必ず幸せになれます。

(つづく)