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法話

人生観を高めるために 1 人生の意味を知る

今月から「人生観を高めるために」というお話を致します。
難しい演題ですが、共に考えていきましょう。

このお話は平成26年3月27日に行った120回目の「法泉会」という法話会でのお話です。
少し時が経過していますので、書き直しながら進めていきたいと思います。

人生の意味とは

人生観を高めるために、人生の意味や目的を知っていることが必要になります。
でも、人生の意味を知るといっても、即答できない難しさがあります。

たとえば道徳心から、そのことを考えてみます。
『月刊新聞ダイジェスト』という雑誌があります。
一カ月の主要なニュースを一冊にまとめたものです。
このお話をした平成26年の4月号は、この年の2月のものをまとめたものですが、
「教育」のところで、文部科学省が小中学校で使われる新しい道徳教材である
「私たちの道徳」を公表したことを載せていました。
学校での使用義務はないとありました。

道徳心を学ぶために、主な人物と狙いが表(ひょう)になっていました。
低学年では、二宮金次郎、日野原重明、ファーブルを載せています。
教えることとして、二宮金次郎は「勉強や仕事をしっかりする」。
日野原重明は「温かい心、親切心」。
そしてファーブルは「動植物に優しい心」とありました。

二宮金次郎は貧しい中でも勉強を怠らない、そんな生き方をした人です。
最近は見なくなりましたが、薪(まき)を背負って本を読む銅像が有名です。
時を惜しんで、学に志す姿です。
そこから学べるのは、人生の意味は学ぶことであると言えるかもしれません。

医師であった日野原重明さん(亡くなって間もないので「さん」をつけます)は、
平成29年に105歳という長寿を全うして亡くなっています。
死に対して、見舞いに来てくださったある方にこう語っていたと、
次男の奥さんである日野原眞紀さんが語っています。

いまはもう死がちっともこわくない。
息を引き取る時は、いったいどういうふうになるのか、どういう情景なのか。
誰がいて、誰が迎にきて、
どんなところに手を携えて連れて行かれるんだろうと思うと、
すごく楽しみ。

(婦人公論 2017年11月14日)

あるいは、こんな言葉も残しています。

家族は何かと問われたら、僕は
「『一緒に食卓を囲む存在』だと答えます。
そこに血のつながりは関係ありません」。

また、

富士山は、天候によって見えないときもあるけれど、そこには必ず富士山がある。
目に見えないものを信じるということは大切なのです。

『私たちの道徳』という本を私は手にしていませんが、
日野原さんは、さまざまな言葉を残しながら、
100歳を過ぎても現役で働いていました。
そんな姿から、「温かい心」を道徳心として学ぶのでしょう。

こんな道徳心から人生の意味を探ることもできます。
人生の意味が「勤勉である生き方」「働くことを惜しまない生き方」
「温かな心を大切にする生き方」「すべてを慈しむ思いを学ぶ生き方」
と解することができるかもしれません。

机や電灯のたとえ

人生の意味というと難しいのですが、
机の意味や電灯の意味はわかりやすいのではないかと思います。

机の意味は、そこで書き物をしたり、絵を描いたり、
パソコンを置いて仕事をしたり、あるいは食事をしたり、
お茶をいただいたりと、机を使って事を成す、そんな意味があります。
そんな机の意味をたやすく考えだすことができます。

そして、机の形は一種類でなく、さまざまな形があります。
何に使うかでその机の姿が変わり、おそらく数えきれないほどの机の姿があると思います。

電灯はどうでしょう。その意味は、まわりを明るくするという意味です。
そして机と同じように、電灯を使う場所によって、さまざまな形があります。
居間で使う形、玄関、廊下、トイレや寝室、ロビーや迎賓館などで使う電灯も
違った形があり、電灯の姿もおそらく限りがないと思います。
でも、その意味は、「まわりを明るくする」という意味です。

肩書や財産を取った人の姿

人も同じように考えてみます。
まず、人にもさまざまな形や姿があります。
身体でいえば、男性と女性、大人や子供、老人、背の高い人や低い人、
顔の形も同じ人はあまりいません。

その人を表現する肩書もさまざまです。
働いている人は、会社や職業によって、さまざまな肩書があります。
その人の肩書きはそれなりに、その人の人となりを現わしているでしょう。
そんな肩書に左右され、その人の本質を見ないときもありますが、
職を去れば、そんな肩書もなくなってしまいます。

ときどき運動のためにプールで泳ぐようにしていますが、
その施設の駐車場に止まっている車もそれぞれです。
軽自動車や軽トラック、高級車も止まっています。
その施設には風呂もついていて、そこに入る時は、もちろんみな裸です。
誰がどんな車に乗ってきているのかわかりません。

電灯にもいろんな種類がありますが、一つの意味では、明るくするということでした。
同じように、人も肩書や財産などの外見の飾りを取り除いて裸になってみると、
そこに何が残るか、です。

しばらく考えて浮かんだ一つの考えは、「人がら」ということでした。
その人の「人がら」によって、自らの生き方や人との接しかたも違ってきます。
「人がら」の良い人は相手に思いやり深く、何かのお役に立とうと思って生きている人です。

人生の意味は、
この「人がら」の良さをどうつくっていくかにある、そう思うのです。
人生観を高めていくためにも大切な考え方です。

その「人がら」の良さを仏教的に表現すると、
仏の心と書いて「仏心」で言い表すことができます。
そんな仏心をみな持っていて、それをどう育て使っていくかが、
人生の意味でもあり、自らの人生観を高めていく方法でもあります。

思いやりの心に共鳴する

ここである投書を紹介します。
この投書をお読みになって、何を感じるでしょう。
心の中で「ほんとうにいい話ね」と共鳴すれば、
その思いが「人がら」の良さを現わしているといえます。
46才の女性の方で、演題が「小さな親切巡り巡って」です。

「小さな親切巡り巡って」

スーパーの出口付近で中学1年生の娘が
「あ、あの人、真珠を落とした」とつぶやいた。
ドア付近の床を見ると真珠が1粒光っていた。

店内に戻り、左耳に同じ真珠をつけている年配の女性を見つけた。
「ありがとう。助かったわあ」
驚いた表情が笑顔に変わった。帰り道はホカホカした気持ちだった。

その翌日、信用金庫でのこと。
ATMで、通帳が新しくなったタイミングだったので、時間がかかった。
並んでいる人に申し訳なく、新しい通帳が出てくると慌てて次の方に譲った。
すると、ポンポンと肩をたたかれた。
「お金、取り忘れていますよ」
同年代の女性がにっこりほほ笑んでいた。
並んでいたほかの方々もニコニコこちらをみている。

恥ずかしかったけれど、また心がホカホカした。
前日の小さな親切が、今日の自分に返ってきたのかしら。
ATMで肩をたたいてくれた彼女にも誰かさんが親切をしてくれたらいいな、
と思った。

(読売新聞 平成24年12月25日付)

この投書を読んで、
読んでいる私たちも心がホカホカしてくる、そんな気持ちがします。
もし、お読みになった方で、そんな気持ちになった方は、
「人がら」の良さを現わしているといえます。

そして、ホカホカした気持ちは、心の中で、本当の自分が自らに、
「こんな思いをたくさん持つと、さらに深い人がらが育っていきますよ」
と語っているのです。

無と永遠のとらえ方

人生の意味に深く関わってくることが無か永遠かという考え方です。
無というのは「死んだら、終わり」という考え方で、永遠というのは
「死んでも魂があの世に行き、常に変化して自己を高める」
ということです。

このどちらを信じ生きていくかで、人生の意味も変わり、
また人生観にも大きく影響をしてきます。

お寺で毎月一度「お経会」を開いています。
そのとき、次のようなお釈迦様の教えをお伝えしたことがあります。
そしてその意味を説明していると、笑い顔をしながら聞いている人がいました。
「ああ、○○さん。信じていないんでしょう。死んだら分かりますから・・・」
と、冗談をいったことがありました。
その方も、もう亡くなられてしまいました。
あたたかな世界に昇っていることを祈るばかりです。

こんなお釈迦様の教えです。

世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。
世の中はかげろうのごとしと見よ。
世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。

身体を泡沫(うたかた)のごとしと見よ。
身体はかげろうのごとし見よ。
身体をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。

(『ブッダ真理のことば 感興のことば』中村元訳 岩波文庫)

泡沫(うたかた)は水に浮かぶ泡(あわ)のことで、
現れてはすぐ消えてしまうものです。
かげろうは、春の日に野原などにちらちらと立ちのぼる気のようなもので、
はかないものであるという意味です。死王は不幸という意味です。

訳せば、
「世の中も、この身体も、水に浮かぶ泡やかげろうのようにはかないもので、
とらわれてはいけない。そう観じて生きていくと、やがて死を受け取るときに、
死王という不幸をもたらす悪神につかまることはない」
となります。

この教えからも、この身体を本当の自分と思い、
死んで火葬されたら終わりと思うのでなく、
この身体はかげろうのようにはかないものだから、
その身体に重なっている心(本当の自分)を大きく育てていくことです。
そう諭していることがわかります。

大切なからだ

でも、この身体は大切なこの世を生きるための乗り物です。
ここで詩を紹介します。
58才の男性の方の詩です。「からだ」という題です。

「からだ」

朝 めざめると
僕は僕のからだに
また宿る

僕は僕のからだに
水をやったり
ごはんを食べさせたり

からだよ
今日もおまえがたより

この世を生きるために
神さまからさずかった
たいせつな相棒

(産経新聞 平成25年7月23日付)

この「『からだ』をこの世を生きる、
神さまからさずかった、たいせつな相棒」と書いています。
ですから大切に使い、健康を維持して死を迎えたら、
この「からだ」を神さまにお返しするということでしょう。

お釈迦様自身もこの世で死を迎えるとき、自分の身体に感謝をしています。
苦行(くぎょう)で痛めつけた身体に大変お世話になったとお礼を言って、
この身体を脱ぎ捨てました。

私たちも、死を受け取るときが来た時には、
長年、私という魂を守ってくれ、この世の修行を助けてくれた身体に
感謝をすることが大切です。

人生をこの世限りと思わない

健康を維持することはとても大切ですが、
人生がこの世限りと思ってしまうと、
そこにどんな考え方が起こってくるかです。

ごく普通に考えれば、死んですべてが終わりであるならば、
「楽をして生きればよい」となります。
「罪を犯しても、消えてなくなるならば、少しぐらい悪さをしてもいいではないか」
となります。

そうではなくて、この世限りでなく、あの世に行って、
今まで生きてきた人生観が神仏から問われるならば、
この世で一生けん命生きよう
と思はずです。
それがまた、自らの人生の意味を大切にし、人生観を高めていく基本といえましょう。

(つづく)