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法話

人生観を高めるために 2 人生を省みる

先月は「人生の意味を知る」というお話で、
心の内にある、人がらの良さをどのようにつくり、それを活かして、
自らの幸せと相手の幸せのために生きていく。そんなお話でした。
続きです。

過ぎ去った日々を、どう生きて来たか

人生観を高めるために、
過去、自分がどのように生きて来たかを振り返ってみることも必要です。
過去を振り返りみると、どのような自分であったかを知ることができるのです。

たとえば私が修行僧堂から帰ってきて、
お寺の住職になったとき、総代さんから
「うちのお寺は、檀家数が少なく、お寺だけの収入では生活できないから、
和尚さん、どこかへ勤めてくれないか」
と、言われました。

そのとき、もし総代さんの言うことを聞き入れて、
先生や違った職業を合わせ持ちながら、お寺の住職をしていれば、
違った世界の学びができ、生活にも困らなかったかもしれません。

でも、この「法愛」などできなかったかもしれないし、
立派な本堂もできなかったかもしれません。

真摯にお寺の事をし続け、
未熟ながら和尚としての責任を全うしてきたので、
お寺も進化発展してきたと思います。

振り返ってその時の思いを考えると、
二つの仕事を兼職するということをせず、
一つのことに精神を傾ける生き方が、仏教的な知識を得るとともに、
和尚らしい人生が開けてきたのではないかと思います。

厳しい道とたやすい道

数えきれない事ごとが今まで起こってきたと思います。
そんな過去を振り返り、自分にとってたやすい道と、
少し厳しいと思われる道に、どう相対(あいたい)してきたでしょうか。

できるならば、たやすい道を選ぶのか、
それとも少し厳しいと思われる道を選ぶかで、
人生が違ってきます。

とかく人は、たやすい道を選びやすいものです。
それをあえて少し難しい道を選ぶのです。
それは力のいることかもしれませんが、
人生で得るものはたくさんあるのではないかと思います。

かつてプロ野球選手であった黒田博樹選手が、
広島カープから2007年に大リーグのドジャースや、
ヤンキースに移籍して活躍し、
その後、大リーグの他球団から高額の申し入れを断って、
2014年に広島カープに戻ってきてプレーしたことは有名な話です。

お金のことは度外視し、あえてもといた広島に戻ってきた選択に、
当時の人たちは大きな驚きと尊敬の念を抱いたものです。
その体験は黒田選手にとって、
忘れられない人生の宝になったのではないかと思います。

面倒なことから逃げない

黒田選手のような生き方は凡人にはできませんが、
もっとたやすい日常の事ごとにおいて、少し気をつければ、
出来ることがたくさんあります。

かつてノートルダム清心学園の理事長をしていたときに
『面倒だから、しよう』(幻冬舎)という本を出し、
その本がベストセラーになった渡辺和子さんがおられました。

もう亡くなってしまいましたが、
その本の中に、あるエピソードを載せています。
少し引用させていただきます。

大学で「道徳教育の研究」を担当していたときのことでした。

学期末テストの監督をしていた私は、
一人の四年生が席を立ち上がってから、
また何か思い直して座る姿に気付きました。

九十分テストでしたが、六十分経ったら、
書き終えた人は退席してよいことになっていたのです。

坐り直したこの学生は、やおらティッシュを取り出すと、
自分の机の上の、消しゴムのカスを集めてティッシュに収め、
再び立ち上がって目礼してから教室を出ていきました。

(『面倒だから、しよう』幻冬舎)

渡辺さんは、その頃
「面倒だからしよう」という日本語を合言葉にしていて、
それを彼女が実行してくれたのを嬉しく思ったと書いています。

そうして、こうも書いています。

人には皆、苦労を厭(いと)い、面倒なことを避け、
自分中心に生きようとする傾向があり、私も例外ではありません。
しかし、人間らしく、よりよく生きるということは、
このような自然的傾向と闘うことなのです。

こんな言葉から自らの過去を振り返り、
自分は面倒なことから逃げてこなかったのか、
そうでなく面倒なことも厭わず前向きに生きてきたかを省みてみます。

過去を振り返り自らを正す

次に、過ぎ去った日々を省みて、
どう自分が変わってきたかを考えてみます。

人生を完璧に生きるというのは難しいことです。

後悔することもあったかもしれません。
知らずに人を傷つけてしまったり、悪口を言ったり、
短気をおこして、相手を不快な思いにさせてしまう。
そんな時もあったかもしれません。

でも、そんなマイナスの事も、
その事に気づき、善を積むことで消えていきます。

昔、どの週刊誌か覚えていませんが、後ろのページに、
罪を犯して亡くなり、誰も引き取る人がいなくて、
そのお骨を預かっている、そんな納骨堂が写真で紹介されていました。
そこには誰も訪れる人もなく、写真そのものからも、
とても淋しい波動が伝わってきたのを覚えています。

今でも罪を犯すことがなくても、
家族が崩壊し、お骨の引き取り手がなくて、
そんなお骨を納めるお寺さんや施設もあるようで、
そんな話を耳にすると空しい思いになります。

これらの事も、自らの生きる力の足りなさ、
あるいは自分本位の生き方からきた結果かもしれません。

そんな人生の終末を避けるためにも、自らの過去を振り返り、
いけないと思う自らの言葉や行動を反省し、
その分、人の幸せのために力を尽くすことです。

荼吉尼天(だきにてん)のこと

この『法愛』で、今「しきたり雑考」になっているところは、
以前「仏事の心構え」でした。

仏事に関する154回目(平成26年4月号)に
「荼吉尼天」の話をしたことがありました。

この荼吉尼天は、以前人の肉を食い、
回心して仏を守る神になったという仏様です。

自らの罪を反省し、仏を守る神なったという話が、
仏典にはたくさんでてきます。

人を傷つけても、それを悔いて反省し、
正しく生きる決意をすることで、罪が消え、
幸せになっていけるのです。

この荼吉尼天のところを、
「仏事の心構え」から引用してみましょう。

荼吉尼天の中に「尼」という文字があって、
尼は女性の意味がありますので、この天は女性になります。
天の神ですから、さぞ美しいと思ってしまいますが、
そうではないようです。

この荼吉尼天は以前、人の肉(心臓)を食べる夜叉で、
肌は赤黒く、餓鬼のような姿をしていて、
右手に人間の足を持ち、左手には人間の手を持っているという、
そんな恐ろしい姿で表しているものもあります。

そんな女性としての夜叉が、どうして天となり、仏を守り、
人の願いを聞く神になったのでしょう。

ある仏典によると、
毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)が大黒天に化身して、荼吉尼の前に現れ、
「お前は人を殺してばかりいる。人の悲しみがわからぬか。
こらしめに、今度はお前を私が食べてしまう。食われる恐ろしさを知れ」
と言い、方便をもって荼吉尼を食べてしまったのです。

方便ですから、実際に食べてはいません。
食べられる恐ろしさを知った荼吉尼は、以後人の肉は食べないと誓いました。
しかし、「どうしても肉が食べたい時にはどうすればよいでしょう」と聞くと、
「寿命が尽きていく、
死人の心の垢(「あか」と読み、煩悩の意味)を食べるのならよい」
と言われ、その心の垢を食べ神通力を得て、
仏を守る神になったのです。(後略)

私たちの普段の生活から比べれば、極端な例ではありますが、
人生を振り返り、過去のいたらなさを反省し、
新たに日々を歩きだすことで、人生に深みが増していきます。

人生観を高めるために 3 人生において、何に価値があるのか

つとめ励みの価値

人生観を高めるために、
人生において何に価値があるのかを考えてみます。

結論をひとつ言えば、
自分の人がらを深くするもの、成長させるものには価値があり、
逆に、その人がらを阻害させ堕落させるものに価値はない、
となります。

自分の人がらを深くし成長させるものの中で、
「怠らない」という生き方があります。
努力するということですが、そのことをお釈迦様はこう語っています。

つとめ励むは不死の境地である。
怠りなまけるのは死の境涯である。
つとめ励む人々は死ぬことがない。
怠りなまける人々は、死者のごとくである。

(『ブッタの真理のことば感興のことば』中村元訳)

ここの「不死」とか「死」という意味がわかりづらいのですが、
死は不幸と置き換えてみます。すると、ここの意味は
「つとめ励めば幸せになれる。怠りなまけていると不幸になってしまう。
日々つとめ励んでいる人は、ずっと幸せでいられるが、
なまけている人は、ずっと不幸のままである」
こう訳すことができます。

ある女性が亡くなっていく時、
「うちのおばあちゃんは、ほんとうに働き者でした」
という言葉を聞くことがあります。

そのような人は、苦労を重ね、大変な人生であったでしょうが、
そんな人生の中で、「つとめ励むその生き方は、幸せであったのだ」と、
お釈迦様は説いているのです。

日々汗を流し、怠らず生きていくことで、
人は心の内にある人がらや仏心(ぶっしん)という仏の心を深くさせ、
成長させていくことができるのです。

ぞうさんの長い鼻

まど・みちおという詩人がおられました。
平成26年2月28日に、104歳で亡くなられました。

まどさんの詩が歌になり、
多くの人を楽しませ心に癒しを与えてくれました。
その詩のなかで「ぞうさん」という詩があります。

ぞうさん

ぞうさん
ぞうさん
おはながながいのね

そうよ
かあさんも ながいのよ

ぞうさん
ぞうさん
だれが すきなの

あのね
かあさんが すきなのよ

(『まど・みちお全集詩』理論社)

こんな詩です。

まどさんが30代後半に作った詩です。
有名な詩ですから、誰もが知っているでしょうし、
歌も歌えるのではないかと思います。

この詩を私はただ、
ぞうさんのことをおもしろく書いた詩だと思っていました。
でも亡くなって調べてみると、
ここには深い意味があることを知りました。

まどさんが言うのには、

鼻が長いと言われれば、からかわれたと思うのが普通です。
子ゾウは「お母さんだってそうよ。お母さん大好き」と言える。
子ゾウがゾウに生まれたことを素晴らしいと思っている。

人のいうことに惑わされて、
自分の肝心な部分を見失ってしまうのは残念なこと。

この世に、同じ境遇で同じ姿で生まれ育だった人はいません。
みな姿や形も違います。両親も違えば、家族の形も違います。

もっとお金持ちに生まれればよかったとか、
もっと頭のよい子に生まれたかったとか、さまざまな欲求もありますが、
生まれたその場、その姿が尊く、自分に自信を持って生きていく、
そこに価値がある。このことを学べる詩です。

このように今の私を前向きにとらえ、
この私自身を愛し、大切にしながら生きていく。
こう考え生きるところに、心の内にある人がら、
あるいは仏心が素直に成長していくのです。

そうではなくて、「どうしてこんな私に産んだ」と文句を言っていると、
せっかく尊く光っている人がらが阻害され、人間としての光を失ってしまいます。

今与えられているこの身体、今の境遇を活かし、
「この世には一つとして無駄なものはない」
という思いで生きていくところに、人生が深まっていきます。

自分のまわりにあるすべてのものを、価値あるものに変えていくのです。
それが人生の素晴らしさです。

(つづく)