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法話

よりよく生きるために 2 よりよく生きる

先月は「どのように生きるか」というテーマで、
ある女性の生き方を通して考えました。続きです。

ソクラテスの言葉

ここで古代ギリシアの哲学者であったソクラテスの言葉を載せてみます。

ソクラテスは著書を残さなかったのですが、
弟子にあたるプラトンが対話篇というかたちで、
ソクラテスに関する多くの著書を残しました。

その中で有名な『ソクラテスの弁明』という本があります。
詳しいことは述べませんが、その最後のほうに、
次のようなことをソクラテスが語っています。

死というものに対して、よい希望をもってもらわなければならないのです。

そして善きひとには、生きている時も、死んでからも、
悪しきことはひとつもないのであって、
そのひとは、何と取り組んでいても、
神々の配慮を受けないということはないのだという、
この一事を、真実のこととして、心にとめておいてもらわなければなりません。

(プラトン全集1『ソクラテスの弁明』岩波書店)

どのように生きたか

ここで、善きひとについて3つのことが語られています。
まとめてみましょう。

1、善きひとは、生きている時、悪しきことはなにもない。
2、善きひとは、死んでからも、悪しきことはなにもない。
3、善きひとは、何と取り組んでも、神々の配慮を受ける。

ここでの「善きひと」というのは、
よりよく生きている人(ここから「ひと」を漢字にします)になります。

善き人の、生きている時の生き方

善きことを長く続けていると、姿に現れるものです。

そのような人は、やさしく穏やかな顔をしています。
本当に善人だと思える、そんな姿です。

ときどきそんな人を見受けますが、
私もできたらそんな人になりたいと思う時があります。

善き事はたくさんあると思いますが、
相手の善を行っている姿を見て気づかされた時、
「私もそうしよう」と思うことです。

ダスキンで出している「喜びのタネまき新聞」があります。
何号であったのか失念してしまいましたが、
女性の方で「感謝の言葉」という文が掲載されていました。
ここに載せてみます。

「感謝の言葉」

孫の小学校入学を機に、息子一家と同居することになりました。

この際、思い切って長い間しまいこんでいた衣類を処分しようと、
リサイクルステーションへ。

そこに中学生と思われる学生服姿の4人連れが自転車でやってきました。
ひとりの男子が、「お疲れさま」と言いながら、
数冊の参考書らしきものを改修袋に入れたのです。

私といえば、「片付けてもらえてありがたい」程度しか頭になく、
使用したものに対して感謝とねぎらいの気持ちは、正直ありませんでした。

この男子生徒から、
目に見えない心のあり方のような大切なことを気付かされた思いで
「お疲れさま」の言葉に感動してしまいました。

きっと穏やかな家庭で育ち、希望校に無事合格したのかなと、
想像しながら帰りました。

(ダスキン喜びのタネまき新聞)

中学生と思われるひとりの男子が、
改修袋に数冊の参考書らしきものを入れ、「お疲れさま」と言った。
使ったものに感謝とねぎらいの言葉をかけたことに、
目に見えない心のあり方に気づいた女性。

お孫さんが小学校に入るくらいですから、年配の方でしょう。
長年人生を生き抜いてきた人が、
捨てるものに「感謝の言葉をかけること」を学んでいます。
この女性も男子生徒も善き人です。

私たちもできるならば、これからゴミを捨てる時には、
「ありがとう」の言葉を添える。
そんな生き方が、よりよい生き方に通じていきます。

善き人の、死んでからのありよう

2番目には、善き人は死んでからも悪しきことはないと言っています。
このことについて、ソクラテスの死のとらえ方を
『パイドン』という本ではこう書かれています。

本来かく生まれついたわれわれの魂が、多くの人々のいうように、
肉体から離れ去るや、ただちに吹きとばされて、
そのまま無に帰してしまうことがあるだろうか
(中略)
いなむしろ魂は、そのときつねに
日頃それの習いをかさねてきたそのままに、
肉体をまったく逃れてそれ自身へと結集し、
純粋な魂そのものとなったとしてみたまえ。 

(前掲書の『パイドン』)

簡単にいえば、亡くなると、使えなくなった身体から魂が抜け出し、
生前どう生きたかによって、魂の行き場所が決まる。
そうとらえることができます。

100才で亡くなったおばあさんの家で、
四十九日も過ぎたところ、仏壇を新しくするというので、
仏壇の開眼(かいげん)に行ったことがありました。

おばあさんには娘さんがいたのですが、
家族だけでお参りすればいいという判断で、
お嫁に行かれた娘さんを呼ばずに、開眼のご供養のお経をあげました。

そのことを知らない娘さんでしたが、
ある夜、夢の中におばあさんが現れて、
「仏壇の開眼供養をしたけれど、どうしてあなたは来なかったのか」
と言ったそうです。あわてて、実家に問い合わせてみたところ、
「確かに数日前に、開眼の供養をした。
 家族だけでいいと思い、知らせなかった」と。
そのとき初めて、娘さんは仏壇の開眼供養をしたことを知ったのです。
そんな不思議なことを後日、お施主様から聞いたことがありました。

この世のことをおばあさんは知っているのです。
人が亡くなると無に帰してしまうのでなく、
確かに御魂があの世にいて、それも生前の善を積んだありようで、
安らかな暮しをする。

これは、とても小さなことですが、ひとつの悟りといえます。

善き人は神々の配慮を受ける

3番目に善き人は神々の配慮を受けるということです。

神社仏閣には賽銭箱(さいせんばこ)が置いてあります。
お参りするときには何か願い事をいい、お賽銭をあげます。
でも、この賽銭の「賽」の意味は、
「神から福を受けたことに感謝して、差し上げる」。そんな意味があります。

いつも守ってくださり、ありがとうございますと、
賽銭をお供えするのです。

それを知らずに、いつも神や仏から福を受けているのに、
まだお願いごとをして、お賽銭をあげるというのは、
少し欲が深いかもしれません。

「いつも守っていただき感謝しています」と念じて、お賽銭をあげる。
そんな時、そのお賽銭の力で、自らの日頃の心の汚れが取れていく
とも言われています。

善きことをすると、心にくっついた汚れが取れる。
これも神々のご配慮かもしれません。

日々、守られていることに感謝の思いを深め、手を合わせる。
善き人の姿です。そこに神仏の姿が重なっているかもしれません。
そんな人の心は安らかです。

よりよく生きるために 3 ただ、生きるとは

まずは食べていかなくてはならない

よく生きるのではなく、ただ生きるとはどういうことでしょう。

『般若心経』というお経の中に
「一切苦厄」(いっさいくうやく)という言葉が出てきます。

簡単に訳せば、すべてが苦しみであるという意味ですが、
この言葉を捩(もじ)って、「一切食役」と、
生前、母が言っていたことを思い返します。

子どもがお腹をすかせて、
「何か食べたい。腹へった」と言いうと、
「子は、いっさい食う役だ」と言い、ご飯を作っていました。
お寺の奥さんらしい、言い方です。

最近読んだ本の中に、長嶺超輝(ながみね・まさき)氏が書かれた
『裁判長の沁みる説諭』(河出書房新社)があります。

この本の中に、次のようなエピソードが載っていました。
少しまとめて載せます。

深夜、コンビニの店員に、あるお客様が
「トイレが開かない。もう10分も待っているのに」
とクレームが入ったのです。

店員は、ドアを何度もたたいて、
「ドアを開けてください」と中に入っている人に呼びかけました。
しかし、どうしてもドアを開けません。

そこで店員がカギをこじ開けて、ドアを開きました。
するとそこに、小さな男の子がいるではありませんか。
そこには商品のおにぎりを幾つも食べた跡があり、
おにぎりのビニールが散乱しています。
まだ、会計をすませていない商品でした。

通報を受けた警察が来て、
万引きをしたのは小学生であることがわかりました。

家に帰すつもりで、その子に事情を聞くと、
1週間あまり、何も食べていず、
「お母さんに蹴られる。何か食べたくて、家を出た」
といい、身体には暴行を受けたあざがありました。

このままでは死んでしまうと思ったこの子は、
深夜家族が寝静まったときに、家を飛び出して、
このコンビニに来たのです。

後日分かったことは、実の父親と同居していた
この子と血のつながっていない女が、暴行を加え、
父親は黙認していたようです。

(長嶺超輝『裁判長の沁みる説諭』 河出書房新社)

子どものうちは「いっさい食う役」なのに、
1週間も食べさせてもらえませんでした。

この子は、家を抜け出して、コンビニのおにぎりを食べましたが、
死ぬよりも、生きるほうを選んだ行動でした。
1週間食べさせなかった理由は、
冷蔵庫にあった鳥の唐揚げをつまみ食いをしたということでした。

この裁判で実の父親と女は懲役1年の実刑を受けたといいます。
この事件に携わった同じ年齢の子を持つ女性の裁判長が
「息子さんの良いところ、長所を3つあげてください」と尋ねると、
実の父親と女は答えられなかったといいます。

日々困らずに食べていけるということは大事なことです。
特に子どもさん達が安心して、日々の食事ができる。
生きていく日々の中では大切なことです。

働いて、食べていく

食べるためには、働かなくてはなりません。

花も昆虫も動物もみな食べなければ生きていけません。
人間も同じです。

この『法愛』を作っている経蔵のガラス窓から外の景色が見えるのですが、
しばらく外を眺めていると、さまざまな鳥がやってくるのに気づきます。

ハトやヒヨドリ、アオゲラ、コゲラ、エナガ、シュジュウカラ、
ホウジロ、カワラヒワ、カケスなどの鳥たちがやってきます。
みな食べるために、餌を探しています。

鳥の中でも驚くのがホトトギスです。
ホトトギスは他の鳥が食べない毛虫を好んで食べるといいますが、
それは他の鳥と違う餌を食べることで、
餌の奪い合いを避けていると言われています。

昨今の新型コロナウイルスで、
マスクや紙、食料品の買いだめをしている人間よりも、
奪い合いを避けるホトトギスに学ばなくてはならないような気がします。

ホトトギスの驚く行動は、
ウグイスの巣に自分の卵を産み付け、
ウグイスに自分の子を育ててもらうということです。

これを托卵(たくらん)というようですが、
ホトトギスの卵のほうが早く孵化(ふか)するので、
まだ孵化していないウグイスの卵を背中で押して外に出してしまうのです。

ウグイスの巣に自分の卵を産み付け、
先に孵化して、ウグイスの卵を押し出してしまう。
おにぎりを盗んで食べた少年のように、
自分が生きていく力を捨てない。そんな思いがします。

また、自分で育てられない子がいたら、
虐待して殺してしまうよりも、
育てられる人にお願いするということも、
ホトトギスが教えていることかもしれません。

働きの中に、学びを得る

食べていくために働かなくてはなりませんが、
人間はその働きの中に、自らの学びと、
人の幸せのために働きたいという精神が宿っています。

ただ、食べるためにのみ働くのでなく、
その働きが、多くの人とつながり、
支え合っていることをしっかり受け止めていくと、
よりよく生きることにつながっていきます。

私もただ坊さんをしているのでなく、先月のお話のように、
「どのような坊さんであらねばならないか」を自問自答しながら、
坊さんという仕事をしています。

先月の『法愛』の「みにミニ法話」の中に、
「はちみつ」という詩を載せました。
いっぴきのミツバチが一生集める蜜の量は
ティースプーン一杯ほどと書かれていました。

私の生涯の仕事も、
ティースプーン一杯くらいしかないかもしれませんが、
それが他の人の力となり、他の人の心をあたたかくするものであれば、
「よし」と思っています。

一生で出来る仕事は、みな小さなものであるかもしれません。
「ただ、生きる」のではなく、「よりよく生きよう」とする時、
その仕事に善のぬくもりが宿るのです。

そして相手にそのぬくもりが通じていき、
支え合う世界がそこに開けてきます。
幸せの花が咲いていきます。

(つづく)