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法話

よりよく生きるために 4 必要とされる生き方

先月はギリシアの哲学者ソクラテスの考え方で、
「よりよく生きる」ということについてお話を致しました。

役立ちたいという思い

臨済宗妙心寺派の本山の研修で、
ある少年院の院長をされている方のお話を聞いたことがありました。

詳しいことは忘れてしまいましたが特に覚えていることは、
少年院の子たちを老人ホームに行かせたエピソードです。

少年院に来る子どもたちのほとんどは、
自分は必要のない人間だと思っているというのです。
そんな子たちを老人ホームに行かせ、
老人のためにお手伝いをさせるとう体験を行っているというのです。

一日という短い時間ですが、
老人のために自分のできることで手助けするのです。
ホームを後にする時、年配の女性たちが
「ありがとう。助かったわ。ありがとう。ありがとう」
と、笑顔でお別れを言ってくれたといいます。

その言葉を聞いて、少年たちは
「こんな僕でも、人のお役に立てるんだ」
と思うのだそうです。

そんな体験を経て、立ち直っていく少年もいるという、
そんなお話でした。

マザーテレサも人として一番悲しいことは
「あなたは必要のない人間だ」と言われることだと、
どこかの本で読んだことがあります。

世の中には、さまざまな仕事がありますが、
みな人のために役立つための仕事です。
役立つからこそ、その仕事も尊く、なくならないのです。

今さかんにマスクが足りないと、その需要が増しています。
コロナウイルスが蔓延しないころは、
マスクは専門の方々や風邪あるいは花粉症の人がするくらいでした。
今そのマスクが必要であるので、量産するわけです。

他の人のために行動

8年ほど前になります。
49才で亡くなられた女性がおられました。
不治の病でした。

旦那さんと娘さんと息子さんの4人家族で、
幸せに暮らしていました。

45才くらいから抗がん剤を打ちながら、
家族の世話や、看護師としての仕事を精いっぱいこなし、
明るく生きていました。

亡くなられたときに、「故人を偲ぶ言葉」を書いて頂きました。
このお別れの言葉を読むと、この女性の生き方が、
常に前向きに、人のためを思い生きてきたことがわかります。
よりよく生きようと頑張ったのです。

常に、他の人やまわりの人のことを考え、
自分のことは後まわしにし、自分がつらい時でも
「いたい。しんどい」は言わず、他の人のために行動する人でした。

4年前から抗がん治療で戦っている時でも、
家族の心配をし、家族の相談にのり、とても頼れる人でしたね。
そんな亜美(仮名)は、家の仕事以外でも、
看護師として白衣の天使でした。

お母さんは私の憧れの人。
看護師になるという夢ができたのも、
お母さんが看護師だったからだよ。
仕事をしているときは、ほんとうにかっこよかった。

いつも明るく笑顔をたやすことがなかったお母さん。
お母さんのことを思い出すと笑顔しか出てきません。
どんな時でも「前向き」で「あきらめない」人でした。

葬儀の時は悲しい別れで、みんなが涙で送りました。

欲にもてあそばれる

人に役立つ生き方をしたい、
できれば必要な人となりたいという思いは
誰しもが持っているのですが、
そのためには生きる力がいるのです。

その力を養うことなく日々暮らしていると、
やすきに流れてしまう生き方になってしまいやすいのです。

車で買い物にいけば、
お店のなるべく入り口近くに車を止めたいと思います。
楽な仕事で高い給料を得たいというのは、
誰しも考えることです。

たとえば、鉄の斧を池に落とし、
どうしようと迷っているとします。
しばらくして、池の中から女神が現れ、
鉄の斧でなく金の斧をだし、
「これはあなたの斧ですか」と問われれば
「そうです」と言ってしまいそうです。

昔、静岡にある臨済寺という修行道場で修行をしていたとき、
東京から檀家さんが来られ、お寺にあった墓地で、
お経をあげたことがありました。

その場でお布施をいただいたのですが、
こんな簡単なお経にどれくらいお布施を包まれるのかと興味があったので、
中をのぞいて見ると3万円も入っていました。

そのとき、3千円の間違いではないかと思い、ふと
「3万円を3千円に変えてしまえ。
 そうすれば、2万7千円のもうけだ」
という悪魔の声がしてきました。

「お前は誰だ、そんな誘惑にはのらない」と、
自らを戒め、お寺の会計をしている人に、
そのまま渡したことがありました。

修行中の身であるのに、こんな些細なことに、
己の欲に溺(おぼ)れてしまうこともあるのです。

どん欲が善悪の判断をくもらせる

欲は悪い方にとられがちですが、
考えてみればこの欲がなければ生きていけません。

食べたい。寝たい。
働きたい。休みたい。
遊びたい。勉強したい。
痛い。金メダルを取りたい。
生きたい。守ってあげたい。
よりよく生きたい。

みな欲からきています。
これらの欲を上手に使えば、自分を守る力になります。

でも、この欲がすぎると、
自分の身体ばかりでなく心をも壊すことになり、
また相手も傷つけることになっていきます。

欲がすぎることを「どん欲」とよく言うのですが、
このどん欲さが善悪の判断を狂わせ、
よく生きることができなくなっていくのです。

考えてみれば、欲のままに生きるというのは簡単なことです。
怒りたければ怒る。不平を言いたければ不平を言う。
欲しければ、相手のものを奪ってでも自分のものにする。
悪口をいい、人の責任にし、名誉はほしいし、感謝もしてもらいたい。
簡単にできます。

でも怒ってはいけないところで、怒らない。
思うようにならなくても、不平を言わない。
欲しいのだけれど、少し我慢をしてみる。
悪口をいいたいのだが、いけないと自分を制する。
人の責任にしないで、自分がどうであったかを反省してみる。
名誉でなく謙虚になってみる。
感謝されなくても、やり続ける。

みな簡単にできるものではありませんが、
欲を制することにより、何が正しい生き方かがわってきます。

最近の報道(4月の末)の中で、
ラーメン店にお面をかぶった二人の男が
お金を盗みに入った様子を映していました。

バールで金庫をこじ開けて、お札を握りしめているのです。
コロナウイルスでお客様が半減しても、
何とか営業をしている店主が、「許せない」とコメントしていましたが、
どん欲のなせる業です。

正当にお金を稼ぐことがどれだけ大変なことかを無視し、
短時間でお金を盗み取る。どん欲だから、
悪魔の声を制することができないのです。

おろかさという振る舞い

どん欲ばかりでなく、
おろかという生き方も注意しなくてはなりません。

よく学び、どうその場を対処していくのが正しいかを、
謙虚に判断する力を持つことです。

こんな詩を書いた82才の埼玉県の男性がおられます。
「赤ちゃん言葉」という題です。

「赤ちゃん言葉」

「ハイ オジイタン
チョット
チクリトスルケド
ガマンシテネ
ハイ オワリマシタ
オリコウチャン」

採血する看護師は
私に赤ちゃん言葉を使った
幼児の頃を思い出し
おもわず苦笑いした

(産経新聞 令和2年2月13日付)

この看護師さんの言葉は、あまり勧められないような気がしますが、
読者のみなさんは、どう思われるでしょうか。

よりよく生きるために 5 よく生きるのは難しいが、やりがいがある

我(が)を捨てる

「善いことは、実に難しい」とお釈迦様も語っています。
さらにこうも説いています。

善き人々は遠くにいても輝く、
雪を頂く高山のように。

善からぬ人々は近くにいても見えない、
夜陰に放たれた矢のように。

(『真理のことば』中村元訳)

よりよく生きるためには善を行うということです。
その善を行なったよき人は、遠くからも見える。
知ることができるということです。

そうでなくて悪を行う人は近くにいても見えない。
見えないように知られないように悪を行うからです。
夜放たれた矢のように、見えないように悪をするのです。

善を行うために大切なことは、
心の中に「我」(が)を住まわせておかないことです。
我とは自分本位の思いであり、自分にとって楽(らく)で、
やすきを優先する思いです。

我を取ると、素直な自分になれるのです。
お釈迦様の「善いことは、実に難しい」というように、
なかなか我が取れず、素直になれない自分があります。

「していただいたことに感謝してはどうですか」
と言われても我があると「ありがとう」が言えない。

「人の良い点を見た方がいいですよ」と言われても、
悪いところばかりに目がいってしまう。

「相手の気持ちを、もう少し察してください」と言われても、
自分のことばかり気になる。

みな我がそうさせて、よく生きられなくなるのです。
ここでひとつの投書から学んでみましょう。
56才の男性で「妻と病床で和解」という題です。

「妻と病床で和解」

結婚して妻を実家に迎えいれた。
だが、母との折り合いが悪く、
3年ほどして、私たちは家を出た。

数年後、母は突然顔色を悪くし、病院に運ばれた。
完治が見込めない病と分かり、母に事実を伝えなかった。

駆けつけてきた妻と母との対面は何かぎこちなかった。
後で知ったことだが、2人はその場で互いにこれまでのことを謝り、
母は妻のことを「いいお嫁さん」と看護師さんに話したという。

どういう因縁か、母の命日は妻の誕生日と同じになった。
「お母さんが好きだったお菓子を持って、墓参りにいきましょう」
今年もそう妻から誘われた。

(読売新聞 平成26年5月11日付)

こんな投書です。

結婚して、妻を実家に迎えたのですが、
母との折り合いが悪かったのです。こ

こでのテーマでいえば、互いの心に「我」が住んでいたのです。
だから素直に、互いを認めることができなかったのです。

それが病院で再会した時、
互いが今までの至らなさを謝り和解しました。
互いが「我」を心の家から追いだしたのです。


「お母さんが好きだったお菓子を持ってお墓参りにいきましょう」
と夫を誘う。しかもその日は奥さんの誕生日。
よく生きる姿が、とても美しく見えます。

この男性は愛知の人で、しかも平成26年の出来事です。
「善きことは遠くにいても見える」
とお釈迦様が言われたように、遠くにいても、
また時間を超えて善きことは、多くの人に感動を与えるものです。

よき運をためておく

よりよく生きるためには、
さまざまな考え方があると思いますが。
最後にひとつ日ごろから運を貯(た)めておくことが大切になります。

ある人は祖母から教えてもらった言葉を
大事にしているといいます。次のような言葉です。

ごみをポイ捨てする人は、その人の持っている幸運まで捨ててしまう。
人のごみまで拾える人は、捨てた人の運も一緒に拾う。

名言だと思います。

そしてもう一つの名言は、萩本欽一さんの書いた
『ダメなときほど運が貯まる』(廣済堂新書)の中にある言葉です。

努力した人の元へ運がやってくる。

よく言われる「石の上にも3年」という諺があります。
冷たい石の上でも、3年の間坐り続ければ、その石もあたたまるということから、
どんなことでも我慢強く努力すれば、必ず成功するという意味です。

私自身この言葉から、
「1年修行すればお寺の住職になれるから、修行は1年でよい」
と言われたのですが、3年修行に行ってきました。
萩本さんは、この本の中で「石の上にも5年」と言っています。
ひとつのことを長年努力することで、運が貯まるというのです。

貯まった運は、困難にあったとき必ず助けてくれ、支えてくれ、
よく生きるための力になってくれるはずです。