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法話

真心こめて生きる 3 なぜ、真心こめて生きるのか

先月は「無駄にしない生き方」というテーマでお話し致しました。
人はその人にあった出来事が起こってきて、
それを克服し、解決していくことで、無駄にならない生き方になる。
それがまた真心をこめて生きることにつながっていく。そんなお話をしました。
続きです。

この世に客に来たと考える

なぜ、真心こめて生きることが大切なのでしょう。
それは、そう生きると幸せになれるからです。

そんな幸せになれる方法として、「伊達政宗五常訓」を学んでみます。
その中に、次のような言葉が出てきます。

気ながく心穏やかにしてよろずに倹約を用い金を備うべし。

倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり、
この世に客に来たと思えば何の苦もなし。

朝夕の食事は、うまからずとも誉めて食うべし。
元来、客の身なれば好き嫌いは申されまい。

今日の行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、
娑婆の御暇申するがよし。

(『名言の智恵 人生の智恵』谷沢永一編 PHP研究所)

「この世に客に来たと思えば何の苦もなし」と言っています。
さらに「客の身なれば好き嫌いは申されまい」とも。

だから、気をながく保ち、心穏やかにして生きていく。
できれば、お金を使うにも倹約し、無駄使いをしない。

たとえ、朝ごはんが気に入らなくても、「おいしいよ」と感謝して食べる。
この世に客に来たのだから、好きだ、嫌いだといって、
我欲を出し相手を傷つけない。そう言っています。

心の清らさ

私は29才の頃から20年数年ほど、
本山の布教師として全国の臨済宗のお寺を巡り、
お話をしていたことがありました。

各お寺では、布教師さんをお迎えし、
お話をしていただいて、その晩は宿泊の手配をします。
今はホテルや旅館で泊まっていただくのですが、
私が29才のころは、ほとんどがお寺さんに泊まりました。

ですから、よくそのお寺の様子が分かったものです。
長い布教の旅では、30日以上、各お寺さんをまわりお話をしました。

その中で気づいたことがあります。
それはお話をするお寺さんにお客に行くということです。

ですから、我儘(わがまま)がききません。
いつもかしこまって、悪い言葉も使いませんし、
身と心を正していなくてはならないのです。

自分のお寺にいれば、母がいて家内がいて子ども達がいます。
子どもが言うことを聞かなければ、大きな声で叱らなくてはなりません。
母も家内も自分の思うようにはいかないので、ときには不満な思いも出ます。
いくら「気をながく心を穏やかに」と伊達政宗が言っても、
なかなかできるものではありません。

ところが、お話に出かけて、お寺さんに泊まっていると、
好き嫌いも言わないし、いつも穏やかにと思い、心があまり乱れません。
そのお寺にお客に来て泊めていただいているのですから。

そして30日ほど経つと、この私でも心がきれいになるのです。
この思いは今でも、しっかりと思い返すことができます。

身を整える

今日(平成26年の婦人部総会の席のこと)、
この瑞光寺さんに、みなさんもお客様で来られました。
ですから、みなさん、よそ行きの顔をしています(笑)。
服も言葉使いも気をつかっています。

寝間着で来た人もいないし、
普段着でエプロンをして来ている人もいません。
伊達政宗がいうように、心穏やかにしていると思います。

これは瑞光寺さんにいる時で、
家に帰れば、よそ行きの服を脱ぎ、普段着に着替えて、
いつもの自分に戻ります。

旦那さんが無理なことを言えば、穏やかではいられなくなります。
お嫁さんが冷たく接してくれば、心も乱れます。
子どもが言うことを聞かなければ、腹立たしくなります。

そんなときに、この家にお客に来たと思い、
真心をこめて暮らすと、少しでも幸せの道を歩めそうです。

帰依という精神

さらに考えを深めていくと、
この私の命が借りもの、預かりものだという考えにいたるのです。

帰依という言葉があります。
帰依とは神仏を信じることです。
信じるとは素直にそのままを受け入れるとうことです。

お釈迦様が生まれたときに、7歩、歩いた
といったらそのままを信じるのです。
「生まれた赤ちゃんが7歩も歩くなら証明してみてよ。証明したら信じる」
というのは帰依ではありません。

お釈迦様が橋のない川の上をスッと渡ったというならば、
「そんなこともあろう」と素直に信じるのです。それが帰依で、
「川の上を飛ぶように渡る。そんなおかしなことがあろうはずがない。
 何かしかけがあるはずだ。それを証明すれば信じる」
というのは帰依ではありません。

「法華経」の譬喩品(ひゆほん)の中に、こんな言葉が出てきます。

この三界は 皆、これ、我が有(う)なり。
その中の衆生は
悉く これ我が子なり。

難しい仏典の言葉なので、簡単に意訳すれば、

この世界は、仏陀なる私が有(あ)らしめたものです。
その中に生きる人びとは、
みな仏陀なる私と同じ尊い心を宿した仏の子です。

この言葉をそのまま素直に信じること、これが帰依になります。
でも、次にこんな言葉が出てきます。

教えを詔(しめ)すと雖(いえど)も しかも信受せず。

仏陀である私が説いても、みな信じない。
そう言っています。

帰依の心がないのです。
それは欲心に染まっているからだと言っています。

信じない思いがどこからきているのかを、
自らに問うてみることも必要かもしれません。

仏から授かった命

さらにこの「法華経」の言葉を、
もう少し真心こめて生きるというテーマにそって受け取らせていただくと、
「悉く我が子なり」を「仏陀である私が、みなさんに命を授けさせていただいたのです」
となります。前述したように、帰依とはそのこと素直に信じることです。

一般に私の命は両親からいただいたものです。
そして、私の命になりました。

私の命なら自由に使うことができます。
大切に使っても、粗末に使っても、あたりまえのように使っても、
「どうして私を産んだんだ」と親を攻めても自由です。

でも、私の命が仏様から授かったもの、
仏様からの預かりもの。そう思うと、この命の使い方が違ってくるのです。

たとえば、私は結構本を持っているほうですが、
以前、手に入らない本を図書館で借りてきて読んだことがありました。
図書館からお預かりした本です。
自分の本には赤線を引いたり、黄色の線を引いたり、
何か思いつけば、本の欄外にその気づいたことを書いて残します。
でも借りて来た本は、そんなことはできません。
ていねいにきれいに扱って、図書館に返さなくてはなりません。

私の命も仏様からお預かりしているものだと信じて生活すると、
この命を粗末に扱えなくなります。
真心をこめて、この命を使っていかなくてはと思うようになるのです。

生きる力

仏と同じ尊い命を宿していると、
「法華経」の教えを解釈しましたが、
仏の心には、生き抜く偉大な力があります。
ということは私たちにも、そんな力があるということです。

枯れ木に花が咲くという言葉がありますが、春になると木に花が咲くのです。
梅の木も桜の木もそうです。何もない木の枝から花が咲き始めます。
その力はどこからくるのでしょう。

護国寺の隣りにお宮があります。
そこには何本かの欅(けやき)の大木があります。
5月ごろになると、何もない枝から緑の葉が数えきれいほど芽吹いてきます。
やがて緑の葉でおおわれます。その力はどこからくるのでしょう。

この生きる力は、仏の力から来ているのです。

2014年にロシアのソチで行われた冬季オリンピックで、
忘れられない場面がありました。
女子フィギュアスケートの浅田真央さんのフリーの演技です。

ショートプログラムでは、原因不明の不調で16位。
フリーはロシアの作曲家ラフマニノフのピアノ協奏曲2番で演技。
この曲は、ラフマニノフが交響曲1番を作ったときに、
それが不評で自信喪失になり、どん底からラフマニノフが作り上げた曲だそうです。
その曲を使ってのフリーの演技でした。

6種類のジャンプを成功させて史上初の快挙。
演技を終えると、涙した浅田真央さんの表情は忘れられないものがありました。
フリーの得点は自己ベストでした。

真央さんもどん底に落とされ、そこから復活しての素晴らしい演技でした。
当時の報道で、世界中のみんなが真央さんにメッセージを送っていました。

ロシア、この演技には脱帽。
アメリカ、チャンピオンは真央、私は泣いた。
カナダ、クリスマスプレゼントの中にダイヤモンドが入っていた。
ミシェル・クワン、私たちは永遠に忘れることはないでしょう。
安藤美姫、真央を誇りに思う。

挫折を乗り越え、生きる力をみな持っているのです。
宗教的に言えば、これも神仏の力です。

仏の心を知る

生きる力をお話ししましたが、
生きる力のみでなく、仏にはさらにたくさんの尊い心の力があります。

それはやさしさであり慈しみであり、
勤勉や努力、感謝や穏やかさなどです。
それらの思いを使っていくことで、真心こめた生き方ができるようになります。

ここで、ある投書から学んでみます。
67才の女性の方の投書です。

「優しい言葉を」と望んだ母

10年前から母の認知症が進み始め、
かかりつけ医にも「アルツハイマー症です」とはっきり宣告された。
私が大手術を受けたときにも、母は事態を理解できなかった。

症状をこれ以上進行させたくないと私はあせり、
必死に母を励まし叱りもした。私なりに努力しているつもりだった。
しかし、ある年、母の誕生日に「何がほしい」と尋ねて、
その答えにがくぜんとした。

母の答えは「優しい言葉をかけてほしい」だった。
私の言葉は、鋭い刃物のように心に刺さり、母を傷つけていたのだろう。

けれど、母は私のプレゼントした帽子をかぶり、
知人に会うと「これ、娘が買ってくれました」と笑顔で話し、
私の不器用な介護にも文句を言うことはなかった。
そして今年の2月、92歳で人生を閉じる前まで、
私に優しい言葉をかけ続けてくれた。

「優しい言葉」を望んだ母の言葉は、今も私の心に深く刻まれている。

(産経新聞 平成25年12月12日付)

何が欲しいとお母さんに聞いたとき「優しい言葉がほしい」と。
そしてお母さんは娘さんに優しい言葉をかけ続けてくれたとも書いています。

この優しさは仏の心から出てきます。
優しさをみな持っていて、娘さんの内にある優しい思いに呼応して、
娘さんが優しい言葉をお母さんにかけてあげていないことを反省しています。

優しさは仏の心の大切な部分です。
そして、仏の心を育て真心こめて生きていくために、
仏の心を汚す欲心に染まらず、自分を律して生きていくことです。

仏から頂いた命と信じ、感謝を忘れず、
与えられた命を自分の幸せのみに使うのでなく、
縁あって出会った相手の幸せをも大切できるように生きていきます。
また、安易に忘れがちな私たちですから、
時々、仏の教えを受け取り学んでいくことです。

仏様の命を受け取る

それではこのテーマの最後に、仏様の命を受け取る実践をしてみます。
呼吸をゆっくりとし、心を落ち着けます。

両手を前に出し、手の平を上にし、両手に何かを受けとるようにします。
まず、イメージとして赤いリンゴを、両手に想像してのせてください。
イメージですから、実際に手の平には何もありません。
でも、赤いリンゴをイメージすると、両手の手の平に、赤いリンゴが現れます。

リンゴを手の平に出すのと同じイメージで。
今度はリンゴと同じくらいの大きさの
丸い真珠をイメージして手の平にのせます。
真珠はキラキラ光って輝いています。それが仏の命です。

今度はその仏の命である真珠の玉を
ゆっくり胸(心臓のあたり)に持ってきて、身体の中に入れます。
仏の命を頂きました。その真珠が胸の中で、キラキラと輝いています。

どうぞ、その真珠なる仏の命を真心こめて使っていってください。
必ず幸せになれます。