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法話

すべてが宝と知る 1 物の大切さを知る

今月から「すべてが宝と知る」というテーマでお話し致します。
このお話は「法泉会」という法話会の122回目の時のお話です。
平成26年9月25日のことです。

感謝の思いがあれば

すべてが宝と知るというテーマですが、最初の結論のようなことを言えば、
画家の横山大観の言葉に次のようなものがあります。

己れが貧しければ、そこに描く富士山は貧しい

逆に言えば、自分の思いが富んでいれば、富士山も豊かに描けると言えます。

これは別な表現で言えば、
自分が感謝の思いでまわりを見れば、すべてがありがたく見える。
不満の思いでまわりを見れば、すべてが不満に見える。こうなります。

ですから、すべてを宝として見るためには、
自分の心をどうすればよいかになります。

花と草の想い出

この年の9月15日のことです。
お寺の裏の清水が湧き出しているところに、
二つの雑草というのか花が咲いていました。

朝の外掃除をしながら、
その花(私には花に見えたのですが)を見るのが楽しみでした。
一つの花は、調べてみるとアメリカセンダイクサという花です。
もう一つは葉がギザギザで、タンポポのような黄色い花を咲かせていました。

ところがある日、表の掃除をして裏に移動し、
花の咲いている場所を見ると、花がありません。
一つは切られていて、もう一つは根っこから抜かれ、その場に倒されています。

「ああ、誰がこんなことを」と思い、悲しい思いになりました。
一つの花は、根っこから抜かれていたので、もう一度植え直し、水をやりました。

その夜の夕飯のときに、母に聞いたのです。
「裏の清水の出ているところに、二つの花があったのだけれど、
 お袋さんが抜いちゃったの。あれは私が大切にしていた花だったけれど」
と言うと、「あれは花ではない。草だ」といいます。

そこで昔あったことを話したのです。

今は住職をしている息子が、僧堂から帰ってきたばかりのとき、
お寺の裏の草取りをしてもらったことがありました。
そのとき、50センチくらいに成長したひまわりがあり、
そのひまわりの花が咲くのを楽しみにしていたのは、母でした。
それを息子がカマで根元から切ってしまったのです。
その話を思い出し、母に言いました。

「ひまわりが切られた時、どう思った」
「悲しかった」
「草だと思って抜かれた花を見て悲しいと思ったのは、僕も同じだよ」

そういうと、「分かった」と素直に言うのです。

それを聞いていた息子が言うのでした。
「僕が、ひまわりの花を知らずに切ってしまったことも無駄ではなかったね」
と笑うのです。

それを聞いて、それぞれに体験したことは
何かを気付かせていただいた出来事であったと知ったのです。
振り返り見れば、みな宝の体験だったかもしれません。

草花の美しさ

以前、私が書いた本で『精いっぱい生きよう そして あの世も信じよう』という本があります。

その本の134項に、ブラウン先生のことを書きました。
その先生が亡くなる半年前に感じたことが、
『死を看取る医学』(NHK出版)という本に書かれていました。

近々自分の死の訪れることがわかったとき、まわりの景色が
急に特別の輝きをもって私に迫ってくるような感じがするようになりました。
散歩のときに見つけた道端の名もない草花がとても美しく、
私に何かを語りかけているような気がして、いとおしくなります。

そう書かれています。

普通、道端に咲いている名もない花に、
特別な輝きを見るというのはあまりありません。
何気なく通りすぎたり、心を癒されたりする程度です。

名のない花が私に語りかけている。そんな体験をしたことがあるでしょうか。
もう命が半年、そのときの心の状態はどうでしょう。

ブラウン先生は、死も怖くないし、
天国がどんなところか早くいってみたいとも書いています。
そんな心境から見えるものが、輝く花の姿です。花も宝に見えるのです。

枯草も美しい

私自身こんな体験をしたこともあります。

この話は平成26年にしたので、内容も覚えていず、
今回もう一度聞き直しました。すると次のようなことを語っていたのです。
まったく覚えていない体験ですが、「私もこんな体験があったのか」と驚くほどです。

それは枯草も美しいという話です。
一般にはきれいな花を見て美しいというのは自然のとらえ方です。
枯れた花は決して美しくはありません。
本堂に飾った枯れた花を片付けるときには、何気なくその枯れた花を捨ててしまいます。

このお話の中では、その捨てられる枯れた花が輝いて見えると言っているのです。
今まで本堂を美しく輝かせてくれた花。そして使命を終えて枯れ、捨てられる。
その花を見て涙が出て来るのです。「なんて、美しいんだ。ありがとう」と。
枯れ葉も木のくずさえ美しい。そんな気持ちになったことがあったようです。
その時の心の思いはどうであったのでしょう。

物はその人の思いによって変化する

草花の話をしましたが、
草でも、見る人の思いによって、通り過ぎてしまう草もあれば、
可憐だと立ち止まる人もいます。

そう考えると、物は人の思いによって変化するということがわかります。

服でも靴でも、食べ物や、家、土地など、
人の思いによって宝に見えたり、何の価値もないものに思えたりします。

たとえば服で考えてみると、お店に陳列されている服を見て、
素敵だと思う人や、何の興味も感じない人もいます。

ユニクロなどで安価に買っても、
その服が気に入れば、大切に扱うことができ、
せっかく買っても気に入らなければ、
タンスにずっと仕舞いっぱなしということもあるかもしれません。

都会の素敵なお店で5万円もした服ならば大事にして長く使うこともありましょう。
ユニクロでも孫や子どもが、少ないお小遣いから考えて買った、
誕生日のプレゼントの服なら、大切に扱うだろうし、
もし気に入らなくても、粗末にはしないでしょう。

大好きだった祖母の着物ならば、宝のように思うかもしれませんが、
嫌いだった祖母の残した着物であったなら、欲しいとも思わないでしょう。

服一つとっても、そこに何を思うかで、服の価値が変わってきます。

宝の着物

修行僧堂で着る着物はしもふり模様の木綿の着物です。
儀式の時には白衣ですが、普段はこの着物の上に
雲水衣(うんすいごろも)を着て修行をします。
何年も着ていると裾(すそ)がほころび、手直しをしなくてはなりません。

もうずいぶん昔のことですが、私の修行時代に、
先輩の雲水(うんすい・修行をしている禅僧)さんから、
しもふりの木綿の着物をいただいたことがありました。

「僕の二張羅(にちょうら)だ」と言ってくださいました。
その着物をよく見ると裾がほころびすり切れて、
何度も何度も手直ししてあり、大切に扱っているのがわかります。

その着物を見て、修行というものは、こういうものだ
と教えていただいたような気がしました。

辛い思いを何度も繕い、繕いして、修行を重ねていく。
苦しみがくれば、そこから逃げないで、その苦しみと立ち向かい、
「大丈夫、お前なら乗り越えられる」と、心のほころびを手直しし、生き抜いていく。

普通ならば、きれいな着物のほうが良いように思えますが、
私にはその着物が宝のように見え、自らの戒めとして、
その着物を宝として大事に今でもとってあります。

その着物をくださったお坊さんは、
今、静岡の臨済寺僧堂でお師家(しけ)様をしています。
雲水の先生としての指導的立場で、禅を弘めています。
当時も力のある修行僧でした。

草鞋に手を合わす

修行僧堂に、この伊那の地から静岡まで歩いていったことは、
この「法愛」で以前書いたことがありました。

そのとき、草鞋を編んでくれた檀家さんがいました。
「和尚になるために修行に行くのなら、私に草鞋を作らせてください」
と言って、草鞋を4足編んでくれました。

その草鞋をはいて歩いていったのですが、
ワラで編んだ草鞋は強さに欠け、一日はいていると切れそうになってしまうのです。

切れてしまって使えなくなった草鞋を私は、道の端にていねいに置き、
その草鞋に手を合わせ「ありがとうございました」といい、
その場を後にした想い出があります。

その使えなくなった草鞋には、作った人の慈悲の思いが溢れていて、
今でもありがたい草鞋であったと思い返します。

無(ゼロ)死という考え

このお話をした平成26年9月の「法愛」に、ある週刊誌(週刊現代)に出ていた
「無(ゼロ)死のすすめ」という記事が載っていて、それを少し書いていました。

そこには自分が死んだら
「葬式はいらない」「墓はいらない」という人が急増していて、
現代人にとっては霊魂は「想い出」と変わらないレベルになっている、と。

実際、お墓の価格高騰や核家族化、少子高齢化などで、
遺骨を引き取っても、家に置いたままになっている例が増えていて、
こうした遺骨が現在、約100万柱あると書いていました。

この「法愛」に川柳を載せていて、それは
「財産は取り合い位牌はゆずり合い」というものでした。
ある人にとっては位牌もお骨も価値のないものであり、
できればいらないものなのです。

お釈迦様が亡くなられ荼毘にふされて、
そのお骨や灰を8つに分けて持ち帰り塔を建てたといいます。
お釈迦様のお骨を尊い宝と思い、みんながそのお骨を分け合い、
宝としてお参りしたのです。
もし、今、お釈迦様のお骨があったならば、みな尊い宝としてお祀りするでしょう。

東日本大震災で亡くなられた人で、
まだ行方が分からない人は2500人以上にのぼります。
その亡骸(なきがら)をいまだに探し続けている人のいる一方、
尊いお骨を海に捨て、樹木葬といって山に捨てる。そんな人もいます。
尊さとは何かを忘れている人がいらっしゃるということです。

言葉の受けとめ方

家族を宝だと思う人はたくさんおられると思います。
中には、仲たがいして互いに傷つけあってしまう、そんな家族もいるかもしれません。
次の詩は46才の女性のものです。

朝から晩まで

父は朝から晩まで
口うるさかった

元気に挨拶しなさい
すぐに返事をしなさい
背中を伸ばしなさい
箸を正しく持ちなさい
電話は丁寧に出なさい
お小遣帳をつけなさい
時間を守りなさい

だけど父の言葉は
朝から晩まで私を
見ていてくれた証なんだ

(産経新聞 平成26年9月10日付)

口うるさい父をどう見るか、どう思うかで、父の存在が変わっていきます。
この女性は「父の言葉は朝から晩まで、私を見ていてくれた証なんだ」
と受けとめています。そう思えるからこそ、父の大切さがわかるのです。

そうではなくて、
「口うるさい父であったから、今でも父を許せない」
と考えていたら、父を嫌う思いが強くなっているかもしれません。

人は物ではないので、
相手がどんな思いでいるかで自分が左右される場合が多々でてきます。

でも、最初にあげた横山大観の言葉、
「己が貧しければ、そこに描く富士も貧しい」という言葉通り、
相手に不満の思いが募っていれば、そこに見えるものは不満ばかりです。

そうではなくて、自分の心に感謝の思いが満ちていれば、
相手をありがたい存在として受け止めることできるようになります。

物も、そして人も、どんな思いで見つめるか、感じ取っていくかで、
物も人もつまらない存在か、ありがたい宝の存在かに分かれていきます。
できれば、すべてが宝に見えた方が、人生も豊かになります。
そのための努力をおしまない。それが賢明な生き方であると思います。

(つづく)