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法話

すべてが宝と知る 3 見えない心の宝

先月は「生きるという宝」ということでお話し致しました。
生きることが宝であり、一つひとつの出来事を大切に受け止め、
おおらかに生きていく。
そう生きた人が、その生き方にふさわしい光の世界に帰っていく。
そんなお話でした。続きです。

謙虚さという宝

心で思うことは自由です。
そしてその思いは相手には分かりません。
分からないので、油断していると、
悪いことを思っても相手に見えないので、
その悪い思いをそのままにしてしまいがちです。

心の思いには、悪いことばかりではなく、
生きる宝となる思いがたくさんあります。

挙げてみると、
素直な思い、優しい思い、思いやり、慈しみ、
愛、善、無私、努力、謙虚、誠実、感謝、和する思いなど、
さまざまです。

これらは、みな見えません。
素直な思いを見えるものとしてそこに出してくださいと言っても、
確かにあるのですが、それをしっかりとした形として出すことは困難です。

謙虚な思いがあります。
謙虚な思いそのものは見えませんが、その思いが、言葉や行動にでてきます。

ある葬儀のお手伝いに行った時のことです。
亡くなられた人は長年、学校の先生をしていて、良い先生であったのでしょう。
教え子と言われる人たちがたくさんお別れにきていました。

喪主を務めた息子さんも先生をしていて、喪主の挨拶の中に、
「長年父は先生をしていて、小学校のクラスを16組ほど持ち、
 今日もたくさんの教え子が来られて、上の年齢の人は75才になります」
という挨拶をされました。

「教え子」で別におかしくはないのですが、
このような喪主の挨拶の場では、みな年を経ていますので、
「教え子」を「教えさせていただいた方々」としたほうが、
良いのではないかと思ったことがありました。
確かに生徒を教えたのですが、生徒に教えられたこともたくさんあったはずです。

誠実さという宝

私も法話や講演をしますが、
いつも「私のつたない話を聞いてくださって・・・」と思いながら話をします。
上手な話はできませんが、誠実に話すことで、
何か伝わることがあるのではないかと思います。

それを教えてくださったのが、内村鑑三先生でした。
先生は、日本のキリスト教思想家、文学者などと紹介されていて、
『代表的日本人』という本が有名です。

そんな先生にも講演するときに迷いがあって、
その迷いをぬけ出すための方法をこんな言葉で語っていました。
私が書いた『自助努力の精神』という本から引用しています。

「人の前で話をするとき、誠実であることと、
 心の真なる思いがどれだけ尊いかを、知らなくてはなりません。
 その思いが心の中にあれば、いかに話が劣っていても、
 必ず誰かがその話を聞こうとするでしょう」

この言葉に出会って自分の思いを誠実に伝えていったとき、
それから一度も伝道に失敗したことがない、と内村鑑三先生は言っておられました。

これを読んで私もそれ以来、
自分の思っていることを誠実にお話しすることに努めてきて、
何とか以前の悩みから解放されたような気がします。

誠実な心は必ず相手の誠実な心に通じていくのですね。
だとしたら、こちらがまず、絶えず誠実さを示していくことがたいせつなのです。

誠実さをいつも心に念じていないと、忘れてしまうものです。
でも、この誠実さが大きな仕事をしていくのではないかと思います。
その意味でも、目には見えない、この誠実さを心に持っていることは、
生きる宝を持っていることと同じなのです。

感謝という宝

もう一つ、感謝という宝を考えてみます。
次のような投書がありました。
57才の女性で「感謝し感謝されて」という題です。

「感謝し感謝されて」

実家の82歳になる母から電話があった。
「お誕生日おめでとう」。
8月のその日は私の誕生日だったのだ。

思わず胸がいっぱいになり、涙声を隠すのに
「暑い中、私を産んでいただきました、誠にありがとうございました」
とふざけた口調で答えた。

すると母は、
「こんなにいい娘が産まれてきてくれて、こちらこそありがとう」。
こちらの負けだと思った。返す言葉がない。

小柄な母は農家に嫁ぐまでは農業をしたことがなかったという。
父とトマトを作り、お米を作り、乳牛を育て、私と弟を育ててくれた。
本当に感謝している。

10年ほど前、私が入院したとき、
父と母が二人で見舞ってくれたことを思い出す。
父が母の手を引いて帰っていく姿がいまだに忘れられない。

来年も再来年もさらに次の年も、
父と母の誕生日には私が何度でも「おめでとう」と言えるように、
仲良く長生きしてくださいね。

(読売新聞 平成26年9月20日)

こんな投書です。

娘さんが「産んでくれてありがとう」と言って、このお母さんが
「こんないい娘が生まれてきてくれて、こちらこそありがとう」と言った。
娘さんは、こんな言葉が返ってくるとは思わなかった。ありがとうは、
魔法の言葉とよくいいますが、ありがとうと言われて、涙がでるほど嬉しく思い、
感謝しています。

そんな感謝の思いをみな持っています。
その思いを宝として使っていくと、笑顔で幸せに生きられるのです。

悪なる思いが心の宝をくもらす

心の中に思うことは、良いことばかりではありません。
悪い思いも当然おこってきます。

よく言われるむさぼりの心、怒りの心、
愚痴不満の心、うぬぼれの心、疑いの心、
そしてなんでも悪いほうへと思ってしまう間違った見解(けんかい)の心、
この6つが代表的な煩悩といわれるものです。
この思いが人を迷わせ、不幸にするのです。

週刊現代という雑誌の中に、
「最後に間違えた夫婦の末路」という特集の中に、
「子供の住宅ローンの頭金を出してしまった妻」という、
ある人の実話が載っていました。

A(74才)さんは5年ほどまえに、長男一家が家を建てるというので、
夫と相談し、夫が亡くなって一人になったとき、
一緒に住まわせてもらうという条件で、1000万円を出してあげました。
住宅資金贈与では、1500万円まで非課税になる特例があって、
その特例を活用したのです。

そして昨年、夫が亡くなったので、
長男に一緒に住まわせてほしいと電話をしました。

すると長男の妻が電話に出て、
「うちは子育ても忙しいし、同居は難しい」と言います。

「でも、お金を渡したときに、同居の約束をしたでしょ」
と言うと、電話をかわった長男が
「頭金を出してもらったのはありがたいけれど、昔の話だろ。
 こっちに来ても友達もいないし、そのままそこで暮らしたら」
と言われてしまったのです。

Aさんは、一緒に住めば光熱費や固定資産税の負担もなく、
安心して暮らせると思ったのです。

Aさんは自分の国民年金だけで、
つつましい生活をしなくてはならなくなりました。

週刊現代(令和2年11月7日)

この記事の最後に、何のために生前贈与をするのか。
子どもによく思われたいのか。見返りを求めてのことなのか。
安易に贈与をすれば失敗する。そう書いていました。

一緒に住むという約束をして1000万円を長男一家にあげました。
その約束を簡単に破られ、少ない年金だけで、
これから、どう暮らしていけばいいのか、Aさんは不安になってしまいました。

1000万円をいただくときは笑顔でいただき、
5年過ぎて、一緒に暮らすという約束を放棄する。
悲しい出来事です。

むさぼりの心と、母の世話をしないうぬぼれの心が、
そうさせてしまったのかもしれません。

悪なる思いは、心の中にある尊い宝の思いを、
簡単に捨て去ってしまうのです。
この悪なる思いは、自らを律して出さず、できれば捨てることです。

捨てなければ、やがて自分も同じ境遇に立たされ、
荊(いばら)の道を歩まなくてならなくなります。

すべてが宝と知る 4 すべてを宝とするために

宝を探そうとする

今年は新型コロナウイルスのために、
夏の子供会合宿ができませんでした。
毎年、開催している子供会で、さまざまな企画を立て行っていますが、
その中に「宝探し」というゲームがあります。

小さく切った紙に番号をつけて、その紙を折りたたみ、
子供の人数にもよりますが、40個ほど作ります。
お寺の隣が神社になっていて、折りたたんだその小さな紙を、
神社の灯篭の中だとか、大きな木のくぼみの中に、工夫して隠すのです。
その紙を見つけた人には、お菓子ひとつとか、
番号によっては100円店で買ってきたおもちゃをあげます。

お寺の山門の前に子供たちが集合し、
「さあ、見つけておいで」と声を掛けると、
みな「ワーッ」と言いながら走っていきます。
宝を見つけると、得意になって「見つけた。ここにもある」
と叫んで嬉しそうです。

1時間ほどのゲームですが、みな楽しそうに遊びます。
小さな紙を探すのは、探検のようでもあり、
見つけたときの喜びは大きなものがあります。

今回のお話のテーマは「すべてが宝と知る」ですが、
子供たちが隠した小さな紙を探し見つけるように、
幸せに生きる「宝」を探しているでしょうか。

もしその宝が見つかったら、「見つかった。嬉しい」と、
喜びの声をあげたことがあるでしょうか。

幸せになるための宝は、日々暮らしの中にたくさんあります。
その宝は隠されてはいないのです。ただ、気がつかないだけなのです。

感謝の思いが宝を探す力となる

10月号の中に数々の宝をお話ししました。

草花の美しさが宝である。
枯草も美しい、仏様に飾って枯れてしまった花も美しく宝である。
何度も縫い直した修行の着物も宝である。
行脚し履なくなった草鞋(わらじ)も宝である
。父の口うるさいことも、思い返せば宝であった。
そんな宝をあげています。

その根底にあるものはなんでしょう。
そう、感謝の思いです。

前述したなかにも、感謝は宝であるということをいいましたが、
感謝の思いが宝を探す、大切な心の力といえるかもしれません。

とかく人は、恵まれている中にいると、
その恵まれていることに気がつかなくなり、
「あたりまえ病」にかかってしまうのです。

病になって健康の有り難さを知る、というのはよく聞く話です。
健康で日々を暮らしていると、その健康という宝が、
宝として見えなくなってしまう。

そんなときに、感謝の思いを抱くと、
歩くことのできる幸せ、美味しいものを食べられる幸せ、
家族がいることの幸せなど、さまざまな事が
幸せになるための宝に見えてきます。

そしてできれば、自分を支えているすべてのものが、
そこに偶然にあるのではなく、大いなる存在、
神仏から与えられていることを知ることです。

神仏から与えられているからこそ、宝であり、
その宝を両手で受けとめていく。そうすることで、
自らの心にも、神仏の思いが宿るのです。

まとめとして、こんな詩を作ってみました。

輝いて見える

心の持ちようで
まわりの世界が
輝いて見えたり
泥(どろ)のように見えたりします
もし感謝の思いが深ければ
すべてがありがたく
喜びに満ちて見えるはずです

怒りや不満の思いでまわりを見れば
野辺に咲く花も
見えないかもしれません

すべてが輝いて見える
そんな心の思いを宝とするのです

穏やかで やさしく
感謝の思いにあふれる
その思いが
ダイヤモンドのような
輝きのある世界を見せてくれます

そのとき
至福の涙がこぼれ
神仏と一つになった自分を知るでしょう