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法話

今が一番幸せ

このお話は、平成26年11月8日、当寺の花園女性部の集いでお話ししたものです。
25分くらいのお話だったので、1回でまとめてみます。

幸せの貯金

「今が一番幸せ」。そう思うと、心の中に幸せの貯金ができます。
その幸せの貯金は、今使っているお金でいえば、
1円かもしれない2円かもしれない。
でも一日一回、そう思えば、心の中に幸せの貯金ができるのです。

お金を貯金すると、困ったときに、そのお金を使うことができます。
家族に病人ができた。少しお金がいる。その時、貯金を下ろして、病院代にあてる。
洗濯機が壊れてしまった。新しくするためには、お金がいる。
そのとき貯金をしておけば、そこから充当して、
新しい洗濯機を買うことができます。

同じように、心の内に「今一番幸せ」という思いを、
日々少しずつ貯金していくと、困ったときに、
その幸せの思いを使うことができるのです。
これは精神的なことですが、苦難を乗りこえる力になっていきます。

いつも不安だ、幸せになんかなれない。
頭が悪いし、何をやっても上手くいかない。
そんな思いを心の中に貯金していれば、実際に事故にあえば、
「やはり私は幸せにはなれないじゃないか」と、人生を恨んでしまう。

でも、今が幸せという思いを貯金していると、
事故にあっても、これくらいですんで良かったと、
いい方向へと舵をとれるのです。

過去と未来

過去にあったことは思い出すことができますが、
その過去の出来事を今の時点で変えることはできません。
未来に起きることは予想できますが、確定することはできず、
どうなっていくかはわかりません。

この年(平成26年)の11月19日に、近くの中学校の生徒に
「命の重さを知る」という演題で、お話をしました。
その時の生徒が420名ほど、後ろの席で生徒の父母のみなさんが100人ほど。
500人以上の聴衆の中でのお話でした。後で息子が
「あんなにたくさんの人がいてあがらないのか。僕には到底できない」
と言ったのを覚えています。

お話が終わって、女子の生徒会長だったと思いますが、
お礼の言葉を言ってくださり、その中で私の話を上手にまとめてくれました。
また最後に命の歌をみんなで合唱してくれ、その歌の指揮をしたのも、
伴奏のピアノを弾いたのも女性で、やはり女性の力はすごいと思ったものです。

校長先生も、
「自分を大切にするというのは、感謝を忘れず、
 目標に向かって努力を惜しまない自分である、ということです」
という言葉に、ずいぶん感動してくださいました。

一回お話した話は二度話さないという戒めを持っているので、
必ず録音機を持っていって、自分の話を録音するのです。
その時の話は録音したつもりでいたのですが取れていなくて、
今では何をお話ししたのか忘れてしまいました。
できればタイムマシーンがあれば、お話をする前に戻って、
録音をしたいのですが、過去の出来事そのものを変えることはできません。

どう思うかで過去も未来も変わる

今はどうでしょう。自分がどう思うかで変えていくことができます。
食事をいただくことが有り難いと思っている人は感謝して食事をいただきます。
お腹がすいたから食べるだけ、という人もいるかもしれません。
自分の目標に向かって努力をする、そう思えばできます。
別に目標もないから、何事もなく日が過ぎていけばいい、
そう思って今を生きれば、そうなります。

そしてこの今は、過去の出来事は変えることができませんが、
その出来事をプラスに受け止め、今の幸せの素地にすることができるのです。

私の場合、たとえば56才で父が亡くなり、
お寺を継ぐために修行僧堂へ3年ほど修行に行ってきました。
そのとき、頭を剃らなくてはなりません。
町にある床屋さんへ、バスに乗って出かけました。
その床屋さんに着いて、「頭を剃ってください」というと、
「本当にいいんですか」と聞かれました。
頭を剃ることは当時、この世とお別れのような気持ちになり、
帰りはバスに乗る気にもなれず、1時間もかかって歩いて帰って来たことを覚えています。

その時、なんてこの世は思うようにならないんだと思ったものです。
でも、今こうして振り返って、40名ほどの美しい女性部のみなさんの前で、
「今が一番幸せ」というお話ができるというのは、幸せなことだと思うのです。
それも、頭を剃るという、あの時の体験があって、できたことです。

そう考えると、過去の出来事が
今の幸せを作る素地になったのではないかと思えるようになります。
過去の出来事、そのものを変えることはできませんが、
今の思いによって、その過去の出来事が良き体験、
幸せになるための体験に変えることができるのです。

未来も、今の生き方、努力によって、良き未来へと変えることもできます。

今が一番若い

肉体的には今日が一番若いといえます。
明日になれば1日、年をとります。
今年は新しい年なので、みな1才年を取ったことになります。
また、今日よりも昨日のほうが1日若いのです。
このことはあまり考えたことがないかもしれませんが、
年齢でいえば今が一番若く、幸せといえます。

ある新聞(朝日新聞 平成25年11月30日付)に、
「年齢でサバを読んだことがありますか」というアンケート調査がありました。
年齢でサバを読んだことのある人は23%でした。
その理由は、「若く見られたい」とか、
「気持ちも若くなる気がする」という解答でした。

何才サバを読んだのかで、3才から5才年上とした人と、
3才から5才年下という人が多く、ばれたことはないかという質問に、
76%の人がないと解答していました。

67才の女性は
「晩婚だったので、PTAの集まりでは最年長。
 5~6才サバを読んでいたが、運動会の親の徒競走でも互角に走れ、
 ばれなかった」
と言ったコメントもありました。

礼儀作法のマナーでは、
特に女性に対しては10才若く言うのがいいといいますが、どうでしょう。
以前女性部の旅行で、山梨の美術館へ行ったことがありました。
2回ほど行ったのですが、最初に行った時は、60才以上は割引がきくというので、
60才以上の人は誰ですかと尋ねると、そう聞かれた60才以上の女性の人たちが、
あまり気分のいいものではないと言っていました。
その次に行った時には年齢が上がっていて、65才でした。
さらに気分を壊したのではないかと推測します。

精神年齢もある

肉体は日々老化していきますが、
精神は自分が若いと思えば若くいられる、そんな気がします。

私自身60才をすでに過ぎていて、
肉体的にはいろいろなところで衰えを感じていますが、
精神的には年を取らないと思っています。

次の女性もおそらく、肉体的にも若く、精神的にも、
とても若い人ではないかと思います。

ある新聞の投書です。
年齢を後で書きますので、推測してください。
「40代? 若すぎる私」という題です。

「40代? 若すぎる私」

連日、猛暑が続いたある日の午後、街なかのバス停に立っていると、
「ちょっとアンケートに答えてもらえませんか」
と大学生らしき青年が近づいてきた。バスが来るまでの5分間ならと、
彼の差し出すアンケート用紙の質問に口頭で応じることになった。

内容は、景観や、歩道でも自転車走行といった迷惑行為など、
日頃、街で感じていることに関するものだった。
10項目ほど答えたところで、「名古屋市の方ですね」といよいよ最後の質問に。
「そうです」と答えると、「ありがとうございました」と言って、
名古屋指定の生ごみ袋を手渡してくれた。

そこでバスも到着。乗り込もうとすると、
後ろから青年の「年齢は40代でいいですね」と言う声が聞こえ、
「えっ」と振り返れば、
アンケート用紙の「40代」の欄を丸で囲んでいるではないか。

「とんでもない、私は後期高齢者よ。これでバスに乗るのよ」
と敬老パスを振りかざし、車上の人となった。

座席に着くやいなや、思わず噴き出してしまった。
若く見られることはうれしいが、なんと40代とは。
一瞬、暑さも忘れ、気分よく帰路についたのである。

(朝日新聞 平成26年8月23日付)

こんな文章です。

この女性は、果たして幾つでしょう。
76才とあります。

笑顔は自分の年を若くするといいますが、
快く笑顔でこの大学生に対し、接したのかもしれません。
それが若く見られたひとつの力になったように思えます。

中には年より老けて見える人もいますが、
精神年齢は自分の思いで作ることができ、
肉体を去ってあの世に帰えれば、自分が思う年齢になれるともいいます。
今日が一番若く、さらには思いによって、いつでも若くいられるのです。

何事も満足する生き方

今が一番幸せ、今が一番いい、
そう思う一つの方法は、
何事にもこの今を満足して生きるということです。

満足するためには、我欲を取ることと、
与えられている良いところを見つめて生きていくということです。

我欲は満足する思いを消し去ってしまいます。
我欲とは他人のことはかまわずに、
自分の利益のみを欲してしまうあり方です。
自分の利益のみを追い求めても、
この世は自分の思うようにはならないものです。
ですからそこに必ず不満がでてきます。

また今与えられていることに満足せず、
与えられていないものばかり見て、文句を言っていれば、
心もしだいに疲弊し、この今が一番苦しいとなってしまいます。

以前、ある葬儀で、喪主の挨拶に学ぶものがありました。
それは父を亡くした息子さんの挨拶でした。

父は目が悪くてずいぶん不自由をしたと思います。
しかし愚痴をこぼしたことは一度もなく、いつもラジオを聴いていて、
目が見えなくても、こうしてラジオが聴ける、これだけでもありがたい。

そんな意味の挨拶で、
「ああ、このお父さんは立派な人であったのだなあ」と思ったものです。
普通は目が見えなければ、そのことに不満を持ち、
家族にその不満をぶつけてしまいがちですが、
耳が聞こえるという利点を見て、ラジオを聴けるだけでありがたいと言っています。

何事にも満足するのは難しいことかもしれませんが、
このような人もいることを知って、自らの恵まれた所をよく見つめ、
その事に感謝の思いを深めていくことが、
今を幸せに生きる方法ではないかと思います。

奇跡の日々を思う

今、文章にしているお話は、平成26年11月に語ったものですが、
同じ年の9月27日、午前11時52分に長野県と岐阜県の県境に位置する
御嶽山(高さ3076m)が噴火しました。その噴火で58名の方が亡くなられました。

考えてみれば、たまたまその日のその時間に噴火があり
災難にあったと思うのが普通です。ですから山にも登らず、
日々災難に遭わずに暮らしていることを、ごく普通の事として受け取ってしまいます。

でも、違うのです。私たちはどこにいても、どんな災難に遭うか分からないのです。
そんな災難に遭わず平穏に暮らしていけることは奇跡なのです。
そう受け止めていくと、今のこの時を大切に受け止めることができます。

笑顔の花を咲かせる

短歌(読売新聞 平成26年2月13日付)を紹介します。
俵万智さんの選出で、女性の方の歌です。

ひまわりのような笑顔を支えてる
     葉も茎も根もひまわりである

評として
「明るい花は、花だけで存在しているのではない。
 葉や茎や根は、本人自身とも、周囲の人たちとも読める」
とあります。

この短歌を読んで、私自身ひまわりは、
咲いているその花と思っていましたが、
その花を支える葉や茎、そして根もひまわりという見方に、
優れた心の眼をもっていると思ったのです。

花咲く笑顔のひまわりは誰にとってもきれいな花と思うでしょう。
きれいとは思えない葉や茎、そして見えない根が、
その笑顔のひまわりを支えているのです。

今、苦難にあっている人は、
「今が一番幸せ」などと思えないかもしれません。
でも、ひまわりを支えている葉や茎や根が
花を咲かせるためになくてはならないように、
その苦難も、やがて幸せの花を咲かせる尊い出来事になっていくのです。

そう思えたなら、時が過ぎて人生を振り返り見れば、
あの時も幸せであったと思えるでしょう。

俵さんの評のように、葉も茎も根も、
自分の幸せを支えている周囲の人たちと思えば、
いかに支えられ生かされている私であるかを知るのです。

支えられているからこそ、笑顔の花を咲かせることができる。
そう思うと、今度は自らも支えてあげる立場に
身を置くことができるようになります。

その生き方が、「今が一番幸せ」といえる力になっていきます。
今年も「法愛」を心の眼で見つめてください。