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法話

丁寧に生きる 1

このお話は、平成27年3月26日、「法泉会」というお話の会で話したものです。
125回目のことです。当時のことを思い返し、少し書き直しながらまとめてみます。
3回ほどのお話になります。

雑な生き方

丁寧(ていねい)に生きるというのは分かりにくいかもしれませんが、
ある投書を読んでいて、「丁寧に生きる」という言葉がでていたので、
自分なりに、このテーマを考えてみました。

よく自分の生き方を振り返ってみると、
丁寧というよりは雑な生き方をしてきたと反省させられます。

たとえば子どもの頃、よくお手伝いをさせられました。
そのひとつにお寺のまわりの草取りがありました。
私は4人兄弟なので、4人で草取りをしたのです。
父は、草取りの範囲を指定し、「みんなで考えて取りなさい」と言います。

そこで、姉であったと思いますが、その範囲を4つに分けるのです。
そしてジャンケンをして、勝った人から、草を取る場所を決めます。
だいたい同じ広さですが、負けた人は、一番広いと思う場所を取らなくてはなりません。

場所を決めたら取り始めます。
取ってしまえば、自由になるわけです。
そこで雑な寛仁君が一番に取って遊びに行くのです。
草を取った後は、もちろんきれいではありません。

兄弟の中で一番きれいに取っていたのが兄で、
私の取ったところとは比較にならないほど、きれいに取っていました。
兄は大きくなって設計を活かす仕事に就きましたが、
むべなるかな、もっともなことと思います。

うわついていい加減なことを「ちゃらんぽらん」というようですが、
小学校の私の通知表には、そんな文句がいつも書かれていたのを思い出します。
丁寧な生き方とは、かなりかけ離れていたわけです。

テレホン法話のこと

最近思うことは、それでも一つぐらいは
丁寧な生き方があるかもしれないと、思い浮かべてみると、
テレホン法話が一つ挙げられるのではないかと思います。

このテレホン法話を始めたのが、昭和61年9月のことです。
伊那市では初めての試みであったので、当時たくさんの取材を受けました。

最初のお話は「生き方について」というテーマでした。
この話を聞いた人は400人以上おられました。
次第に人気も下がり、今では40人ほどになっています。
今年の令和3年で、35年目になります。
あきらめず、長く続けることも丁寧さからきているのではないかと思います。

このテレホン法話は「法愛」の、みにミニ法話で文章にしています。
3月で256回になります。256回目は、平成26年3月に話したものを載せています。
ですから、7年ほどの原稿がたまっていることになります。

1回のテレホン法話の原稿は、400字詰め原稿用紙で3枚ほどなので、
256回の原稿は合わせると、768枚の原稿になります。
これを本にすると、3冊になります。

子どものころ描いた家の屋根の瓦は、塗りつぶしたような絵でしたが、
このテレホン法話は、一つひとつの屋根の瓦を、
丁寧に描いたようにもたとえられるかもしれません。
やればできるのですね。

丁寧に生きるという投書

ここで、「丁寧に生きる」というテーマを得た、投書を載せてみます。
63才の女性の方で、中学校教諭をなされていた方で、題は「退職後」です。

「退職後」

ひだりてから みぎてに にもつもちかえて
またあるきだすときの優しさ
村木道彦

気がつくと今年も、わずかになってしまった。
年々、時間が早く過ぎるような気がするのは、時代のせいか、年齢のせいか。
退職して半年あまりが過ぎた。

のんびりと1日を、ぼんやりと1日を、にこやかに1日を過ごそう。
これが退職後の私の夢だった。

いつもいつも、学校と子育てでイライラし、ガツガツと食事をこなし、
休日には先回りしてあれもこれも今のうちにやっておこう……。

学校へ急ぎながら、なぜいつもあんなに急いでいたのか、
何に向かって急いでいたのだろうか。

今、息子たちは独立し、夫としゅうとめの3人暮らし。
急ぐことはなくても、家事や介護に結果があるようでないような。

丁寧に生きる」ことを心がけ、「寄る年波には平泳ぎ」とつぶやきながら、
それでも時々夕方には、「ああ、今日は1日何もしなかった」と嘆いたりしている。

「左手から右手に荷物を持ちかえて」
持ちかえるために、ほんのひととき立ち止まる時間。
その時、あらためて、空の深さや木々の美しさに気づく。
そして、また歩き出す時、荷物を持ちかえる前とは、
少しだけ違った新しい自分になれるのかな。
(文中太字は筆者)

(毎日新聞 平成26年12月4日付)

こんな投書です。

この中に「丁寧に生きる」という言葉がでてきます。

洗濯物でも、雑にたたむのと、丁寧にたたむのとではずいぶん違います。
ガラスを拭くのにも、丁寧に拭けば、きれいに仕上がります。
字を書くにも丁寧に書けば、その人の思いが字に伝わってきて、
その字を見て読む人も、心がすがすがしくなります。

では生き方で丁寧に生きるとはどういうことでしょう。
この投書から、5つほど挙げ考えてみましょう。

ゆっくり生きる

まず、1番目です。
この投書の中に「のんびり1日を、ぼんやり1日を、にこやかに1日を」とあります。
ここから「急がずに、ゆっくり生きる」こと、
その格言に「寄る年波には平泳ぎ」とあります。
クロールで早く泳ごうとせず、ゆっくり人生の大海を泳いでいくということです。

人生には急がなくてはならない時もたくさんあります。
バスや電車に乗り遅れないように急いだり、
学校や会社に遅刻しないように急いだり、
期限が決められている仕事を間に合わせようと急いだり、さまざまです。
でも、時には、ゆっくり生きる、そんな時も必要になります。

朝、庭の掃除をしているとき、小学校へ通う子ども達の姿が見えます。
学校に遅れないようにと、朝はみな前を向いて、一生けん命歩いていきます。
中にはこんな時間に、あんなにゆっくり歩いて間に合うのだろうか、
と思う子どももいますが。

でも帰りの子どもたちは違います。
ゆっくり歩き、帰る方向とは逆に歩いていく子もいます。
またジャンケンをして、負けた子が、みんなのカバンを持って、
笑いながら歩いている子ども達もいます。

行きと帰りとでは、子ども達の様子が違うのです。
早く歩かなくてはという思いと、学校も終わったからとゆっくり帰る。
おそらく、見えてくる景色も違ったものとなるでしょう。

100メートルを全力で走るのと、ゆっくり歩くとでは、
まわりの景色も違って見えてきます。

人生でも、早く歩かなくてはならない時、ゆっくり歩いたほうがよい時、
それを知恵を使って選び取り、丁寧に生きていくことです。

考えを少し変えてみる

2番目ですが、この投書の最初に、村木さんの詩が載っています。


次の投書を読んでください。
66才の男性で「『片目をつぶる知恵』を大切に」という題です。

ひだりてから みぎてに
にもつもちかえて
またあるきだすときの 優しさ

右手に荷物を持っていて左手に持ちかえる、
ということはよくあることです。
でも、持ちかえて、また歩き出した時に、
優しさという言葉はなかなか浮かんできません。
疲れた右手を厭(いと)う優しさなのでしょうか。

何か苦しいことや辛いことがあったら、
右手から左手に、その苦しみや辛さを持ちかえてみる。
そのように、持ちかえるということから、
「少し考えを変えてみる」とすると、違った世界が見えてくることがあります。

イソップ物語に「キツネとブドウ」という話があります。
お腹がすいたキツネがブドウを見つけます。
でも、ブドウは高い所にあって、何度飛びついてもとれません。
キツネは考えます。「きっとあのブドウは酸っぱくてうまくないだろう」。
そう思いあきらめてそこを立ち去る。そんなお話でした。
考えを変えてあきらめるキツネの行動です。

昔、嫌なことを言われたり、理不尽なことをされた。
そのときから、そのことが悔やまれてならない。
その場合、右手から左手に重い荷物を持ちかえるように、
できればそこに優しさを添えて、あの人も何か悩んでいることがあったかもしれない、
あるいは私のことを思って言ってくれたかもしれないと考えを変え、
物事をよい方向にとらえて歩きだすことが、幸せの道を歩むこつかもしれません。

立ち止まって、まわりを見る

3番目は、立ち止まって、まわりを静かに見ることです。
この投書の女性は、「荷物を持ちかえるために、ほんのひととき立ち止まる時間」
と書いています。そのとき、人の懐かしさに気づくとも書いています。

本堂へ何かを取りに行った時のことです。
その日はとても日差しが柔らかで、光が本堂の中にさし込んでいます。
その日差しを受けようと、南側のカーテンを開けました。
しばらくそこに立ち止まり、その柔らかな日差しを身に受けていると、
ガラスの汚れに気がついたのです。

そういえば、昨年はコロナ禍で、女性部の活動を休止しました。
毎年女性部の理事のみなさんが奉仕活動の一環として、
お寺の窓ふきをしてくださっていました。
それが昨年できなかったので、ガラスがとても汚れているのです。

一年に一度ですが、
窓ガラスを拭いてくださることがとてもありがたいことだと、
その時改めて知ったのです。立ち止まって、
人への懐かしさ、ありがたさを思いました。

こんなことも思い出しました。
私がまだ若いころでしたが、お盆の棚経である家にお邪魔したとき、
お経が終わってから、是非お茶をと言うので、お茶をいただきながら、
その家の奥さんとしばらく話をしました。

すると、
「この頃、足が痛くて、歩くのがきついの。
 この痛い右足がいけないのよ」
と言って、右足を強くたたくのです。
その姿を見ていて思わず言いました。
「今までお世話になった足をたたいてはいけないですよ。
 いままであなた(足)のおかげで、歩けました。ありがとう。
 そう言ってさすってあげるのですよ。
 さすりながら、左の足で今度は支えてもらいますから、
 ゆっくり痛みを直してくださいね。そう言ったほうがいいですよ」と。

すると、奥さんは
「そうですね。今までお世話になった足ですからね」
と、やさしくさすり始めました。
少し立ち止まり、足のことを考えてあげると、まったく違った世界が見えてきます。

何かに気づいて、大切なものを得る

4番目に、この投書から教えてもらうことは、
今日1日何を得たのだろうと、その日のことを省みることです。
この女性は「ああ、今日1日何もしなかった」と書いていて、最後のほうで、
「また歩き出す時、荷物を持ちかえる前とは、少しだけ新しい自分になれるのかな」
と気づいています。

できるならば、1日ひとつでも、何か大切なことに気づき、
それを心の養いにしてくことが、また丁寧に生きる方法だと思えます。

私自身、この「法愛」を作ったり、お話をする場を与えてもらっているので、
絶えず、何か大切な生き方はないかと探しています。
探せば探すほど、知らないことばかで、勉強の足りなさを反省させられるのです。

ある新聞に、「土俵模様」として、
元関脇の藤ノ川さんのことが載っていました。

弟子を育てることの大変さや、
力士は皆が関取に上がるわけでなく、
数字でいえば1割にも満たない。
大半の子が相撲後の人生を考えなくてはならないとも語っています。

そこに、大きく写した写真が掲載されていました。
よく見ると、相撲の土俵上で両者を立ち会わせて勝負を判定する行司を、
お相撲さん達が胴上げしている写真が載っています。
その下には、こんなコメントが書かれていました。

「土俵模様」

本場所千秋楽の表彰式をくくるのが「神送りの儀」。
初土俵を踏み、来場所から序ノ口番付に載る出世を果たした新弟子が、
御幣(ごへい)を胸に抱いた行司を3度胴上げする。
土俵に降りた神様を再び天に返す儀式。22日の春場所の千秋楽で。

(読売新聞 平成27年3月25日付)

これを読み、やはり神様に見守られながらの相撲なのだと知りました。
そうであるならば、相撲も正々堂々ととらなくてはならないのだと気づくのです。

そして、また歩き出す

立ち止り、何かに気づいたら、また歩き出すのです。
これが5番目です。

人は誰しも命のあるかぎり、前を向いて生きていかなくてはなりません。
歩みだすと、そこにまた新しい出会いや出来事が待っています。
だから死ぬまで勉強というのでしょう。

時は流れ、春には桜が幸せを運び、夏にはひまわりが歌をうたい、
秋にはコスモスが笑みをたたえ、冬には雪の花が舞う。
その季節にあった出来事があります。

これから起こってくるさまざまな事ごとが、
苦しいことかもしれない、幸せなことかもしれない。
でも、何があってもまた歩き出し、そこから多くを学び心の養いとし、
丁寧に、今日の日を生きていくのです。

(つづく)