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法話

丁寧に生きる 3 粗雑な生き方が苦しみを生む

前回は、丁寧に生きるというテーマを少し深め、
「心をこめて生きる」ことが、人生を丁寧に生きることだというお話をしました。

「どんな小さなことでも、心をこめ、ていねいに接し、生きていく」
そんな言葉が思い出されます。続きです。

日本人の丁寧さ

ある和尚さんが、割りばしを包んでいる紙を
折って鶴にしていたのを見て、驚いたことがあります。

その和尚さんも亡くなられてしまいましたが、
普通、なにもせず捨ててしまいます。
こんな小さな紙も、鶴にしてしまう。

折り紙は日本の古来のもので、他の国にはないようです。
私自身は、その紙を折るというより、箸置きに使うのですが、
それも珍しいようです。

コリン・ジョイスというイギリスの記者が
『ニッポン社会入門』(NHK出版)という本を出していて、
英語で書かれたものですが、これを谷岡さんという方が翻訳して、
この題名で本が出ています。

ジョイスさんは日本にしばらく滞在して、
「日本で暮らすにはこれだけは覚えておこう」ということで、
彼自身が驚いたことや感心したことを本の中で書いています。
その中のものを少し引用してみます。

間違いなく日本人はぼくより手先が器用だ。
ぼくは割り箸の入っている袋を折って、箸置きを作る方法を覚えたとき、
自分の人生で最も誇らしい瞬間のひとつに数えている。

日本文化の長所の中に、
「品物をきれいに折りたたんだり、包んだりすること」
をくわえてみてもいいだろう。日本に来て14年になるが、
これはいまだに驚きに近いものを感じてしまうのである。

ぼくはコンビニのおにぎりの包装のようなものを発明するなんて、
とうていできっこない。
ご飯と海苔が離れていて、1、2、3の手順で包装をとけば、
うまくおにぎりになるという、あの仕掛けのことだ。

まださまざまなことを書いていますが、日本人の丁寧さに驚いているのです。

粗雑な生き方

菓子折りなどいただくと、上手に包装紙で包み、
その包装紙もきれいな模様がついていて驚くことがあります。
そのように、生き方も丁寧に生きられればよいのですが、
なかなか上手にはいかないものです。

粗雑な生き方を考えてみれば、
そこに我が出すぎてしまうことかもしれません。
我が出すぎると、意地悪な人になってしまいます。

意地が悪いというのは、意地は心根をいいますから、
心根が悪いという意味になります。

具体的には、
相手の幸せが許せない。
相手が豊かだとおもしろくない。
相手が自分より優秀だと許せなくて嫉妬したり、
相手がちやほやされていると気分が悪くなる。
相手がいい家に住んでいると許せないし、
相手がいい車に乗っていると、その車を傷つけたくなる。
たくさん出てきます。

以前書いたことがあると思いますが、
お孫さんがいなくて、年賀状にお孫さんの写真があると、
それが許せなくて、その年賀状を破って捨ててしまう。
そんな女性もいるようです。相手の幸せが許せなくなるのです。

この「法愛」は毎月出していますが、
他のお寺さんで、このような冊子を毎月出しているところは多くはないと思います。

みな努力して出していただければいいのですが、
この間、お寺に用事で来られた若い和尚さんが、
玄関に「法愛」が並べてあるのを見て「すごいですね」と言うので、
「あなたも出したらどうですか」と言うと、
「私には、そんな力はありません」と言って帰っていかれました。

そんな様子から、他の寺院様と比べ、
毎月冊子を出していることを嫉妬されないように、
「法愛」の事務局の護国寺は、一番最後に小さな字で書いて、
どこが出しているのか、分からないようにしているのです。
いつも目立たないように、いじめられないようにと、
涙ぐましい努力(笑い)をしているわけです。

体調が悪く疲れていると粗雑になりやすい

粗雑には生きたくないというのは誰しも思うことですが、
体調がすぐれなかったり、疲れていたりすると、
つい粗雑な言葉がでたり、行動にでてしまうものです。

静岡の清水にお住まいで、この「法愛」を読んでいる方が、
近くのお寺さんに3月号を持っていかれたようです。

それを読んだお寺さんから、
「『丁寧に生きる』は日常に余白を持たないと、出来ない考え方だと、
 個人的には思います」
というコメントを書いたハガキをいただきました。

その通りで、時間に余裕を持ったり、休みを取ったり、
心と身体を厭(いと)いながら日々を暮らしていくことが大事になります。

このお話をした平成27年2月10日の新聞(朝日)に
「『すまん、母さん』とメモ」という見出しで、
夫が妻を殺害したことが報じられていました。

71才の妻が認知症で5年ほど前から徘徊したり、
夫が作った食事を食べなかったり、湯飲みをわったりして、
夫が介護に疲れ、一緒に死のうと思い、妻を殺害。
夫は自分の首や手首を包丁で切ったのですが死にきれず、
事件が発覚したわけです。

介護疲れは、誰にでもあるでしょう。
そのとき、粗雑な生き方になってしまうものです。

また、その記事の隣りに、
4才と1才の姉妹を母親が殺害したという記事が載っていました。
その原因が、「育児で疲れ自分も死のうと思ったが、死ねなかった」と、
母親が話していたというのです。

同じ日のある新聞(毎日)の歌壇に、
伊藤一彦先生の選で、女性の短歌が載っていました。

産めるなら私が産んであげたのに           殺される子のいるやるせなさ

選出した先生は、
「痛ましい子殺しのニュースが多い。
 上の句の自分に引きつけた表現が、
 下の句をより訴えるものにしている秀逸の作」
と評しています。

介護も子育ても、とても大切な仕事です。
自分ひとりで背負おうとせず、助けをいただきながら工夫し、
時間に余裕を持ち、休みを取りながら、
この仕事に立ち向かっていくことです。
疲れは、本来の優しい思いをくもらせてしまうのです。

なれすぎて粗雑になる

特に仕事において、なれすぎると粗雑になりやすくなります。

「おもてなし」という言葉があります。
おもてなしは表も裏もないという意味で、
口で言っていることと、心の中で思っていることが同じという意味です。

中には言葉は優しいのですが、心では嫌っている、そんな時もあります。
仕事になれてくると、このおもてなしが出来なくなる時があるのです。

私自身、法事や葬儀をしますが、
何度もやっているうちになれてきて、心がこもらない時があります。

先月の「法愛」では、
「心をこめて、ていねいに接していく」というお話をしましたが、
油断すると、できなくなるのです。

お経をあげるのですが、心がこもらない、そうなるのです。
ですから、自分を律しながら、初心の思いを忘れずにいる戒めを持つのです。

10年ほど前にガンで18日間ほど入院したことがありました。
その病院は個人病院でしたが、看護師さんの接し方が丁寧で、
たとえば、患者さんの話を聞く時には、必ず床に立ち膝をし、
上からの目線でなく、下からの目線で、じっと患者さんの目を見て聞くのです。

あるとき、看護師さんに
「この病院の看護師さんは丁寧ですね」と言うと、
「ええ、厳しく指導されるんですよ」と言っていました。

なれすぎて、接し方が粗雑にならないように、
「丁寧に」と、厳しく自分を戒めているのです。
どんな仕事でも、言えることだと思います。

丁寧に生きる 4 心をこめて生きる

自分の良さを生かす

丁寧に生きるために、自分の良さを生かすことが必要です。
そのために、自分の良いところ、
利点とするところを知っていなくてはなりません。

金澤翔子さんという書家がおられます。
ダウン症を患う女性ですが、神がかりのような字を書きます。

かの女が実際に書を書くところも見たことがありますが、
補助役をしていたお母さんの眼差しが印象的に残っています。

お母さんは泰子さんというのですが、
翔子さんが生後52日のとき医師から「知能がなく、歩けない」と告げられ、
絶望に暮れ、隠れるようにして育てたそうです。

一緒に死のうとまで思いつめたとき、
「神は無意味なものを作らない」という言葉に出合い、
真正面から受け止めるようになったといいます。

書家である泰子さんが翔子さんに、厳しく書の手ほどきをし、
10才のときに般若心経を書き上げ、
20才ときに、一度きりと思って開いた個展が評判になりました。
一人でも生きていけるようにと、母が子に授けた書の力は、
翔子さんの利点を伸ばし、30才でひとり立ちしました。

身体に不利な条件があっても、
自分の良いと思われるところを伸ばしていくと、
他によい影響を及ぼしていきます。

そこには粗雑さはなく、丁寧に生き抜いている輝きがあります。

鉛筆のたとえ

ここに鉛筆があります。
それからシャーペンとボールペン、万年筆、赤鉛筆、筆があります。
それぞれに使い方が違います。

私は鉛筆が好きで、濃いほうが使いやすいので2Bを使います。
でも鉛筆は芯が減りやすいので、たくさん字を書く時にはシャーペンを使います。

書類など鉛筆ではダメなときには、ボールペンを使います。
手紙などには万年筆を使い、書を書く時には筆を使います。
最近、花の絵を描きますが、色を添える時には筆で描きます。
本を読み、大事なところには赤鉛筆でしるしをします。

もし、塔婆に鉛筆で戒名を書いたりすれば、当然叱られるでしょう。
大事な書類に鉛筆書きをしても、書き直しをさせられるかもしれません。

それぞれの良い点、使い道を知っているからこそ、
それらのものを生かして使えるのです。

人も同じで、その人の良いところ、利点を生かして、
人に役立つ仕事をすることで、丁寧な仕事ができるようになるのです。

人生を導く良い言葉を持つ

丁寧に生きるために必要なことを、もうひとつ挙げると、
良い言葉(教え)を持つということです。
その言葉を心に染み渡らせ、日々、生きていくのです。

先月、渡辺和子さんの書かれた『面倒だから、しよう』という本の中から、
少しお話をさせていただいたのですが、
その中に、「泥かぶら」という舞台劇のことを書いていました。

真山美保さんの作だそうで、
どろんこのかぶらのように醜い顔をしていた少女が、
旅のおじさんから教えてもらった三つのことを実践し、
「仏さまのような美しい子」になったというお話です。
その三つの事を書きます。

いつも、にっこり笑うこと
ひとの身になって思うこと
自分の顔を恥じないこと

「泥かぶら」という劇は始めて聞くので、
もしかしたら絵本になっていないかと思いインターネットで検索すると、
やはり絵本になっていて、さっそく取り寄せ読んでみました。

原作が眞山美保さんで、文がくすのきしげのりさん、
絵は伊藤秀男さんです。簡単なあらすじです。

その昔、ある村に泥(どろ)かぶらと呼ばれた、
ひとりの女の子がいました。

ひとりぼっちの泥かぶらは、
「なんだ、その顔は、
 なんだ、そのかみの毛は、
 きたねえ、みにくい、泥かぶら!」
と、みんなからばかにされ、ますます人をうらみ、
らんぼうになっていきました。

そんなある日のこと、旅の老人に、
「三つのことを守ればきれいになれるよ」と教えられ、
がんばって、この三つのことを行ない、
どんなにいじめられても笑顔でいて、誰にでも親切にしました。

お父さんの大事なお茶碗をわってしまった
と泣いているこずえちゃんの代わりに、
私がわったとこずえちゃんのお父さんに言い、
こずえちゃんの代わりになぐられました。

ある日のこと、人買いのじろべえが
もみじという女の子を買にきました。
その時、泥かぶらは、
「私の方が病気もしないし元気。だから私を連れていって」
と頼み、もみじちゃんの代わりに、人買いのじろべいについていきました。

旅すがら泥かぶらは笑顔とじろべいの身になって、
じろべいを大切にしました。

じろべいは心を打たれ手紙とお金を残し、ある夜いなくなりました。

その手紙には
「こんなあくにんに、親切にしてくれてありがとう。
 仏さまのように美しい子」
と書いてありました。

その朝、湖で自分の顔を映すと、
そこにはきれいな女の子の顔が映っていました。

こんなお話です。

泥かぶらのように、いつも笑顔で、人の身になって生き、
自分の顔(生き方)を恥じない。
そんな言葉(教え)を心にいただいて、日々、心をこめて生きていく。

そう生きる姿そのものが、「丁寧に生きる」姿なのです。
私もこうありたいと思う。そこから始めてください。