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法話

尊さを見つけだす力 序 何が尊いのか

このお話は、平成27年5月21日に「法泉会」という法話会でお話ししたものです。
6年ほど経っていますので、少し書き換えながら進めていきます。
3回ほどのお話になります。

メジロが子を育てる尊さ

尊さを見つけだすというお話ですが、
日々暮らしに追われていると、現実の生活のみに心を奪われ、
人としての尊さとか、生きる上で何が尊いのかということを、
あまり考えずに、日々を過ごしてしまうものです。

「尊さを見つけだす」という演題で、ともに考えてみたいと思います。

私が事務を執ったり、本を読んだり、お話やこの「法愛」を作っているところが
経蔵(きょうぞう)という建物です。

その建物の個室では、外の景色が見えるところに机を置いて、
外を眺められるようになっています。

窓近くには、ちょうど桜の枝が手に届くほどまぢかに垂れていて、
そこに鳥たちが来て、ひと休みしたり、餌をついばんだりします。
透明な窓ガラスですが、鳥たちにはなぜか私が見えないようです。

ある日、その桜の枝にメジロがやってきました。
メジロは警戒心が強く、近くには寄ってきません。
来てもすぐ飛び去ってしまいます。

その日は、いつまでもメジロが木に止まっています。
どうしてだろうと思っていると、その枝の下のサツキの木に、2匹の子どもがいて、
まだ充分には飛べず、親のメジロから餌をもらっているのです。
親のメジロはあたりを警戒しながら、子に餌を与えています。

その様子をしばらく見ていると、何か尊いものを感じたのです。
あんな小さな鳥が、一心に子育てをし、子を守っている。
親が子を守る姿は、とても尊いものだと、そのとき感じたのです。

最近、小学生や中学生が学校に通う姿を見ていると、
あそこまで大きくするのに、親は大変であったろうと思うようになりました。
子育てという親の苦労を、子どもたちに重ねてみるのですが、
メジロの子育てを見て、
「尊さを知っている人が、相手の尊さを見つける力がある」という、
そんな発見を、そのときしたのです。

お経の尊さ

私はお経をあげる方で、お経をあげていただくという経験はあまりありません。

私の宗派は臨済宗ですが、何かの機会があって、
浄土宗の儀式に参列したことがあります。

そのお経を聞いていると、何だかとてもありがたく思ったのです。
7人ほどのお坊さんが、声をそろえ朗々(ろうろう)とお唱えしている姿は、
とても尊く思えました。

お経の意味はよく理解できなかったのですが、
できないなりに、儀式から感じとる思いは、心を震わせるものがあったのです。

また、ある葬儀のお手伝いに行ったときのことです。
葬儀が始まる前に、喪主の知り合いなのか、亡き人の知り合いなのか分かりませんが、
一人のお坊さんが、お参りに来られ、霊前でお経をあげたのです。
その後ろ姿を見ていたとき、そのお坊さんからオーラのようなものが出ていて、
心があたたかくなる思いがしたのです。

そして思いました。
「ああ、このお坊さんにお経をあげていただけて、亡き人も幸せだなあ」と。
徳あるお坊さんのお経は、なぜか尊く思えるのです。

この尊いと思える力は、どこからくるのでしょう。

どうも、そのような尊さを感じる力をみな持っていて、
できればその尊さを感じる力をさらに重厚なものにしていくと、
さらに人生に厚みがでてくるのではないかと思います。

いのちの尊さ

いのちが尊いということは誰しもが思うことです。
でも、自分が生きていけないほど苦しみの中にあると、
そのいのちを粗末にしてしまう時もあります。

このお話をした(平成27年5月21日)一週間ほど前に、
新聞で無理心中の記事が載っていました。

母親が35才で、長女(15)、次女(12)、3女(10)、長男(9)の
4人の子と共に、練炭で一酸化炭素中毒を起こして、亡くなっていたという記事です。

母親は以前から「死にたい」と言っていたようで、
ネグレクト(育児放棄)の疑いがあったようです。
そのとき、さまざまな意見があったのですが、
子を4人も連れて死を選んだことは、とても悲しく、
いのちがどんなに尊いかを見失った事件だと思います。

幸せなときには、いのちの尊さを感じることはたやすいことですが、
死にたいほどの苦しみや、悲しみに襲われた時、いのちの尊さを失わずに、
生き抜くことは大変なことでしょう。

でも、どんなに辛いことがあっても、いのちを大切にし、
生き抜くことが、人としての使命のような気がします。

いのちを汚すこと

ある年のことです。
近くの学校の教頭先生が訪ねてきました。

先生によると、
「うちの生徒がお金を盗んで、そのお金でお菓子を買って食べた」
と言うのです。

「確かかどうかわかりませんが、今調べているところで、
 もし、そうだとしたら、謝りに来ます」
そう言うのです。

お菓子屋さんが、子どもが持ってきたお金が、あまりにも古く汚れていて、
どこかで盗んできたのではないかと学校に連絡したようで、後で聞くと、
そのお金は、お寺の周りにある観音様にお供えされていたお金であったようです。

後日、教頭先生とお金を持ち去った3人の男の子、
そして大人が3人ほどやってきて、誤るのです。
「この子たちが、お金を盗んだようで、そのお金を返しにきました」と。

その時、3人の男の子たちに、
「これから、3つ善いことをする」という言葉がふっと天から降りてきて、
彼らにこの言葉を投げかけました。

そして3人の子どもたちを本堂に安置してあるお地蔵様に案内し、
お地蔵様にお金を返し、手を合わせて、「すみませんでした」と言ってもらいました。

神様や仏様のものを盗むと、よく言われるように罰(ばち)が当たるのです。
その罰を消すために、善いことをするのです。

その縁で、後日、その学校の先生がたの研修で
「悟りの言葉」という話をさせていただきました。
私にとっては、この子たちが与えてくれた、尊い出来事でした。

いのちの尊さは、そのいのちを相手の幸せのために使うことで、
その尊さが輝きだします。

そうではなく、人のものを盗んだり、相手を傷つけたり、
相手の不幸を喜ぶような生き方をすると、いのちが汚(けが)れるのです。

ですから、どう生きるかで、「尊いのち」が生かされたり、
汚れたものになったりしてしまうのです。

尊さを見つけだす力 1 富と貧しさにあるもの

富と信心

今回のテーマは、尊さを見つけ出す力ですから、
富と貧しさの中に、どんな尊さがあるかを考えてみます。

まず、富ついて考えていきます。

富は尊いものと思えば、富める人になっていくし、
富を否定して、「そんなお金はいらない」と思えば、富は集まってきません。
また、富はその使い方で尊いものになったり、汚れたものになったりもします。
どう富を尊いものにしていくかが問題になります。

富があれば毎日の生活に困ることはありません。
3度の食事を心配なくいただけるのも、富がある故です。

私がお寺に入った時は、20代の前半で、
住職になる時、当時の総代さんから「このお寺では食べていけないので、
和尚さん、何か別の仕事を見つけてほしい」と言われました。
兼職をしてくれということです。

私自身、2つの仕事をかけ持つという、そんな力量はないので、
「他の仕事にはつかずに、お寺を守っていきます」と答えました。
それから、生活を安定させるのに大変な思いをしましたが、
何とか食べていけています。

今考えてみると、微力ではありますが、
信心を持って正直に仏様のことをしていると、神仏が助けてくれる。
そんな結論に至っています。

毎日、「仏様のおかげで、幸せに暮らさせていただいています」と、
感謝をささげています。

飢えということ

飢餓で苦しんでいる人を調べてみると、
2018年には、世界で1日に4万~5万人、
年間では約1500万人以上の人が、飢えで亡くなっています。

そのうち7割が子ども達です。
特にアフリカでは飢餓人口が2憶5650万人もあるといいます。
これらの人たちは、豊かな富があれば救えます。

日本ではそんな人はいないだろうと思われがちですが、
調べてみると「相対的貧困層」という人たちがいるようです。
難しい表現ですが、今までの飢餓とは違い、
その人が飢餓で苦しんでいるとは気がつかない人たちをいうようです。
その比率ですが、7世帯のうち、1世帯もあるそうで、
1人親では半分の世帯が飢餓の状態にあると言われています。

そんな人を助けるために「こども食堂」を
東京都の大田区に住む八百屋さんが2012年に始めました。それが全国に広がり、
手作りであたたかな料理が格安で食べられ、栄養失調の子や、
まともな食事を取れずに病気になりやすい子ども達の助けになっているようです。

このようなことを考えていくと、毎日困らずに食事を取れる、
そんな豊かさがあるというのは富のお陰といえましょう。
そして、そのことに気づくことが尊さを見つけ出す力になっていきます。

尊さが見える

ここで、ひとつの詩を紹介します。
37才の女性の方が書いています。「私の幸せ」という題です。

「私の幸せ」

私の幸せ
当たり前のことが
どれだけ幸せなことか
やっとわかった

話すことの幸せ
食べられることの幸せ
歩けることの幸せ

だけど一番は
それに気付かせて
くれた今と
支えてくれた夫がいる
その存在が幸せ

(産経新聞 平成27年1月29日付)

当たり前のことを、そうでないと気づいたとき、
そこに尊さが見えてきます。

質素な暮しであっても、そこに感謝の気づきがあれば、
幸せがそこにほほえんでいるのです。

貧しさの中の尊さ

誰しもが貧しいよりも豊かで、富んでいるほうが良いと思います。
富があり豊かであることはありがたいことですが、
貧しさの中にも尊いものがあるのです。
貧しさの中で、何が尊いか。生き方に重ね合わせて4つほど挙げてみます。

まず、自分を見つめることができる。
2番目に、物を大切にできる。
3番目に、生きる力を得る。
そして4番目に支える立場に立つことができる、です。

自分を見つめることですが、道元が
「学(がく)するものは貧(ひん)なるべし」という言葉を残しています。

修行とは、余分なものを持たず、必要最低限のものを持ち、
ただ、自らを見つめ、自己とは何かを探求するものです。
お金や車、華美な服や装飾品や豪華な食べ物など、物欲にとらわれていると、
一心に学ぶ姿勢が崩れてしまうのです。
修行僧が、この世のさまざまな情報を遮断して山にこもる意味が、理解できます。

2番目は物を大切にできることです。
私の小さかった頃は、物が豊富にある時代ではなく、
卵ひとつでも尊く、めったに卵かけ御飯など食べられませんでした。
今の時代は、卵は豊富にあって安価で買い求めることができます。
卵かけ御飯など珍しくもなく、ぜいたく品でもなくなりました。
でも、昔、そんな体験をしていると、物の大切を思い返します。

3番目の生きる力を得る、です。
たとえばリンカーンはアメリカの大統領になりましたが、
小さい頃は貧しい農家の子でした。学校も1年くらいしか行っていません。
最初のお母さんであるナンシーは働き過ぎて30代で亡くなっています。
2番目のお母さんはサリーといって、リンカーンに勉強の大切さを教え、
本を読ませたといいます。
貧しい中でも学びながら立派な人生を歩んでいったわけです。
そんな伝記を読むと、私も頑張らねばと、生きる力を与えてもらえます。
雑草のような強さを得るのです。

4番目は支える立場に立つ、でした。
貧しい生活をすることで、貧しさがどんなことかを知ります。
やがて苦労を重ね、富を得たとき、貧しさを知っているゆえに、傲慢になることなく、
貧しさで苦しんでいる人を助けてあげようとする気持ちを大切にできるのです。

こども食堂を開いた人も、きっと貧しさの苦労を知っているのです。
富と貧しさには、その人の生き方で、尊いものになったり害になったりします。
この両者から、常に尊いものを見つけ出す、そんな自分を育てていくことです。

(つづく)