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法話

尊さを見つけだす力 2 目には見えないところにある尊さ

先月は「何が尊いのか」ということでお話し致しました。
その人の考え方や生き方で、同じものでも尊くなったり、
価値のないものになったりするので、できるならば、
常に尊いものを見つけ出す生き方が大切ではないか、というお話でした。
続きです。

尊い生きる姿

まず、ひとつの詩を載せます。
この詩を読んで、今回の「尊さを見つけだす」というお話を作ろうと思ったのです。
51才の男性の方の詩です。題は「義足の姉」です。

「義足の姉」

義足の姉
義足の姉が
階段を降りるとき
足音が響く

何かを失っても
それでも登る者の
足音
満ち足りた者の
足音よりも
遥かに大きな感動で
人の心を満たす

(産経新聞 平成27年3月26日付)

この詩を書いた男性は、何を発見したのでしょう。
何かとても尊いものに気がついたのです。

目に見えるものは、義足のお姉さんです。
耳に確かに聞こえるのは、階段を登る義足の音です。

でも、「遥かな感動で、人の心を満たす」と書いています。
それは、お姉さんの必死の思いで歩く姿、負けずに生きる姿かもしれません。
何か目には見えない尊いものを感じ取っている詩です。

足を切断しなくてはならなかったときの苦しみ、悲しみ。
そして義足をして、歩く訓練を何度もかさね、負けずに立ち直ってきた、
今までのお姉さんの生き方。

さまざまなことが、階段を必死で登る、義足の音に感じ取っています。

涙の姿

義足で走ったり、走り高とびをしたり、走り幅とびなど、
大会に出て頑張っているアスリート(運動選手)をよくテレビで見ます。
簡単に走ったり跳んだりしているように見えますが、
大変な苦労をされているのではないかと推測します。

技師装具士として活躍している臼井二美男(65才)さんの事が
ある新聞(朝日新聞 令和3年2月13日付)に載っていました。

走り、跳ぶ、そんな足を生み出す仕事をし、
今まで3千人の義足を作ってきたといいます。
その義足を作るという「心を決めた」のが、ある女性の涙を見たときだったそうです。

昔は、義足はあくまで生活のためのもので、運動をするという発想はなかったといいます。
そんな中、28才ころの当時、最先端のカーボン製品の存在を知り、
アメリカから部品を取り寄せて手を加え、ある女性に試してもらったのです。

伴走者と一緒に2~3メートル、わずか5歩だけれど走ることができました。
走ることのできた感動で、涙を流す女性の姿を見て、
この道に生きることを決めたのです。

下肢を切断しなくてはならない人は国内で推定7万人ほどいると言われています。
循環系の病気や、悪性腫瘍(しゅよう)、あるいは事故で、
足を切断しなくてはならなくなったのです。

記事ではこんなことが書かれています。少し拾い上げてみます。

病気や事故で体の一部を切断した人は心にも深い傷を負う。
すぐに心を通わせるのは難しい。

「痛みや違和感はありますか?」
「義足で可能性が広がりますよ」
手で触れながら、丁寧に話し合う。
どんな暮らしを、人生を送りたいのか、その思いをくみ取る。

人は動くと筋肉の位置が微妙にかわる。歩く癖(くせ)もそれぞれ。
体の成長や衰えも見据えて、その人の足を作る。

義足になりふさぎ込んでいても、
ショー(2015年に開催した「切断ヴィーナスショー」で、義足の女性がモデルになって歩く)で、
モデルをしたことが自身をつかむきっかけになったという人もいます。

足を切断しなくてはならない、そんな辛さや苦しみは、目には見えません。
ただ義足の姿が見えるだけですが、その姿に、見えない多くのものを見ているからこそ、
互いが助け合い、またそんな尊い仕事をしている人たちが現れてくるのではないかと思います。

そんな目に見えない尊い姿を見る。
そんな人になっていくのが、大切な生き方だと思います。

やさしさは見えない

春から夏にかけて、庭に草が生えてきます。
お寺の墓地にもさまざまな草が生えてきて、そのままにしておくと、
庭も墓地も草だらけになってしまい、清浄な趣が失われるので、
こまめに草を取ったり除草剤をかけます。

墓地は広いので手で草を取っている時間がないので、
除草剤をかけて、草を枯らせます。

息子が除草剤をかけるときに、草に申し訳ない気持ちになるといいます。
私のところでは、思うように草が生えていいという場所を作り、
そこだけは草を取らず、草刈りもせずに、残している場所があります。
そこに生えている草にも、みな花が咲くのです。
その花を見ていると、何故かやさしい気持ちになるのです。

このやさしさは見えません。
「やさしさを、ここに出して見せてください」と請われても、
「やさしさは、これです」と言って出すことはできません。

愛も、慈しみも、思いやりも、みな目に見える形で、
目の前に出すことはできません。でも、確かにあるものです。

見えないけれど、みな尊いものであることを知っています。
その尊いやさしさや愛、慈しみの思いを大切にしながら、日々を暮らしていく。
そんな生き方が大切になるのです。

そのために、この思いはとても尊いものであると知って、
見えないけれど、確かにあるやさしさを見つけ出していく。
そんな心の力が必要になるのです。

今、花が咲いているから

草取りの話をしましたが、
草に関係して、こんな投書を見つけました。

福島県にお住まいの79才になられる女性の方の投書です。
「気づかなかった価値」という題です。

「気づかなかった価値」

2日間ほど雨が降り、花芽や草が一斉に顔を出し始めた。
花壇を見ると細かい草がいっぱい生えている。
今のうちに草を取ってしまわなければと用意をしていると、夫も手伝うと言う。
2人でそれぞれ別の花壇の草取りを始めた。

今まで雪があったので、しばらくぶりの草取りである。
雨が降って土が柔らかく、気持ちがよく取れた。

そのうちに夫が「もう終わった」と言うので、
早すぎると思って行ってみると、まだ一角に草が残っている。

「まだここが取れてないじゃない」
「ここは後にする」
「どうして」
「いま花が咲いているから、花が終わったら取る」

見るとたしかに、1ミリほどの白い花をつけた草が群生していた。
これは草じゃないの、と思ったが、鉢植えにでもしたら、
一見の価値があるように思われた。

夢中で草取りをしていたが、急に悪人になったような気がした。
草も長い間、雪の下に眠っていたはず。
ようやく成長しようとしたところで、むしり取られてしまったのではないか。
きれいな花壇を眺めながら、なんとなく申し訳ない気持ちになった。

(朝日新聞 平成27年4月21日付)

草に小さな花が咲いている。
だから今は取らないという旦那さんや、
雪の下で眠っていた草の気持ちを察して、草を取ってしまったことに、
なんとなく申し訳なくなった筆者さんも、やさしい心の持ち主です。
こんなやさしさを見つけられる力が尊いのです。

見えない世界の真実

神仏も目には見えません、ですから信じない人が多いのです。
目に見えないから信じないというのは、簡単なことです。

6月の月の言葉は「人生の楽な道を行きやすい。しかし、得るものは少ない」でした。
目に見えるものを信じることは、行きやすい道です。
目に見えなくても信じる、という生き方は楽な道ではないかもしれません。
でも得るものはたくさんあるのです。

不幸があって、神も仏もあるものか、と思う人もいます。
こう思うのは簡単なことです。
でも、それでも神仏を信じ、手を合わせる。
難しいことかもしれませんが、必ず、尊いものを、その生き方から得られるのです。

今年の「法愛」5月号に金澤翔子さんのことを少し書きました。
伊那市にある「はら美術」というところに、来られて
「共に生きる」という字を書かれたことがありました。

そのとき、『小さき花』という本と、『別冊太陽』という雑誌を買ってきました。
雑誌『別冊太陽』は「金澤翔子の世界 ダウン症の天才書家」という題で、
その中に、お母さんの言葉が載っています。紹介します。

「お母様が好きだからお母様のところに生まれてきたの」

翔子が寄り添ってきて
私の耳元で秘密を打ち明けるように囁いた。

私は「はっ」とした。
翔子の言葉は深い意味で正しいことが多い。
言語障がいゆえに言葉の少ない翔子の言うことは、いつだって真言である。

母親を選んで生まれてくるという
古(いにしえ)からの噂は本当なのかもしれないと、
その時初めて命の仕組みを垣間見た気がした。

きっと生まれて来る子がダウン症であることを同意して、
二人の合意のもとに私たちは親子としてこの世で結ばれたのでしょう。

今、私はダウン症の翔子を授かって本当に幸せだと思う。
苦しくダウン症の告知を受け、オロオロ悲嘆に暮れて彷徨(さまよ)い、
この至福の境地に至るまでには二十余年を必要とした。

楽な道でなく険しい道を歩いてきて、
生まれてくる見えない世界の真実を信じ、共に我が子と生きてきた、
そこから得たものはたくさんあったでしょう。

この短い文章の中に、どれだけ尊い生き方があったかは、
この親子しか知らないかもしれません。

筆を手にして書をかく時、
必ず翔子さんは手を合わせ、祈りをささげるといいます。
きっと、そうすることで神仏の世界に入りこむのでしょう。

風神と雷神を書く

金澤翔子さんが24才の時、鎌倉にある建長寺という禅寺で、個展が開かれ、
その個展で「風神雷神」という字を書きました。

京都の建仁寺という禅寺にある
俵屋宗達の描いた風神雷神の絵(17世紀前半ごろに描かれる)は、
見たこともないのに、その神の配置と全く同じ位置に書いたのです。
偶然とは思えません。

この字を書く時、翔子さんは
「雷よ来てください。風吹いてほしいな」と思い書いたそうです。

私がそのとき購入した『別冊太陽』に、その字が載っていて、
俵屋宗達の描いた絵と、翔子さんがかいた書が並べて掲載されています。
私自身この絵と字が一緒になった郵便はがきを持っていますが、
知らずに書いたとはいえ、その配置が一緒であることに驚きを感じています。

おそらく、見えない世界の指導があったのではないかと思います。
そういう見えない世界の不思議があるのです。
今では天気予報も、科学的に分析をされて、報道されていて、
そこに神様という世界は全くありません。

でも、です。
風の神様、雷の神様がいらっしゃると信じるのは愚かなことでしょうか。

天は人を捨てない

イソップ童話に「旅人と神」というお話があります。まとめてみます。

1人の旅人が長い旅を終え、故郷に帰ってきました。
しかし、あまりにも疲れていたので、
家の近くにあった井戸端で倒れてしまいました。

寝相が悪く、今にも井戸の中に落ちそうです。
そこに神様が現れ、旅人をおこし、言いました。
「あなたはもう少しで井戸の中に落ちるところでした。
 もし落ちていたら、自分の不注意を棚にあげ、
 『オレはついていない。この世に神などあるものか』
 と、私を呪(のろ)っていたでしょう」

こんなストーリーです。
人生にはさまざまな困難がありますが、そのとき、どう思うかです。

「神も仏もあるものか」と思うのと、
「神様や仏様のお陰で、これくらいですんだ、ありがたい」と思うかで、
生きる尊さが違ってきます。

臨済宗妙心寺派の2世である微妙大師(みみょうだいし)が歌を残しています。

天のその人にわざわいするは
         天いまだその人をすてざるなり

天は神仏に置き換えられます。

神仏は見えません。
でも、実際に私たちを見つめ見守り、正しい道を歩むことを願っています。
そう信じて生きる人生が尊いのです。

(つづく)