ホーム > 法愛1月号 > 法話

法話

花を花と見る 3 さまざまな世界の花を見る

先月は「幸不幸の花を見る」ということで、お話を致しました。
「不幸な人の7つの習慣」と「幸せな人の7つの習慣」をお話し、
過去の不幸と思える人生を「しあわせ色」に染めていく。
そんなお話を致しました。続きです。

ほんとうの世界を見ているだろうか

ひとつの詩から、お話を始めます。
47才の女性の詩で、「蜂とシャツ」という題です。

蜂とシャツ

洗濯物のシャツの胸に
ブローチみたいに
とまった一匹の蜂
柔軟剤の香りを
花と間違えたのか
強い風が吹いても
必死にシャツに
しがみついている
本当に欲しいものとは
違うものに
私も
しがみついて
いないだろうか
蜂はまだ揺られている

(産経新聞 平成28年7月26日付)

こんな詩です。

この詩には「本当の欲しいものとは違うものに、しがみついていないだろうか」と、
蜂の姿から自らを冷静に見つめています。

この詩を、今回の「花を花と見る」という演題から考えると、
「私たちは、まわりの事ごとに、本当のものを見ているだろうか」となります。
誤った見方をしたり、自分勝手な見方をしていないだろうか、という問いにもなります。

これからは隠れず生きる

ハンセン病については難しい問題なので、自らに問う気持ちでお話ししてみます。
ハンセン病については、詩にあったように、
目に見えるものに翻弄され、本当のものを見ていない、そんな気がします。

ある新聞に「ハンセン病 家族、重い口開く」という見出しで、
ある女性(72才)が実名で、その差別の大変さを訴えている記事が載っていました。

このハンセン病を昔は、らい病といって、
伝染する病気とされ、患者は隔離されたのです。
ほんとうは遺伝でもなく、コロナのように感染するのでもなく、
その感染力は非常に弱いものでした。
事実、ハンセン病療養所の医師や職員に、感染者はなかったのです。

この女性の記事を要約して載せてみます。
「これからは隠れず生きる」という見出しがありました。

この女性の父親がハンセン病になり、隔離されました。8才のときです。
家には保健所の職員が押し寄せ、家は消毒だらけになり、
父親の布団などは山で燃やされました。

母親は水産加工場を解雇され、行商を始めたものの、
その日の食べ物にも困り、畑でジャガイモを拾うなどして飢えをしのぎました。

学校では同級生が「寄るな」「腐る」とののしり、
掃除でバケツに雑巾を浸せば、ハンセン病がうつると水を捨てられました。

ある男性と結婚しましたが、
会社でお前の父親はハンセン病とわかると出世できないと殴られ、
歯がおれたこともありました。
子が成人して、離婚しました。

熊本地裁が元患者への賠償を命じた時、何かが変わったと思い、
友人に父親はハンセン病と打ち明けると、連絡が途絶えてしまいました。

裁判を通じて、差別と偏見を受けてきたことを知ってほしい。
ずっと小さくなって生きてきましたが、これからは隠れず生きていきたい。

(毎日新聞 平成28年2月16日付)

こんな記事でした。

これからは隠れず、強く生きていってください。そんな思いがします。

井深八重のこと

このハンセン病のことで思い出すのは、井深八重さんのことです。
本当の世界を見つめることのできた人であったと思います。

井深八重さんに関する本はたくさん出ているのですが、
ここでは次の二つの本を参考にしています。
『井深八重』(星倭文子(ほししずこ)歴史春秋社
『井深八重の生涯に学ぶ』中村剛 あいり出版

井深さんは明治20年会津に生まれました。
21才のときに、長崎県立長崎高等女学校英文科を卒業し、
英語の教師として長崎に赴任しました。

22才のころ、少し身体の不調があったので、病院に行ったのです。
そのとき先生が不在で、代診の方が診て、
らい病(ハンセイン病)の疑いを受けたのです。

代診の方は、先生が不在なので、もう一度来るように言われたのですが、
すでに両親は他界していて、同伴した親戚の人が、もう診察を受けることはないと、
静岡の御殿場にある神山複生(こうやまふくせい)病院へ入院させ、
親族の縁を切られ、名前も堀清子と代えられてしまったのです。

井深さんは、このとき一生に流す涙を出し尽くしたといいます。
そして25才になるまで、そこで療養し、再検査を受けて、
健全で異常なしと診断され、ハンセン病でないことがわかりました。

神山復生病院

井深さんが入院した神山複生病院は、現在では一般外来やホスピス病棟などになっていますが、
日本にある最も古いハンセン病療養所です。

この病院を開いた人が、テストウィードという神父でした。
明治22年のことです。彼が、この病院の設立を決意させた出来事があったのです。
それはあるハンセン病で苦しむ30才くらいの女性と出会ったことでした。

彼女は病気になって夫に捨てられ、
米つき水車の上にしつらえたみすぼらしい小屋に押し込められていました。
床といえば、流れの上に横に渡された数本の丸太の上にしかれた米俵で、
着物は不潔極まるボロボロの古着、
一日一椀の飯でかろうじて露命(ろめい)をつないでいる状態でした。

しかも彼女は失明していて、
永久に人間社会から追い払われ、悲嘆の涙にくれていたのです。

その状態を見て、神父は、
このような人たちのために病院を設立したのです。

誤診の後の井深八重

神山複生病院に入ったときは、レゼー神父に代わっていて、
井深さんの様子を見て神父は「あなたは、どうも病気ではないと思う。
一度東京に行って名医に診断を受ける必要がある」と言われ、
その結果ハンセン病ではないとう診断を受けたのです。

普通、この病気ではないと診断されれば、普通の生活に戻って、
英語教師として働くことでしょう。
しかし井深さんはこの道を選ばなかったのです。

当時レゼー神父は80才に近い年齢で、故国を離れ、地位も名誉も捨て、
病気の人たちを「わが子よ」と呼びいたわり、医療や衣食住にまで心を配っていました。

また、病気で肉体がどのように朽ちても、一人ひとりの中にある魂ゆえに、
人間としての誇りと生きる尊さを教えていたのです。
その神父の姿を見て、井深さんはここに残って働きたいと神父につげます。

ここに残る意志を、次のように言い残しています。

この身に降りかかった出来事は、神の摂理であり、
この身に与えられた唯一の使命である。

日本人の中からひとりぐらい患者の世話をする人がいてもいいはず。
これが自分の使命ではないだろうか。

ここから逃げてはいけない。

そう思い、東京の半蔵門にある日本看護学校速成科(そくせいか)に学びました。
なぜなら、医師になるには6年かかります。
看護師の場合は最短6か月と検定試験でとれるので、看護学校の速成科を選んだのです。
そして、卒業後、病院で働き始めます。

そして「母にもまさる母」と慕われ、92才で亡くなります。

本田ミヨとの出会い

井深さんが長崎から神山に連れてこられて、堀清子と改名され、
誤診であると判明するまでの恐ろしい失意の時に、レゼー神父との出会い、
そして本田ミヨという人との出会いが、この病院で働くことを決意させています。

本田さんは、ハンセン病患者で、この病院で43才で亡くなっています。
先にこの病院に入院していた本田さんは、神山に連れてこられて絶望的になっている井深さんに言います。

「肉体はたとえ崩れても、大切なものは魂なのよ。」

この言葉に井深さんは癒され救われたといいます。
朽ちた肉体を見るのか、その肉体に宿る尊い魂を見るのか。
とても大事なところです。

本田さんが亡くなる前の一日か二日、息も絶え絶えの中、
井深さんに「あなたは最後までここにいるのですよ」と語りかけます。

この言葉を残して逝った本田さんを看取ったとき、井深さんは
「病で別人のように変形した顔が、この世ならぬ輝きを放っている」
と言っています。

そして、この言葉を深く心に刻み、
この言葉を忘れることなく、患者さんのために、生きたのです。

何を見ればいいのか

簡単に井深さんのことを書きましたが、
この生き方の中に、何を見ることが大事かを教えてもらえるような気がいたします。

本田さんが亡くなるとき、顔が変形して本田さんとは別人に見えた、
その本田さんに見たものは、この世ならぬ輝きでした。
本当に大切なものを見ている井深さんでした。

お釈迦様も、こんな教えを説いています。

色かたちによって、わたしを測(はか)り
また音声によって、わたしを訪ね求めた人は、
貪欲や情欲に支配されているのであって
実はわたしのことを知らない

こんな教えです。

お釈迦様の姿を肉体的に見たり、その音声の良し悪しで判断する人は、
欲望に支配されて、本当の私、お釈迦様を見ていない。そう説いています。

「色や顔の形でお釈迦様を見てはいけない。説いている教えが私である」
とお釈迦様は言っています。これを理解するのは、とても難しいことです。

ハンセン病で別人のような顔になった人を、この世ならぬ輝きをもって見るというのも、
凡人にはできないことかもしれません。
でも、そんな見方があると知っているだけでも、深い人生観を得ることができるのではないでしょうか。

さまざまな見方

人生を生きていく中で、さまざまな見方があります。
できればその見方の中に、自分を向上させる見方、自分を幸せにしていく見方、
穏やかにしていく見方、やさしさを大切にする見方、
あるいは相手を思いやる見方、慈しむ見方ができれば、
こんなに素晴らしいことはないと思います。

そうではなく、自分を不幸にしてしまう見方、自分本位な見方、
相手をさげすみ見下すような見方、相手の不幸を喜んだり、傷つけてしまう見方、
そんな見方はなるべくしないように心がけることが大事ではないかと思います。

こんな詩がありました。
「残念石」という題で、61才の岡山市在住の女性の詩です。

「残念石」

大好きな散歩道
西川緑公園の
川の中にある大きな石
大坂城城壁のために
切り出されなぜか
使われなくなった石たち
やりきれない気持ちが
あふれるとき
石に向かって
弱音を吐く
身の上に起きたことを
残念かどうか
決めるのは今じゃない
会釈して歩き始める

(産経新聞 令和6年4月18日付)

使われなくなった石に会釈して、石に何か尊い生き方を教えてもらっている、そんな詩です。
使われなくなった石にも見方によっては学ぶべきものがあるのです。

この「法愛」をお読みのみなさんが、
これからもさまざまな出来事の中に、幸せの花を見つけ出せる見方ができ、
幸せの道を歩んでいけますように、心から念じています。