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法話

さまざまな美しい風景 1 美しい風景の意味を知る

今月から「さまざまな美しい風景」という演題でお話を致します。
このお話は、平成29年2月20日に、
伊那市のウエスト・ヴィレッジという喫茶店でお話ししたものです。

この時の大きなテーマが「人生の意味を知る」でした。
そこで、美しい風景に絡ませながら、
人生の意味について考えていきたいと思います。

美しい風景とは

人生の意味を知るためには、この世限りでは答えが出ないのです。
このお話の中で、「あの世があって、この世があり、この世があって、あの世がある」という、
この世とあの世を行き来する、そんな視点からお話を進めていきたいと思います。
こんなとらえ方もあるのだなあと、思っていただければ幸いです。

さて、この世に生まれてきた大きな理由は、美しい風景を見るということです。
そんな美しい風景をたくさん見るために、この世に生まれてきて人格を深め、
あの世という古里に帰っていくのです。

人生には楽しいことばかりでなく、苦しいことや辛いこともたくさんあります。
でも、その人の人生のとらえ方で、それが美しい風景、すなわち体験に変わっていくのです。

苦しい思いをしたけれど、その苦しみを乗り越えた。
そして、あの苦しみがあって、相手の苦しみをわかってあげられた、
自分が強くなれた。そう考えていくわけです。

苦しみの風景を、美しい風景に変えてしまうのです。

短歌から学ぶ

ここで短歌から、美しい風景を見てみます。3つほど挙げて見ます。
初めに女性の短歌で、俵万智先生の選です。

ランドセルの子どもらの声
駆け抜ける道から朝が色づいてゆく

(読売新聞 平成29年2月6日付)

評として「さまざまな色のランドセル。
そして元気な子どもたちの声。「から」が、とてもいい。
子どもを中心にして街が活気づいてゆく様子が、的確に感じられる」とあります。

朝が色づいていく、という表現は、とても美しい言の葉です。
私も朝、お寺の庭の掃除をしていると、小学校に通う子どもたちが、
話ながら、笑いながら歩いて行く姿を見ます。

私も4人ほど子どもを育てさせていただきましたが、
還暦をすぎると、子ども達の元気な姿が、美しい風景に見えて、
不思議と力をいただけるのです。

次は女性の短歌で、栗木京子先生の選です。

クリスマスケーキを
誰が九つに切ったのだろう遠き昔に

(読売新聞 平成29年2月6日付)

評に「九人家族だった頃の記憶であろう。
奇数に切り分けるのはむずかしく、しかも九等分では一つずつがかなり小さい。
だが賑やかだった日々の楽しさが伝わってくる」とあります。

ケーキを偶数なら切りやすいのですが、九つに切っている家族の笑顔が伝わってきそうです。
私は七人家族で、ケーキを切るときに困りました。
そこで八つに切って、一切れは仏様にお供えしていました。
そのお供えしたケーキは誰がいただいたのでしょう(笑)。
家族の笑顔の時でした。そんな笑顔の風景は、生きる力となっています。

もう一つ学んでみます、男性の短歌で、小池光先生の選です。

さよならにも似ていた母のありがとう
帰京の朝の最後の言葉

(読売新聞 平成29年1月23日付)

評として「故郷に老いたる母を訪ねて、帰るとき母はありがとうと言った。
それが最後の言葉となった。思い返せば胸に迫る」です。

さよならでなく、ありがとうが最後の言葉になったと書いています。
もしかしたら、母はこれが最後かもしれないと思ったのかもしれません。
そんな別れもあるのですね。

私の母も亡くなって、残した手紙に「幸せでした。ありがとう」と書かれていました。
「ありがとう」と言われたことを短歌にした、この男性の人生の風景は、きっと自らも「ありがとう」と言える、
そんな生き方を大切にするでしょう。

この3人の方の短歌から、さまざまな美しい風景が見えます。
この風景から何かを学び取り、その学びが深く心に残って、
人としてのよき生き方になっているのではないかと思います。

旅行のたとえ

多くの人が旅行をし、楽しい想い出を作っていることでしょう。
そんな旅行も計画を立てていく人や、計画も立てずに旅行する人も中にはいます。
特に修学旅行は、あらかじめ綿密な計画を立てて行っている場合が多いと思います。

たとえば、京都に旅行するとします。
私が住んでいるところは伊那市ですから、伊那市から乗り物に乗って、京都に行きます。
そこで観光をし、さまざまな風景を楽しみ、伊那に帰ってきます。

たとえばこの旅を、一つのたとえとしてみます。

あの世が伊那市で、この世が京都です。
あの世の伊那市から、この世の京都に生まれ、
さまざまな体験をし、学び、その中から忘れられない美しい風景を心に刻み、
そして旅の日程が終われば、あの世の伊那市に帰る。

人生も、あの世という地から、この世に旅に来て、
80年くらい過ごして、その間、さまざまな人生の風景を見、
あの世に帰っていくわけです。

神仏が与えてくれた風景

風景といえば、自然の風景が心をいやします。
そんな自然の風景に、神仏が、「そこから尊い学びをしてください」と、
その風景を与えてくれているような気がするのです。

仏教では
「この自然のすべてが仏の現れで、
 自然の風景のなかにどう生きればいいのかという教えが、散りばめられている」
という見方をするのです。
特に禅ではこの教えを大切にしています。

人生のなかには、人として教えられる風景が散りばめられています。
その風景は心に残り、生きる力、知恵になっていきます。
そんな風景にたくさん触れた人、体験した人が、
人生の素晴らしさを知っている人だと思うのです。

こんな詩を見つけました。
75才の女性で、「蕗のとう」という題です。

「蕗のとう」

蕗のとうが
コンクリートの間から
顔を出していた
春が遅いので
どこでもいいわ
と顔を出したのか
それとも行き先を
まちがえたのか
花まで咲かせて
自然界に生けるもの
強さともとれる生命力
神さまに優しく抱っこ
されているようだ

(産経新聞 平成29年5月3日付)

こんな詩です。

コンクリートから蕗のとうが顔を出している。
タンポポや雑草はよく見るのですが、
蕗のとうがコンクリートから顔を出しているところはまだ見たことがありません。
それが生きる強さ、生命力を教えてもらっているようだと、
詩に書いています。

そして最後に、神さまに優しく抱っこされているようだという視点は、
とても尊いと思います。

こんな自然の風景から、生きる強さを学び取り、
そこに神さまの優しさを詩にしたところは、
神さまが与えてくれた風景かもしれません。

神仏の心をいただいて

禅宗でお読みするお経のなかに、「菩提和讃」(ぼだいわさん)があります。
そのなかに、

衆生おのおの仏性を
受けて生まれしものなれば

という一節がでてきます。

この世は苦しみの多いところですが、それ
を乗り越えるために、私たちみんなが、仏と同じ性質をいただいて、
この世に生まれてきたという意味です。

仏と同じ性質を持っているので、
自然の中にある仏の姿を感じることができるのです。

もう一つ詩(産経令和5年7月26日)を載せてみます。
8才の女の子の詩で、「わたしたち」という題です。

「わたしたち」

ねえ、わたしたち
みんななかまって
知ってる?
知らない人でも
わたしたちみんな
神さまからの
おくりもの
だからみんな
ともだちって
ことだよね

(産経新聞 令和5年7月26日付)

こんな詩です。

「神さまからのおくりもの」というところは、仏性と同じとらえ方といえます。
「だからともだち」という表現も出てくるのです。
みんなこのことを人生の意味としてとらえたら、争いごともなくなるのですが。

年輪が教えること

年輪は何を語っているのでしょう。
そこに神仏の思いをくみ取っていくことが、
自然の風景の中に、神仏の姿を見ることにつながっていきます。

木々は夏暑いときには、育ちが早く、それが年輪の幅を広げています。
冬は寒いので育つ速さが遅く、それが年輪の幅を狭くしています。
そして何十年、何百年して、きれいな年輪が作られていき、
それがまた木の強さにもなっていきます。

それを私たちが見た時に、
苦しみとか悲しみの時には、成長は止まるかもしれないけれど、
それを耐えることによって、生きる力がつき、
どう生きていったらよいのかという知恵を、そこから学び取ることができるのです。

また幸せの時には、その幸せを感謝して受け取り、
できれば笑顔で暮し、その幸せを他の人に分けてあげる、
そんな生き方も大事だと、教えているのかもしれません。

こんなとらえ方をすると、
自然のすべてのものから、大切なことを、学び取っていくことができます。

花に教えてもらう

星野富弘さんが、この4月28日、78才で亡くなられました。
事故で身体が動かなくなって、9年間の間、
病院で自分と闘いながら、お母さんの慈悲をいただいて、
口で絵を描き、そこに詩を載せて、多くの人に生きる指針を与えてくださった人です。

星野さんが描いた花の絵と詩は、
自分が絵にし、思ったことを言葉にしたのでしょうけれど、
そこに何か大いなる者の姿を感じとることができるのです。

35才の時にだされた『愛、深き淵(ふち)より』(立風書房)という本の中に、
たくさん詩が載っています。

次に挙げた詩の横には、菜の花が描いてあります。
目次の前に掲載されていて、色のついた絵です。
よくここまで口で描けるようになったと思います。

以前、群馬県にある星野富弘美術館に行ったことがありましたが、
最初に口で書いた字が飾られていて、
この字から、よく上手にかけるようになったと感心したことを覚えています。

菜の花のところに書いてあった詩です。

私の首のように
茎が簡単に折れてしまった。
しかし 菜の花は そこから芽を出し、
花を咲かせた。
私もこの花と同じ水を飲んでいる。
同じ光を受けている。
強い茎になろう。

自分が動けなくなって、
茎が折れた菜の花が、そこから芽を出して、花を咲かせている。
それを自分の生き方に取り入れて、強い茎になろうと書いています。

花から神仏の思いをくみ取り、どう生きることが大切かを学び取っています。

6月になると、お寺の沙羅双樹の白い花が咲き出します。
私もよく沙羅の花のことを引導の中に取り入れ、語るときがあります。
そこに大いなる者はどんな思いで、この花を咲かせているのだろうと感じながら、
沙羅の花を見つめるのです。
美しい花の風景に、心をいやされながら。

(つづく)