法話
考える力が幸不幸を決める 1 考える力
今月から「考える力が幸不幸を決める」という題でお話を致します。
このお話は平成29年5月18日、法泉会という法話の会でお話ししたものです。
137回目のことです。
考え方によって違う意味になる
今回の演題の結論を言うと、
考え方によって幸せになったり、不幸になったりするということです。
ですから、私はこんな境遇に生まれたから不幸だとか、
相手があんなことをしたから不幸になったということでなく、
そんな時もあるかもしれませんが、もう少し、自分のほうに眼を向けて、
自分の考えが不幸にしている、あるいは自分の考えが幸せにしている。
そんな話を共に考えていきたいと思います。
禅宗のお寺で、山門の前に、こんな文句が刻まれている石柱をときどき見かけます。
不許葷酒入山門
これを「戒壇石」(かいだんせき)というようです。
葷(くん)とはニンニクやニラ、ネギなど臭気の強いものや、
なまぐさいものをいいます。
そんな臭い菜や肉、そしてお酒をお寺に入れてはいけない、という意味です。
修行の妨げになるというのでしょう。
でも、調べてみると違う読みかたがあるのです。
たとえば、「許さざれど、葷酒、山門に入る」です。
許されないけれど、葷酒がお寺に入るというのです。
少し読み方を変えるだけで、意味がまったく違ってしまうのです。
これを見て、「こんな考えかたもできるのか」と思ったのです。
次のような読み方もできます。
「葷は許さず、酒、山門より入れ」です。
葷はだめだけれども、お酒ならいいというのです。
よくお酒を般若湯と言い換えています。
ちなみに、お刺身は、赤豆腐というのです。
この7文字を、読み方を変えることで、まったく違った意味になってしまうのです。
これは何を意味しているのかというと、
私たちの生活の中でも考え方を変えると、
まったく違った世界がそこに現れてくるということです。
控えめな幸せ
どなたの作ったものか覚えていませんが、こんな句がありました。
控えめに生くる根深汁(ねぶかじる)
根深汁というのは、ネギの味噌汁です。
長ネギを一口大に切って、出汁で煮て、味噌をといて出来上がる汁です。
冬の味覚で、とても安くできる美味しい汁です。
そんな安価な根深汁をいただくだけで生きる幸せを感じとり、
しかも、控えめに生きることの幸せをも、この句から教えていただけます。
ここから考えられるのは、腹八分目という言葉かもしれません。
お腹いっぱいになるまで食べると幸せかもしれませんが、
後でお腹が痛くなって薬を飲まなくてはならなくなる時もあります。
幸せで考えると、幸せいっぱいではなく、幸せ八分目というとらえ方もできます。
そんな幸せを「法愛」の4月号(平成29年)に書いたのです。
もう1度、振り返る意味で、ここに載せてみます。
少しの幸せ
幸せになりたいのは
誰しも思うこと
だからと言って
自分が
背負いきれないほどの幸せを
抱え込まない
少しの幸せを
ポケットに入れて
それで満足してみよう
幸せという荷物が
軽いから
遠くまで歩いていける
少しの幸せで
満足できるから
大きな仕事も
できるようになる
そして
努力をしていくと
少しの幸せが
生きる力となっていく
こんな詩です。
幸せいっぱいなのはいいけれど、
自分のポケットに入るくらいの幸せのほうが、
何故か安心感があるような気がするのです。
謙虚で欲を控えた生き方です。
ですから「控えめに生くる少しの幸せ」という考え方です。
心が洗われる
この4月の「法愛」を読んだ方から、お手紙をいただきました。
女性の方からです。載せてみます。
拝啓
四月の声を聞いたのに、今日の朝の雪には少しとまどいましたが、
日頃、「法愛」を送り続けて頂き心から感謝申し上げます。
本日頂きました「法愛」四月号も、心洗われる思いが致しました。
「少しの幸せを大切にする生き方」
ずしんと胸に響(ひび)く思いでした。
日々の暮しの中で我欲が「むっくり」芽を出す、そんな日々ですが、
月に一度お送りいただきます「法愛」を読ませていただき、心洗われ、
そして立ち直りつつ・・・、感謝です。
最近は夜の喫茶店法話のほうは、なかなか出席できませんが、
昼間の法話の会でもありましたら、お声を掛けて頂けますと幸いです。
失礼を思いつつ・・・、感謝の気持ちを手紙にさせていただきました。
こんなお手紙です。
尊い生き方が発見できると、
それが我欲を消し、感謝して生きる力になっていくのです。
「法愛」の文章で、この方にとって、心が洗われたようです。
このような考え方ができるというのは、とても尊いことだと思います。
このお手紙の中に出て来る「喫茶店法話の会」は、コロナの影響で休んでいましたが、
講師の先生も少なくなり、中止を致しました。
30年以上も続いた喫茶店での法話の会でした。
認知症になりやすい性格
この「法愛」を読んでくださっている方に、山田昇先生がおられます。
先生は「法愛」が届くと、毎月のように、
自分が調べたことを資料にして送ってくださっていました。
その中に、認知症について調べられた資料がありました。
その資料によると、認知症患者は2025年に、700万人を突破し、
65歳以上の5人に1人が認知症になるのだそうです。
そこには、「認知症になりやすい人の7つの性格」が書かれていました。
どのような考え方でいると、そうなってしまうのでしょう。
その7つを順にあげていくと、
・自己中心
・わがまま
・几帳面
・頑固
・非社交的
・短気
・他を受け入れられない
とあります。
これを私なりに考え、
認知症になりにくい人は、この反対の生き方をすればいいと考えたのです。
まず自己中心は、自分のことだけしか考えないですから、
反対は、相手のこと理解しようとすることです。
相手のことを理解するためには、
相手がどう思っているのか、どんな考えを持っているのかを、
自分なりに考えなければ理解できません。
できれば次の詩のように、素直な思いで相手の好意を受けとることや、
相手を思いやること、笑顔を忘れないこと、そんなことも大事になります。
77歳の女性の方の「素直に」という詩です。
「素直に」
商店街の
階段スロープで
幼い子が
道を開けてくれた
ありがとうと言うと
キラキラの笑顔が
返ってきた
傍らにいたお母さんも
ニッコリ!
こんなときは
心優しい人の好意に
素直に甘えたい
老いてはなおのこと
(産経新聞 令和6年4月25日付)
とてもいい詩です。
この詩の中には、自己中心的なものはありません。
幼い子が道を開けてくれ、ありがとうというと、笑顔が返ってきた。
その優しさを素直に受ける女性。そして老いてはなおのことと書いています。
そんな生き方、考え方が、認知症にならない方法かもしれません。
かたくなな思いを捨て、あたたかな触れ合いを
次はわがままです。
わがままも同じように、自分のことしか考えていません。
また欲が深いともいえます。ですから、少し我慢することが大切になります。
我慢することで、自分が今欲深い思いにあるから、少し自分を律しようと考えます。
几帳面はよいことなのですが、
ときどき適当にいいかげんに生きて、几帳面さに縛られないことも大切です。
頑固ですが、自分の考えを頑(かたく)なに変えないですから、
心やわらかくして、相手の意見を聞いて、うなずいてあげることです。
非社交的は人との交わりを嫌う傾向があるので、
よく外に出て、人との交わりを大切にすることです。
人と人との触れ合いや会話は、脳を活性化させるのです。
こんな詩があります。74歳の男性が書かれた詩です。
「無言」
ある日
カフェでのこと
店のスタッフの
元気な声が飛び交う
ありがとうございます
お待たせしました
客のほとんどは
無言 無表情
それはまるで
コミュニケーションの
通行止めサインのよう
(産経新聞 令和6年11月30日付)
お店の人が明るく元気な声で、
「ありがとうございます」「お待たせしました」
と言っているのに、無言、無表情でいる。
そんな人との接し方が、認知症になりやすいのかもしれません。
「通行止めのサインのよう」という表現は上手いものです。
ここで、できれば「ありがとう」と返す、そんな社交性も必要なのです。
短気はどうでしょう。
考えなしに感情を外に出してしまうのですから、
気長に腹を立てずに、もし怒りがわき起ってきたら、
「おんかかか 腹立てまいぞ そわか」というお経を読むのです。
他人を受け入れられないという場合も、ときどきあるかかもしれません。
すべての人を受け入れることは難しく、嫌いな人がテレビに出ると、
チャンネルを切り替えてしまう、そんな人もいるようです。
でも、普段、生活を共にしている人たちとは、
心を開いて接していくことが大事な考え方ではないかと思います。
これらの認知症になりやすい性格は、自分勝手な考え方にあります。
我欲が強いといってもいいかもしれません。
物事は心にもとづき、
心でどう思い、どう考えているかによって、創り出されるといいます。
できれば、笑顔で語り、思いやり深く、少しの幸せで満足する。
そんな幸せの作り方を活かすと、幸せの花が咲き出します。
(つづく)
