法話
人生の竪琴を弾く 1 みんな美しい音色を持っている
今月から3回にわたって、「人生の竪琴を弾く」というテーマでお話を致します。
このお話は平成29年7月27日、法泉会という会でお話ししたものです。
自分を楽器にたとえてみる
自分自身を楽器にたとえると、どんな楽器を連想するでしょう。
バイオリンでもハーモニカでも、それぞれに美しい音色を持っています。
その楽器を上手に演奏して、その音色で、人の心を癒し幸せにし、
あるいは勇気づけることもできます。
自然の中にも、さまざまな音色があります。
風の音はどうでしょう。
夏の暑い日に木陰に吹く涼しい風は、やすらぎの音かもしれません。
イソップ童話の「太陽と北風」は、
「俺の強さで旅人のマントを脱がせてあげよう」
という北風の驕りの音かもしれません。
中学の時に、吹奏楽に入っていて、トロンボーンを吹いていました。
その音は、強くてたくましく、「俺の音を聞け」という、
そんな音色であったような気がします。
力強さを奏でる楽器です。
「花戦さ」という映画から
この年(平成29年)の6月、「花戦さ」という映画がありました。
時は織田信長や豊臣秀吉が活躍していたころ、
池坊専好(せんこう)という花僧(かそう)のことを描いたものです。
花僧とは、仏に花を供えることで、世の中の安寧、すなわち平和を祈り、
人びとの心を救う僧侶のことをいいます。
彼ら花僧から、伝統文化の「いけばな」が成立していったといいます。
この池坊専好という人は天才的な花人で、
花があればごはんも食べなくてもいいという花狂いの人でした。
演じたのは野村萬斎という人です。
この人は松と花を上手に生けるのが得意で、
映画では200以上の生け花をあらわしていたといいます。
一度見ただけでは、200もあったとは気づかなかったのですが、
この映画の中で、心に残った言葉がありました。
この言葉は専好と千利休との会話の中で出て来た言葉でした。
千利休を演じたのが佐藤浩市さんですが、専好が利休に次のような事をいいます。
梅と桜とどちらも美しいが、はて、どちらのほうがきれいで美しいか。
その問いに利休が答えます。
それぞれに……
梅の花も桜の花も、それぞれにきれいで美しいということです。
昔から梅は香りで花は桜という短歌がよく作られていますが、
寒い2月ごろ、濃いピンク色の寒梅の花を見ると、
その美しさに立ち止まざるをえない、そんな感じがします。
ここから思うことですが、
人はみな違っていて、それぞれですが、
みなきれいで美しい人生の音色を奏でることができるのではないかと思うのです。
毒があっても花
「花戦さ」を上演しているとき、
ある新聞(どこの新聞か失念しました)が、
「『花の力』を信じることは『人の心』を信じること」という見出しで、
池坊専好のことを、次のように書いていました。
「毒があっても、それも花やろ」という専好の台詞がありますが、
その言葉には毒のある花でも、花は花。花としての優劣はないんだ、
という思いが込められています。
そして、それは人間も同じであって、秀吉であろうと町衆であろうと、
人としての優劣はないという信念を持っている、
それが池坊専好という人だと思います。
「毒があっても花やろ」とは、深い洞察のある言葉だと思います。
ここでの毒は人でいえば煩悩かもしれません。
この煩悩の毒にやられると、人としての道に外れてしまうのです。
でも、人間にはみな煩悩ばかりでなく良心があります。
仏教的には仏心といえるでしょう。
この良心が上手に煩悩を使えば、
自らを高め、相手にも幸せを与えられる、そんな生き方ができるのです。
人の心の内にある良心、その良心を使い、
そこから奏でられる音色はきっと美しい響きを醸し出すでしょう。
ひとりの貧しい女性の行い
イエス様の時代に、こんな逸話が残されています。
エルサレムの神殿の献金箱に、
多くの人がお賽銭を投げ入れていました。
それらの人びとに混じって、
ひとりの貧しい女性がほんの小銭を投げ入れました。
彼女は夫を亡くして、寂しい暮らしをしていました。
イエス様は弟子たちを集め、
「誰が1番多くのお金を投げ入れたのか」
と、尋ねられました。
みんなは顔を見合わせて誰だろうと考えていると、イエス様は言います。
「あの貧しい女性こそが、他の誰よりも多くのお金を献金箱に入れたのです。
なぜなら、みんなはあり余っているものの中からお金を入れたのですが、
あの貧しい女性は、乏しいなかから持っているお金を全部、
暮しの費用の全部を入れたのですから」
暮しの費用を全部というのは、なかなかできないことですが、
貧しい中でも神のために施しをしたという、その尊さを語った逸話だと思います。
この女性の行いは、どん欲という煩悩の毒に犯されることなく、
神のために布施をするという、きれいな花を咲かせています。
あるいは、今回のテーマで言えば、竪琴の美しい音色を奏でていると思います。
貧者の一灯
これと似た話がお釈迦様の時代にもありました。
ラージャグリハという国のある場所で、
阿闍世(あじゃせ)という王が、お釈迦様に飲食を施し、
祇園精舎まで、お釈迦様を送っていきました。
そのとき、王は大臣に、次は何をほどこしたらよいかと聞きました。
大臣は燈明がよいでしょうと、提案をしました。
そこで王はたくさんの麻油(まゆ、麻の実の油)を祇園精舎に届け、
その夜はたくさんの燈明が灯されました。
そのことを聞いた村の貧しい老女が、
わずかなお金で少ない油を買い、お釈迦様の前で灯し、帰っていきました。
その夜は、王の施した燈明が灯ったのですが、
朝までに消えてしまうか、油が切れて燃え尽きてしまいました。
しかし、貧しい女性の一灯は朝まで消えることなく、
まだ油が残っていたといいます。
まだ続きがありますが、
貧者の一灯というお話は、2600年経っても残っていて、
布施の精神の大切さを奏でています。
どん欲という毒に犯されることなく、良心から出てくるきれいな音が、
何年も消えずに、響き渡っているといえます。
資源ゴミの持ち去り
ある新聞に「ごみ持ち去り急増」という記事が載っていました。
資源ゴミを盗むというのです。
(毎日新聞 令和7年5月20日付)
私が地区の役員をしていたとき、
資源ゴミの管理をしたことがありますが、
そのときは一晩その場所においても盗む人はいませんでした。
コロナやウクライナ侵攻で、アルミが高騰していて、
アルミ缶を盗むのです。
持ち去られた資源ゴミの種別では、やはりアルミ缶が一番多く、
次に古紙、金属類が続くようです。
この不燃ゴミを持ち去り、回収業者に売る行為は
以前からもあったようですが、急増の裏に、
アルミニウムの価格高騰があるといいます。
5年ほど前はアルミ缶1kg55円だったのが、
現在は170円と3倍に跳ね上がっているといいます。
環境庁の調査では、持ち去られてごみ売却量の減少で、
収入減少を訴えた自治体が238市区町村に及んでいるといいます。
持ち去って、販売業社に売るのは、楽なことです。
毒に犯された行為で、ここからは決して良い音はでないでしょう。
ありがとうの音色
ある方から、7月号(平成29年の「法愛」)の「法愛」は、
涙を流さずには読めないというコメントをいただきました。
この方はガンになって、その病気に苦しんだといいます。
どんな文章を書いたのかを確認すると、2つの詩が載っていました。
ひとつは「幸せになれる」という、私が作った詩です。
もうひとつは「あの日から」という、
ある新聞に掲載されていたものです。
54歳の女性の方の詩です。
おそらくこの詩を読んで感じる所があって、涙したのだと思います。
最初の詩を載せてみます。
「幸せになれる」
自分の足りない
ところばかりを
数えていると
幸せになれません
幸せになりたいのなら
自分の足りているところを
数えるのです
足りないと思えば
不満もでます
不平もでます
恵まれないと思うから
不幸だと思うのです
足りていると思えば
少しのことでも満足し
心も安らぎ
ありがたいと思えてきます
恵まれているから
相手にもわけてあげたいと
思うようになります
小さなことでいいのです
恵まれているところを
数えてみましょう
こんな詩です。
コメントをくださった女性は、
病になって、自分の恵まれているところに気づいたのです。
そんな気づきをいただいたのが次の詩だと思います。
「あの日から」
たくさんの
ありがとうをいいたい
青空に雨雲にも
そよ風にも木枯らしにも
身内にも苦手な人にも
地にしっかり足をつけ
地球の元気を吸い込む
毎日の忙しさの中
見失っていた大切な事が
たくさん見えてくる
そうそれは
あの日から
がんと告知された
あの日から
(産経新聞 平成29年5月16日付)
がんと告知された、その日から、
青空にも雨雲にも、そよ風にも木枯らしにも、
そして身内にも苦手な人も大切であるということに気づいた詩です。
がんで思い出すのが、こんな話です。
旦那さんががんになって、今までのあたりまえの生活が消えてしまった。
何とか治って、家族みんなで買い物に出かけた。
地下の駐車場に車を止めたとき、排気ガスの匂いがした。
今はその排気ガスを嗅げることさえもが、幸せに思える。
そんな奥さんがおられました。
人生を生き抜く時、人生の竪琴を弾く時、大切なことは、
足りないところばかりを数えるのでなく、
与えられ、恵まれているところを数えるということです。
そうすると、大切な事がたくさん見えてきて、
ありがとうという曲を弾くことができます。
この言葉は、美しい音色を出して、自らも相手も幸せにしていきます。
(つづく)
