法話
何を見つめて生きる 2 花の見つめ方
先月は「それぞれの見つめ方」ということで、
人としての生き方を思いつくままに、お話ししてみました。
今回から、もう少し具体的な見方をお話できればと思います。
続きです。
花の思い
花は何を見つめて生きているのでしょう。
花の思いを感じとることが難しい私たちにとって、
想像するしかありませんが、
確かに花は何かを見つめて生きているはずです。
まず、花を見て、
人が花に何かを感じ取っているという見方があるでしょう。
それぞれの人の立場や生き方によって、
花を見つめる思いも違っているかもしれません。
あるいは、神仏がその花に何かを託して、
その花をお創りになったという見方もできます。
また、花自身、何を見つめて咲いているのでしょう。
どんな思いで花を咲かせているのでしょう。
そんなこと事を考えながら、お話ししていきたいと思います。
花の名前
まず、ひとつの詩から考えていきます。
83才の女性の詩です。
「野辺の花」
野辺に草花が
精一杯咲いている
どの草花も名がある
可愛い名前
優しい名前
色々ある中に
へくそかずら
地獄の釜のふた
継子(ままこ)の尻ぬぐい
などの名を貰い
不平不満無く
咲き誇る花たち
そっと手を
さしのべてみる
(産経新聞 平成29年9月12日付)
「へくそかずら」という花ですが、
木や草にまきついて可愛らしい小さな花を咲かせています。
漢字で書くと「屁糞蔓」と書くようです。
名前の由来は、
花や葉を傷つけると便臭がすることからきているようです。
臭い匂いで、自分を守っているのかもしれません。
アカネ科で、別名「ヤイトバナ」です。
小さな可愛らしい花なのに、
へくそかずらとは、可哀想な気もします。
でも、不平不満なく咲いています。
花の見方が、少し傲慢(ごうまん)のような気もします。
「地獄の釜のふた」は、「キランソウ」ともいいます。
3月から5月ごろ咲き、藍色で、
地面に蓋をするように張りついているところから、
この名がつけられたようです。
誰がつけたのでしょう。
地獄から迷って霊が出てこないようにと思ったのでしょうか。
「継子の尻ぬぐい」の花も、ずいぶん変わった名前です。
継子というのは、親子と血のつながらない子、実子でない子をいいます。
この花の茎や葉にはトゲがあって、
トゲのある茎や葉で、継子の尻をふく草という意味から、
この名前がつけられたそうです。
いずれにしろ、こんな名前をつけられても、不平不満なく咲いている。
そんな花から、学ぶことがたくさんあります。
詩を書いた女性も、
そっと手をさしのべているとこをみると、優しい人なのです。
はなが さいた
詩人のまど・みちおさんはたくさんの詩を残されています。
11年ほど前、104才で亡くなられています。
有名な詩では
「やぎさん ゆうびん」や「ぞうさん」などがあります。
『まど・みちお全詩集』の中に、「はなが さいた」という詩があります。
「はなが さいた」
はなが さいた
はなが さいた
はひふへ ほほほ
はなが さいて
みない ひと いない
はなが さいた
はなが さいた
ほへふひ ははは
はなが さいて
おこる ひと いない
(『まど・みちお全詩集』 理論社)
「はひふへ ほほほ」というところから、
花を見ると笑顔がこぼれる情景を想像できます。
咲いている花をみんなが笑顔で見て、おこる人もいない。
そう詩で書いています。
まどさんの、素直に花を見る姿勢を感じることができます。
できれば人間の私たちも、おこらず笑顔で接していく。
そんな人間関係を花が望んでいるかもしれません。
神さまのなさること
花の絵を描き、そこに詩を載せていて、
しかも手足が動かず、口で筆をくわえて描く。
星野富弘さんのことは、この「法愛」で何度も書きました。
『あの時から空がかわった』(Foret・Books)の本の中に、
マムシソウという花を描いて、詩を載せています。
この名前、誰がつけたのでしょう。
ひとたたきで折れてしまう
かよわい茎だから
神さまはそこに
毒蛇の模様を描き
花をかまくびに似せて
折り来る者の
手より護っている
やがて秋には
見かけの悪いこの草も
真紅の実を結ぶだろう
すべて
神さまのなせること
私もこの身を
よろこんでいよう
(『あの時から空がかわった』 Foret・Books)
マムシソウの花を神さまがお創りになって、この花を守っている。
そんな詩です。
そこから動けなくなった自分の身を、
よろこんで受けいれようとしています。
この動けない身も、神さまが与えてくださって、そんな身であっても、
「強く生きぬく生き方をしてください」と神さまが語り、守ってくださっている。
そう星野さんは悟られたかもしれません。
神仏が花に何かを託して、花をお創りになったという見方もできるのです。
菩薩の花の見方
仏教的には、花をどう見るかです。
『華厳経』(けごんきょう に、菩薩の花の見方がでてきます。
華厳経のことは少し難しいので、詳しい説明ははぶきます。
菩薩というのは、自分の修行課題を終え、
相手を幸せにするために、どうすべきかを常に考えている人のことをいいます。
華厳経の中の「浄行品」(じょうぎょうぼん)に、
こんな一節が出てきます。
樹に咲くきれいな花を見たならば、
衆生が花のように浄らかなるさとりを開いて、
仏のような勝(すぐ)れた相(すがた)を円(まど)かに具えるように
と願うべきである。
(鎌田茂雄 『華厳経』 東京美術)
樹に咲く花といえば、桜を思い浮かべます。
衆生は人びととします。
ですから桜の花を見たならば、
人びとがその桜の花のように清らかな心にめざめ、
仏のようなほほえみをたたえた姿になって、相手の幸せを思う。
そんな人にみんながなれるようにと願う。そんな意味になります。
そんな花の見方を菩薩はするというのです。
たとえば、春咲くスミレの花を見て、きれいだと思うのと、
みんながスミレの花のように、きれいな心で生きられるように、
そのために私は何をすればいい。
そのようにスミレの花を見るわけです。
もうひとつ、
無憂樹(むゆうじゅ)の林を見たならば、
衆生が心に喜びを得て、永く憂いが除かれるようにと願うべきである。
(鎌田茂雄 『華厳経』 東京美術)
無憂樹はお釈迦様がお生まれになった時、咲いた花といわれています。
無憂樹の花を見たなら、人びとが心に喜びを得て、
日頃の憂いの苦しみが早く消えていくようにと願うのです。
菩薩というのは、そのように花を見るのです。
このお経には花ばかりでなく、
橋を見たならば、流れる水を見たならば、高い山を見たならばなど、
菩薩がそれらをどう見るかが書かれています。
このような見方は私たちにはできないと思いますが、
菩薩はこのように花を見ているのだということを知るだけでも、
学びになります。
千円の使い道
そこで、私たち普通の人として、
どう日々の在り方を見ていけばいいのかを、
ある投書で学んでみます。
56才の女性の方で「三女の『初任給』千円の使い道」という題です。
ここには8個の人を感謝の眼で見ることが書かれていて、
その一つひとつを分かりやすく書いてみます。
「三女の『初任給』千円の使い道」
この春、三女は特別支援学校高等部を卒業し、福祉作業所で働き始めた。
待望の「初任給」は3月の4日分で千円。
成長の重みが詰まったお金だ。
使い道は、支えてくださった方々に出す手紙の切手代にしたい。
ダウン症と分った時に、(番号をつけたのは筆者です)
1番目の見方として
「『大丈夫。皆で力を合わせればきっといい子に育つから』
と希望をくれたおばあちゃんへ」
2番目
「雨の日も風の日も小中学校に送り迎えしてくれた
もう一人のおばあちゃんへ」
3番目
「保育所探しに奔走していた時、
『自尊心を大切に育てていきましょう』と笑顔で応じてくださった
保育所の所長先生へ」
4番目
「足の装具を毎日何度も着脱して
トイレに連れて行ってくださった保育所の先生へ」
5番目
「連絡帳で毎日ともに悩んで喜んでくださった小学校の先生へ」
6番目
「良いところを褒めて励ましてくださる習字の先生へ」
7番目
「通学路線バスで温かく見守ってくださった知人へ」
8番目
「行方不明になった時に心配して家まで来てくださった同僚へ」
この18年間、三女の周りにはいつも温かな風が吹いていた。
私たち家族も優しい気持ちになれた。
明るく素直に育ててくださった方々へ、感謝を届けたい。
(朝日新聞 平成29年6月8日付)
三女の女性がダウン症で、みんなにお世話になって、
初任給の千円を、お手紙を出す切手にしてお礼をしたい。
そのお礼の人たちは8名。
みな支えてくださった人たち。
感謝の思いがなければ、こんな見方はできません。
三女の女性は菩薩様のような見方をしていると思います。
それをただ思うだけでなく、支えてくださった方々に
お礼として手紙を届ける。
感謝の思いを実行にうつしているところが立派です。
この姿勢に頭がさがる思いがします。
花自身は何を見つめて咲いているのか
それでは、花自身、何を見つめて咲いているのでしょう。
花に聞いてみればわかるのですが、多くの人の中には、
花の思いや、花が語る言葉を理解する人がいるようです。
推測ですが、花を人が見て
「きれいね。美しい。癒されるわ。この花、なんて可愛いんでしょう」
そう言葉で伝えると、きっと花も喜びを感じていると思います。
そして花が「あなたも幸せに」と思っているかもしれません。
本堂の花に語りかけると、いつもよりも長く咲いていたり、
お寺にある銀木犀が、いつまでたっても咲かないので、
「切ってしまおうか」と銀木犀に語りかけると、
翌年、花を咲かせたので、花も人の言葉を理解するのだと思います。
また、仏壇などに飾る花も、皆から手を合わせていただけます。
それは花にとっては、とても幸せなことだと思います。
野に咲く花に手を合わせ拝む人は少ないでしょう。
でも、仏様にお供えした花は、みんなから手を合わせてもらえます。
その花の幸せは、尊い使命を果たしているということではないかと思います。
きっとそうです。
(つづく)
