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法話

理解力を養う 3 我欲という悪魔

先月は理解力の2回目で、幸せになるための理解力についてお話を致しました。
今回3回目で、最後の章になります。

させていただく方が幸せ

幸せで考えられることは、自分がしていただく幸せと、
こちらがしてあげる幸せがあります。

していただく方は自分が動かないので、楽ですし、満足感もあるでしょう。
こちらがしてあげる方は、自分が実際に努力をし働いて、相手を幸せにしてあげるのですから、幸せ感は少ないかもしれません。

たとえば食事を考えてみましょう。

夕飯に料理を作ってもらって、それを食べる。
美味しくいただけて、嬉しく幸せな思いになります。

作る方はどうでしょう。
何を夕飯に作っていいのか考え、冷蔵庫の品を見たり、足りなければ買い物をし、
栄養も考えながら1時間ほどかけて料理をしたとします。

できたら、家族のみんなにその料理を食べてもらいます。
何もしないで食べる方が楽なのですが、どうでしょう。

その料理をみんなが「美味しいね」といって食べてくれれば、
結構作った人も幸せな気持ちになれるのです。

両者を比較していえば、どちらも幸せですが、
後者の方がより幸せ感は高いと思われるのです。

先祖様に線香を手向けたり、初物(はつもの)を最初にお供えしたりして
供養を怠らない。

先祖様は何も言わないのでほめてもくれませんが、初物を供えている人のほうが、
何もしないでいる人より、幸せ感は大きいと思います。

お仏壇で手を合わせ感謝している人の方が、
何もしないでいる人より、幸せは大きいと思います。

席を譲った方が何もしないで座っている人より幸せであると思うし、
ゴミを拾って公園をきれいにしている人のほうが、
何もしないでいる人より、幸せではないかと私は思います。

自分が掃除をしたきれいな公園で、
子供達が楽しく遊んでいる姿を見るのもよいものです。

お釈迦様は私たちが、まずしなくてはならないことは、
施(ほどこ)しであり布施であると言われました。

なぜならば、それが自分の幸せを築いていくからです。

我欲というくせ者

こんな幸せ感を崩してしまう、くせ者がいます。
それが「我欲」です。

禅的には「我(が)」といってもいいでしょう。

迷っている人に禅ではよく、「我を捨てなさい」といいますが、
その我をここでは我欲と言い表し、お話を進めてみます。

他の人の幸せのために働くには、相手をよく理解しなくてはできないことです。

この我欲に自分が縛られてしまうと、
相手の身になって考えることができなくなるのです。

自分を律して強く生きていこうとする自分、 相手の身になって考え行動ができる自分を「真実の自己」という言葉で言い表すことができますが、 そんな自分を縛って正しい判断をできなくしてしまうのが我欲です。

具体的に我欲とは、

「私が幸せになりたい」
「私が苦しくて悩んでいる」
「私が悲しい」
「私が苦労をしている」
「私が汗を流して働いている」
「私があいつのせいで不幸になった」
「私が環境のせいで幸せになれない」

などです。

もっと我欲が強くなると「私だけが・・・」という私の後に「だけが・・」という言葉がくっついてしまいます。

「私だけが苦しい思いをしている」「私だけが不幸だ」というふうになるわけです。

自分の中に、自分をダメにしていくものがあるのです。
それに気がつかなくてはならないわけです。

4年ほど前に、広島の記念公園の原爆の子の像の前に飾られていた折り鶴が放火され、 約14万羽が焼けた事件がありました。8月1日のことです。

放火した人はある大学の学生で、
「むしゃくしゃするから火をつけた」と言っていました。

これは我欲に縛られ、正しい判断ができないゆえです。
鶴を一つひとつ折って、平和を願う人たちの思いが分からないのです。

事件を知ったこの大学の在学生や卒業生や先生が、 協力して約30万羽を8月6日までに供えたといいますから、心根の優しさに救われる思いがしました。

これは、我欲に縛られない人の行動です。

最近の殺傷事件でも、「自分がむしゃくしゃする」とか「誰でもよかった」など言っているのを耳にすると、 我欲に翻弄(ほんろう)されて、相手を理解していない行動のように思われます。

我欲がある人の行動と、我欲を捨てて相手を理解した人の行動は、まったく逆の方向に現れてきます。

折り鶴の場合、自我の強い人は「むしゃくしゃする」と言って火をつけ、
自我を捨てた人は相手を思いやり平和を祈って鶴を折るわけです。

自分のことのみを考える我欲

ですから我欲の強い人はまわりが見えないといえます。

「私が苦しい」と思っていて、まわりにはもっと苦しくてもそれを乗り越えようと頑張っている人がいるのが分からないわけです。

別な表現をすれば、我欲は自分のことのみを考えてしまうということです。
そうすると大切なものを失ってしまうのです。

7月号では「キツネとツル」のお話をいたしましたが、
「肉をくわえたイヌ」というイソップ童話もあります。

肉屋さんが落とした肉を拾ったイヌが、橋を渡っていると
橋の下の川の中にもっと大きな肉をくわえたイヌがいて、
そいつの肉もとってやろうと「ワン!」とほえたら、
自分の肉が川に落ちて、肉がなくなってしまいました。

こんな話です。

これは我欲が強いと、大切なものを失ってしまう、よい例です。

我欲というのは悪魔のように、自分を破壊し、他の人をも傷つけてしまうものです。
この悪魔からどう脱して、自分を正しい方向へと導いていけばよいかです。

我欲という悪魔を退治する

我欲という悪魔を退治するためには、さまざまな方法があると思いますが、ここでは3つほどあげてみます。

1、我欲は身を滅ぼすと知っていること。
2、欲を少なくし、自分の利益を分け与えること。
3、本来の自分を強くしていくこと。

1、我欲は身を滅ぼすと知っていること。

まず1番目は、我欲は身を滅ぼすと知っていることです。
最近読んだ本の中にこんな句がありました。

めぐりくる 因果に遅き早きあり 桃栗三年 柿は八年

因果とは原因結果の法則で、悪いことをすれば悪い結果が現れ、
善いことをすればやがて善い結果が得られるということです。

その結果が現れるには、遅い早いがあるけれど、必ずいつかは結果として現れてくるというわけです。

この因果の法則はお釈迦様が説かれた教えですが、
日本の精神的柱として生かされ、それが歌になったものです。

我欲をおこした結果、その報いは遅かれ早かれ必ず現れるという事実を知っていることです。

この道を行くとオオカミが出ると知っていれば、その道を行くことはありません。
同じように、我欲の道をいくと大切なものを失いますよ、と知っていれば、
その道には進まないものです。

2、欲を少なくし、自分の利益を分け与えること。

2番目が極端な欲を離れ、自分の得た利益あるいは幸せを分けてあげることです。

欲には5つあって、財欲、色欲(しきよく・異性への欲)、食欲、名誉欲、睡眠欲があります。

みな生きていくためには必要ですが、それを極端に求めていくと、
貪欲とか強欲につながり、正しい判断ができなくなります。

それなりの財があるのに、それでは足りないといってかき集めるような財欲は、
どこかでその財を失うことになります。

色欲は夫婦の和合に通じていきますが、
極端に走ると不倫に陥り、家庭の和を失います。

食欲は美味しいものを食べ幸せになりますが、
極端な食べ方をすると、健康を失います。

名誉欲は名誉を得ようと努力するのはよいのですが、
極端にいくと、信頼を失います。

睡眠欲はちょうどよい睡眠は健康に欠かせないのですが、
寝てばかりいると、怠け者になり財を失う羽目になります。

そんな欲を少し離れ、相手を思いやり、自分の財や幸せを分けてあげると、
我欲が薄れて相手を理解できる人になっていくのです。

3、本来の自分を強くしていくこと。

3番目が本来の自分を強くしていくことです。

自分を磨いていく、自分を高めていくといってもいいでしょう。

そのためには、いつも自己の向上を念じながら日々を送っていくことです。
常に学ぶことを怠らないことです。

(つづく)