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法話

生き方の工夫 1 工夫の意味

今月から「生き方の工夫」というテーマでお話を致します。

このお話は平成27年7月23日、
127回目の「法泉会」という法話の会でお話ししたものです。
少し手直ししながら、3回ほどにまとめてみます。

工夫して、新しいお寺になる

工夫の意味は、さまざまな良い方法を考え、考え、考えて、
前よりもっとよいものを作ったり、あみ出すことをいいます。
私のお寺のことから話を始めてみます。

ある家の49日忌の法事の後の席で、お施主さんが、
「お寺が新しくなる前、庫裡の前に大きなノウゼンカズラがあって、
 きれいに咲いて見事でしたね」
という話をしてくれました。

そういえば、大きな柿の木にノウゼンカズラが巻きついて、
高く伸び、庫裡の屋根と同じくらいの高さに、
橙色(だいだいいろ)の花が咲いていたのを思い出しました。
その花に興味があって、庫裡を壊す前の写真を見てみました。
古い本堂と茅葺(かやぶき)の庫裡の前に、
柿の木に巻きついたノウゼンカズラが映っています。

このノウゼンカズラや古い本堂、庫裡の伽藍を、
私の子ども達は見たことがありません。

当時副住であった息子に、お寺を壊す前の写真を見せたところ、
そのノウゼンカズラよりも、伽藍そのものを見て、
「えー! これが古い前のお寺」と驚くのです。

息子は自分が書いているブログに、新しくなったお寺と、古いお寺をのせて
「古いお寺が、こんなに新しく変わってしまって衝撃!」
というコメントを書いていました。

もし私が兼職といって、坊さんをやりながら学校の先生などしていたら、
お寺のことが片手間になり、こんな今の伽藍は出来ていなかったかもしれません。

檀家のみなさんに助けられながら、
住職として、どのようなお寺を作っていったらよいかを考え、
考えて工夫したから、今の伽藍が出来上がったのではないかと思っています。

かまどと炊飯器

私の小さかったころは、ご飯はかまどで焚いていました。
母が朝早く起きて、かまどに薪(まき)を入れ、火をつけて、
その火の具合を見ながら、朝飯の用意をしていたのを思い出します。

私も修行僧堂で典座(てんぞ)といって、
食事当番を半年したことがありました。

24人ほどの食事を作るのです。
僧堂でも当時はかまどでお米を炊いていました。
3升から5升くらいのお米を焚きます。
前の典座さんに引き継ぎをしたとき、ご飯の水加減(かげん)を聞くと、
手のくるぶしあたりまで水を入れるというアドバイスを受けました。
でも、なかなかうまくいきません。

四苦八苦して工夫し、次の方に典座を譲(ゆず)るとき、
水を入れるバケツに3升のとき、4升のときと線を引いて、
この線まで水を入れれば、ちょうどよいご飯が炊けると伝えて典座をおりました。
あとで、その線を引いたバケツが役立ったと聞いて、工夫することの大切さを思いました。

今はどの家庭でも便利な炊飯器を使っていて、朝起きれば、ご飯が炊けています。
この炊飯器にも水をどのくらい入れればよいかがわかる線がついています。
便利です。

でもときどき、スイッチをつけ忘れて、朝、とても困ることもありますが、
工夫して便利になることは、良いことです。

法愛の歴史く

昔この「法愛」は「法泉」という名でした。
法事に行った席で、どなたかがこの「法泉」を見て、
「焼肉宝船かい」と揶揄)したので、100回になって、名を「法愛」に変えたのです。

最初の「法泉」は、まだ今の形になっていなくて、1枚か2枚くらいのものでした。
それも鉄筆で原紙に字を書き、それをがり版で刷って出していました。
その内に、ワープロが出てきたので、それをしばらく使い、
やがてパソコンが出て来て、プリンターで印刷し、
それをコピー機で刷るようになりました。

そのころすでに今の形の「法愛」になっていて、
600部(現在は1300部)ほど作っていて、B4の6枚つづりの紙で、
枚数にすると3600枚ほどになっていました。

コピー機は1枚10円ほどして、予算的に無理があり、印刷機を買いました。
その頃は印刷した紙を手で折っていたのですが、紙を折っていた妻が、
とうとう腱鞘炎になってしまい、そこで紙折り機を買いました。
そのころすでに、「法愛」は900部くらいになっていたと思います。

また、半分に折った6枚の紙をホッチキスで、手で止めていたのですが、
それも電動ホッチキスを買って、手に負担のかからないようにしました。

「月の言葉」も、始め数百枚を手で書いていたのですが、これも印刷にしました。 「法愛」を作っていた初期のころ、檀家の人に「今月の法愛です」と渡すと、
「それもらったよ」と言います。月が違うので、新しい「法愛」なのに、
同じ「法愛」と思ったのでしょう。
当時、表紙は白い紙でした。そこで、月ごとに紙の色を変えることにしたのです。

さまざまに工夫して、ここまで27年間やってきて、今年で28年目に入ります。

自然界での工夫

自然でも動物や花、そして昆虫などが
自分を守るために、さまざまな工夫をしています。

たとえばアサガオですが、夏の朝早くに花が咲きます。
時間をずらして咲くのです。
何故かといえば、朝、他の花がまだ咲いていない時刻ならば、
ハチやチョウを誘い込みやすいからです。植物にとって、
自分の子(タネ)をつくるには、花粉を運んでもらわなければならないからです。

アマガエルも周囲の状態によって体の色を変えます。
多くが緑色をしていますが、白や茶、黒や灰色に変化します。
ときどき、白い石の上にいるアマガエルが、
石そっくりな色をしているのを見たことがあります。驚きです。
みな工夫して、自らを守っています。

『ニュートン』という雑誌があります。2015年の8月号に
「昆虫たちの変装術 葉、枝、苔になりきる擬態(ぎたい)の妙技」
と題して、不思議な昆虫の写真が掲載されていました。
読者の皆様にお見せできないのが残念です。その中の一つを紹介します。

スミナガシというチョウがいます。
オオムラサキというチョウに少しにていて、
青や黒の羽に、白色の点がきれいに並んでいる、そんなチョウです。

この雑誌に掲載されているのは、長野県で撮影されたものです。
枯れ葉のように、スミナガシのチョウのさなぎが枯れ枝にくっついているのです。
よく見ても枯れ葉にしか見えません。こんなコメントが載っていました。

念ずれば花ひらく

 虫食いの後まで模倣する

中央の枯れ葉は、実はスミナガシというチョウの仲間のさなぎである。
虫に食われたように欠けた部分も体の一部で、スミナガシのさなぎに必ずある。

この向きから見ると完全に枯れ葉に見えるが、
葉のように薄くはないので、ぐるりとまわってみれば厚みのあるのがわかる。
体長は約4センチメートル。

なおスミナガシは、幼虫のときには、
近くの葉をちぎって枯らしておいて、その枯れ葉に擬態する。
成虫になるまで、枯れ葉に擬態し続けるのだ。

驚くのが、幼虫のときに近くの葉をちぎって枯らしておいて、
その枯れ葉そっくりににせ、しかも虫に食われたような欠けた部分も作って、自らを守るのです。
このような工夫を、小さな昆虫がしているのは、とても驚きです。

父の「ありがとう」の手帳

アサガオやスミナガシがこれほどの工夫をして自らを守っているのですから、
人も知恵を絞って、自らを守る必要があります。
たとえば、手帳に書く工夫をして逝った人の投書を載せてみましょう。
60才の女性です。

父の手帳に「ありがとう」

先月90歳で亡くなった父は生前、健康管理に気を使い、
毎日、血圧を測って手帳に記録していました。

先日、父の遺品の手帳に目を通したところ、血圧以外に、
1年ほど前から実家の片づけをしていた私の作業内容についても書かれていました。
「布団を干してくれた」「お風呂に入れてくれた」などの書き込みと共に、
「助かりました。ありがとう」と随処に書かれていました。

私が作業を終えて帰る際にも、父は「ありがとう」と声を掛けてくれていましたが、
手帳にまで「ありがとう」と書いているとは思ってもみませんでした。
私が実家に行くと、母とばかりおしゃべりをし、無口の父とは会話が少なかったように思います。

「たくさんの『ありがとう』をありがとうと、父の遺影に手を合わせました。

(読売新聞 平成27年7月15日)

こんな投書です。

父が手帳に「ありがとう」と書いた。それが随処に書かれている。
この父が自分を守るために書いたとは思いませんが、
それがやがて娘さんに「ありがとう」と言って手を合わせていただくことになりました。
「ありがとう」の言葉を残して逝くのも、大切な人として生きる工夫といえましょう。

私たちも亡くなって、心から手を合わせてもらえる、
そんな人柄を工夫してつくっていくことが、大切です。

生き方の工夫 2 物事のとらえ方の工夫

お話のとらえ方

工夫の意味というお話をしましたが、
次に、物事のとらえ方の工夫について考えていきます。
人との関係や出来事、あるいは本から得た知識やお話を聞いてどう思うかは自由です。

この「法愛」を読んでいる人も、内容を知って、
「この生き方は良いと思うし、このように生きられればいいけれど、
 そんなに上手くは生きられない」
という人もいます。

あるいは
「『法愛』を読んで13年(平成27年現在)になります。
 こんな生き方ができればいいと、私なりに少しずつ少しずつですができるようになり、
 心穏やかになってきました」
という女性もおられます。

また「法愛」(平成27年7月247号)のメイン法話の演題が
「脚下を知る」の3回目で、この文章の中に出て来る、
母が息子を殺害したという文を読み、そのことで、ハガキをくださった方がいます。

この事件は平成21年5月から始まった裁判員制度での裁判でしたが、
息子を殺した母の事情を鑑(かんが)み、執行猶予つきの懲役3年の判決でした。
(詳しいことを知りたい方、247号をお読みください)

このお嫁さんは
「義母を恨むことはありません。
 子どもが『バアバはお父さんを天国に連れていってくれたんだね』と言っています」
と、調書を読み上げたと書きました。

ハガキの内容を載せます。

今月も「法愛」ありがとうございます。
「息子さんを殺した母」のお話、衝撃を受けました。
自分が妻だったら、また母だったらどうするだろうか、と。
でも、その考えることが、脚下を知ることであると教えていただきました。

日々無意識でいると、人様を批判の目で見てしまっていることがあります。
自分はどう? 私はどうだろう? 
と省みることなく過ごしていることに気づきました。

意識を広げ心の面積を広げなければ、と思います。
ありがとうございました。

お話の印象に残っている部分を、自分の生き方と照らし合わせ、
今の自分が、どう生きればよいのかと、自らに問うています。
そして、心の面積を広げなければと持戒しています。
こんなとらえ方をしている女性もいます。

「法愛」の同じ話を、それぞれの立場でとらえていますが、
できれば、そのとらえ方に、少し工夫を入れて、自分の今現在の心境、
あるいは生き方にプラスになる点をピックアップ(拾い上げること)して、
それを自分の生き方に繰り入れていくのが、良いのではないかと思います。

見る角度を変える

日本の俗信で枇杷(びわ)の木は縁起が悪いといいます。
最近読んだ町田そのこさんの『うつくしが丘の不幸の家』に
枇杷のことが書いてありました。

信子という女性が、枇杷のことを、
枇杷のお茶は胃腸を整え、煮詰めたら塗り薬として日焼け薬やかゆみ止めになる。
種だって焼酎漬けにすれば内臓にいいし、軽い風邪にも効く。
そんな枇杷の効用を求めて、病人が訪ねてくる。
枇杷の成長は13年かかる。その間に、死ぬ人もでる。
たったそれだけで、枇杷を嫌なものと信じてしまう。
見る角度とか自分の心持ちとか、こんなことで?って、
笑えちゃうような些細な理由で、良いものも悪く見てしまう。

こんな場面です。

枇杷の効用を見るのでなく、病のほうを見て、縁起が悪いというわけです。

見る角度や自分の心持ちを変えれば、
同じものが良いものになったり、悪いものになるのです。
そうであるならば、プラスの見方、良い見方を工夫していくほうが、幸せになれます。

(つづく)