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法話

生き方の工夫 2 物事のとらえ方の工夫

先月は「工夫の意味」と、
「物事のとらえ方の工夫」ということでお話を致しました。
人生の中で、どう生きたら幸せになれるか、
人の役立つ人間になれるかを工夫する。そんなお話をしました。
「物事のとらえ方の工夫」をもう少しお話しながら、続きをお話ししていきます。

「お父さん」と呼ばれて

私のこだわりなのでしょうか。
妻から「お父さん」と呼ばれるのが嫌で、
「名前で呼んでくれ」とお願いしています。

ある旅館に泊まって、夕食の時、お世話をしてくださる女性の方が、
私のことを「お父さん、何か足りないものはありますか」と言うのです。

心の中で、
「嫌な言葉だなあ。言わないほうがいい。
 無視したほうがいい。でもなあ、言っちゃおう」
と決め、
「私は、あなたのお父さんではありません」
と言ってしまいました。
相手はどう思ったかしれませんが、相手の気持ちにより添えない私でした。

ある新聞(朝日新聞 平成27年7月11日付)に、
「『お父さん、お母さん』に抵抗ある?」というテーマで、
アンケートのまとめ(回答者1879人)が載っていました。

それによると、「抵抗がある」と答えた人は65%で、
「抵抗はない」と答えた人が35%でした。
特に女性が8割ほど「お母さん」と呼ばれるのに抵抗があると答えています。

たとえば38才の女性は
「他人に『お母さん』と呼ばれると、あなたのお母さんではないと言いたくなる」
と答えています。私と同じ意見です。

あるいは55才の女性は
「店員になれなれしく『お母さん』と呼ばれ、
 あなたを産んだ覚えはない!と叫びそうになった」
と答えています。

面白いのは、66才の男性で
「交通違反で止められた警察官から『お客さん』と呼ばれたときは、
 『お得意さんじゃないぞ』と思った」
と書いていました。
呼び方にも、相手の気持ちにより添う工夫がいるようです。

あたたかな呼びかけ

「お父さん」と呼ばれて、感動した人もいます。
こんな投書がありました。81才の男性です。

「お父さん」と呼ばれ感動

妻を8年前に亡くして、一人暮らしをしています。
私は、日用品のほとんどを近所のドラックストアで買っています。

先日、その店でせっけんを3個、商品棚から手に取ったところ、
すぐそばの商品整理をしていた若い女性店員が、
「お父さんパックで買った方が得ですよ」と教えてくれました。

私は「ご親切にありがとう」と返したのですが、
「お客さん」ではなく、「お父さん」と呼ばれた、
ただそれだけのことに一瞬、胸が暖かくなりました。

私たち夫婦に、子どもはいませんでした。
長い人生で「お父さん」と呼ばれたのはこれが初めてだった気がします。

深く感動し、まるで温泉にでも入ったように、
とてもほのぼのとした気分になりました。

(読売新聞 平成27年7月1日付)

こんな投書です。

この投書を読んでみて、読む私たちが、
何か暖かな思いになるのは不思議です。

相手を大切に思う、
そんな気持ちでこの男性を「お父さん」と呼んだ若い女性店員さんは、
とても気配りのきく優しい人なのでしょう。

呼ぶ人も、呼ばれる人も、相手の気持ちをくみ取る工夫がいるのです。

同じ出来事をどう見るか

人によって同じ出来事でも、それがいいと思う人や、嫌だと思う人がいます。
先月の『法愛』で「話のとらえ方」のところで、少しお話ししました。
見る角度を変えて、よい方向へと見る工夫をする、でした。
「言うはやすく、行うは難(かた)し」ですが。

私が出した本のひとつに『人生は好転できる』があります。
その中に(47頁から)、セルマさんという女性の話を載せています。

詳しいことは書きませんが、夫についていった場所が砂漠でした。
昼間は仕事で夫はいないし、そこにいるのは1分間でもいたくない。
刑務所の方がどれだけましか。もう帰りたくてしかたがない。
そんなことを書いて、セルマさんは、お父さんに手紙を出したのです。
その時のお父さんの返事は、たった2行の言葉でした。

刑務所の鉄格子の間から、二人の男が外を見た。
一人は泥を眺め、一人は星を眺めた。

この言葉を読んだセルマさんは、
今まで泥を見ていたことを改め、今度は星を眺めたのです。

見方を変えたのです。
すると同じ砂漠という場所が、素晴らしい所に見え、
そこにいる幸せを本にまで書きました。

同じ場所でも、その人がよい方へと見方を変えることで、
不幸の場所が幸せの場所へと変わるのです。
これは同じ出来事でも、同じ体験でもいえることです。

生き方の工夫 3 何事も動じない工夫

そのうちなんとかなる

人生には不安なことがあって悩んだり、心配事で心を疲れさせたり、
不満に思うことがあって心を乱し、生き方を間違えてしまうこともあります。
そんな時の心構えはどうしたらよいのでしょう。

クレージーキャッツのメンバーに植木等さんがおられました。
平成19年に亡くなられましたが、昭和36年にソロデビューの話が持ちかかり、
その歌が「スーダラ節」という曲でした。
作詞は青島幸男さんで「わかっちゃいるけどやめられねえ」という歌詞が有名です。

植木さんがお坊さんであったお父さんの前で、この曲を歌うと、
「人間の真理を突いた素晴らしい歌だ。ヒットするぞ」と言ったそうです。
当時、800万枚売れたようです。本人は真面目な人で、
「こんな歌がヒットするようじゃあ、日本はお終いだ」と思っていたようです。

そんな植木さんに、「だまって俺についてこい」という歌があります。
その中に「みろよ、青い空、白い雲、そのうちなんとかなるだろう」
という歌詞が出てきます。

無責任な言い方ですが、どうしていいか分からない時など、
「そのうちなんとかなる」と、楽観的に思い、
努力を続けていくことも生きる工夫のひとつです。

柳の枝のような心

柳についての川柳です。

気にくわぬ風もあろうに柳かな

柳の枝は風に揺れ、その風に逆らわず、揺れています。
風の吹く方向へと、そのまま流され揺れています。
その様子を見て、私たちの生き方にてらして作った川柳でしょう。

生きていく中で、気に入らないことはたくさんあります。
その出来事に心を乱し、悩んでいても、幸せにはなれません。
柳の枝のように、気にくわないことがあっても、
その出来事にとらわれず、優雅に揺れて、気にかけない。
そんな生き方も、生きる工夫のひとつです。

1956年のアメリカ映画で、
ヒッチコック監督の「知りすぎた男」という映画がありました。
その主題を歌ったのがドリス・デイという女性で、「ケセラセラ」という歌でした。
有名な歌なので、知っている人も多いと思います。
この「ケセラセラ」の意味は、「なるようになる」という意味です。

大学時代、年配であったのですが、とても親しくしていた人がいました。
その人がいつも「ケセラセラ、なるようなる」と言っていたのを思い出します。
その言葉を聞いて、当時、不思議と気が楽になったことを覚えています。
柳の心ではありませんが、時には、心配なこともあまり気にしないで受け流し、
「なるようになる」と生きていくのも必要なことかもしれません。

風に揺るがない岩

お釈迦様が、次のような教えを説いています。

あたかも一つの岩の塊が
風に揺るがないように
賢者は非難と称賛とに動じない

(『感興のことば』中村元訳 岩波文庫)

今まで柳のように、とらわれないという話をしました。
今度はまったく逆の教えです。

それぞれに置かれた立場で、その生き方も違ってきます。
今度は岩の塊のように、何事にも動じない、そんな生き方もときには必要になります。

その場その場で、教えを使い分けながら、工夫して生きていくのです。
夏の暑い日は、冷たい水が美味しく、
寒い冬には、あたためた飲み物が美味しくなります。
同じ水でも、その時々によって使い分けるように、
教えも、今、自分に必要だと思うものを工夫して使うのです。

このお釈迦様の教えは岩のように不動な心を持つこと。
そして非難はもちろんのこと、称賛という誉め言葉にも、
心を揺るがせないように、という教えです。

「あなたは素晴らしい」「立派な人だ」「頭がいい」「きれいだ」
などと褒められると、その言葉で有頂天になってしまう。
そんな自分を戒めて、さらに努力を惜しまない。
そんな生き方を賢者と言っています。

さざれ石の精神

岩で思い出すのが国家である「君が代」にでてくる巌です。

君が世は 千代に八千代に 
さざれ石の巌となりて
苔のむすまで

ここに巌がでてきます。

さざれ石は細かい石の意味です。
その巌はさざれ石なる細かい石が集まって大きくなり、岩になる。
そんな意味の歌です。

普通は岩が砕けて、小さくなって、砂になっていきます。
ここでは、それが逆なのです。そんな石があるのかと小さいころから思っていました。

いつだったか、京都府宮津市の天橋立に行ったことがありました。
そこに籠神社があります。彦火明命(ヒコホアカリノミコト)が主神だそうです。
その神社に苔むしたさざれ石があったのです。
「ほんとうにあるんだ」と、感動しました。

このさざれ石を、生き方に工夫して、てらし合わせてみるのです。
たとえば、一つひとつの小さな学びが、やがて大きな岩になって、
悪を退け、善なる生き方ができるようになる。そんなとらえ方もできます。

この「法愛」も小さな石かもしれません。
でも、ずっと読み続けていくと、大きな石に変わり、
少しの苦難にも動かされない不動な思いが培われていくような気がします。

小さな幸せを集める

さざれ石のような小さな幸せを集めて、
大きな幸せにしていくと、生きる力がついてきます。

こんな詩を見つけました。
44才の女性の詩です。「あふれている」という題です。

「あふれている」

おせちや雑煮
お鍋にすき焼き
年の終わりと始まりに
スーパーに行けば
そんなものばかり
連想されて
おなかいっぱい

みんないろいろ
あるだろうけれど
買い物かごをみてみると
あの人もこの人も
なんだか
幸せがあふれている

(産経新聞 令和3年12月31日付)

買い物にスーパーに行き、からのカゴを取って、
必要なものをそのカゴにいれます。
レジで会計するとき、からであったカゴが、
その家が必要とする品物でいっぱいになります。
そのカゴを見て詩の作者は「幸せがあふれている」と見るのです。

カゴの中のものは石ではありませんが、
その家に必要な小さな幸せと考えれば、
その幸せが一つひとつたくさん集まって、
カゴの中が大きな幸せに変わるのです。
さざれ石が集まって岩になるのに似ています。

俳優の浜美枝さんの生きる原点は、ある先生に言われた言葉だそうです。
浜美枝さんが「女優をやめたい」と愚痴をこぼすと、その先生は
「君は何もやってもいい。でも、人生は生涯学ぶもの。
 毎日1人、1年で365人の人と出会いなさい。
 人に会うことで君は何かを見つけられるよ」
と言ったそうです。

この言葉にも、さざれ石(人)が集まって大きな岩になり、
それが自分の幸せに通じていく、大切な生き方になっていくという、
そんなことを学びとれます。

どんな言葉でも出来事でも、生き方の工夫をすることで、
自分を向上させることができるのです。

(つづく)