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法話

生き方の工夫 4 相手に寄りそう工夫

先月は「物事のとらえ方の工夫」と、「何ごとにも動じない工夫」ということで、
さざれ石の話を致しました。続きをお話ししていきます。

寄りそう気づかい

小さいころに運動会で、二人三脚の競技をしたことがあります。
二人が肩を組み、その内側の足首を結び合わせ、二人で三脚となって走るのです。
早くゴールに着いたチームが勝ちになります。

その競技では相手の足の運びを考え、相手に寄りそって走らなくてはなりません。
これがなかなか難しく、自分本位の走り方になって、上手に走れません。
お互いが相手の歩調に寄りそって走れば、より早く前に進むことができるのですが、
相手を気づかうことは難しいことです。

生き方の工夫として、相手に寄りそう工夫をすることは大事なことです。
損得(そんとく)なしで寄りそっているものを探してみると、空気があげられます。
空気は、この人は好かないから空気をあげないとか、
この人はいい人だから、もっと空気をあげたいということはありません。
誰にも平等に寄りそっています。

また、「今日、あなたは私より多く空気を吸ったわね。欲深な人」と言って、
不満に思う人はいません。
「この部屋の空気は、私のもの」という、そんな人もいません。
それほど、空気は自然に私たちに寄りそい、私たちに生きる力を与え続けています。
この意味で、空気は神仏(かみほとけ)にとても似ているといえます。

花に寄りそう

花はどうでしょう。花の境地を得るのは大変なことです。
花を嫌いな人はあまりいないでしょう。
花はいつも私たちにほほえみを与えてくれます。
ほほえみで寄りそい、心の安らぎを与えてくれています。

アネモネという花があります。
『花の日本語』(山下恵子著 幻冬舎)という本に、
アネモネの別名は「花一華(はないちげ)」というのだそうです。
アネモネの語源はギリシャ語で、「風」を意味していて、
早春の穏やかな風にゆられ咲くところから、こう呼ばれるようになったと書いています。

「一華(いちげ)」というのは、
一つの茎に花が一輪咲く花につけられる名前だそうで、
この本には禅語である「一華開いて天下の春を知る」という言葉が添えられています。
この意味は、「一輪の花が咲いて、あたたかな春を知る」ということです。

さらに、私たちが一華の花に寄りそっていくと、そこに心の学びがえられるのです。
この禅語は「長い辛苦の努力のすえ、心の眼が開き、
今、ここにあるそのままの世界が神仏の現れであると感じ取れる」
という意味がこめられているのです。

こちらから、花に何の意味があるのだろうと寄りそっていくと、
花の生き方を学ぶことができます。

老いに寄りそう

誰しもが老いという時を迎えます。
電車で席をゆずられ、「私もそんな歳になったのか」と気づかされる。
顔のしわを見て歳を思い、靴下が椅子に腰かけないとはけなくて、
「歳は取りたくないものだ」と思う。

ある川柳(毎日新聞)に、
「老人かなんと淋しいひびきだな」とか
「一週が一日のような歳になる」など、
できることなら、老いたくない、というのが本音かもしれません。

詩人の坂村真民さんの『詩集 念ずれば花ひらく』(サンマーク出版)
という本の中に、老いについて、こんな詩が載っています。

老いること

老いることが
こんなに美しいとは知らなかった
老いることは
鳥のように
天に近くなること
花のように
地に近くなること
しだれ柳のように
自然に頭がさがること
老いることが
こんなに楽しいとは知らなかった

老いることを美しいこと、楽しいことと詩に表現しています。

できることなら老いたくないと思っていた私自身、この詩を読んで、
「ああ、こんな考え方があるのだなあ。
 素直な思いで、老いに寄りそうことで、
 老いの美しさ、楽しさを感じることができ、こんな詩を書けるのだ。
 この老いのとらえた方はすごい」
そう思ったのです。

そういえば、昔、老人は尊ばれていました。
その理由は、詩にあるように、老いることで、天に近づくこと、
神様の世界に近づいている人と思われていたからです。

美しく老いていく。
それは老いに、素直に寄りそっていくところから得られる境地かもしれません。

相手に寄りそうときには、相手のことを思いやり、
自分が相手に何ができるか、何をそこから学べばよいかを考える。
そんな生きる工夫も、幸せの道を歩んでいることになります。

仏に寄りそう

「仏に寄りそう」を別の言葉でいえば、仏を信じるとなります。
見えないけれども、大いなる存在に見守られ、生かされている。
そんな仏への信心が、生きる力になっていきます。

平安時代に成立したという『今昔物語』には、
お地蔵様に関する説話がたくさん出てきます。
その中に、お地蔵様が身代わりになって、矢を受けてくださったという話が載っています。

あるお寺に地蔵菩薩が安置されていた。
このお寺の先祖を祀る平諸道(たいらのものみち)の父が、戦(いくさ)に出た。

戦場で、手元の矢をすべて使ってしまった。
「もう、これまでだ」と思い、先祖のお寺に祀ってある地蔵様に
「お地蔵様、何とかお助けください」と願った。

すると、どこからか小僧が現れ、
矢を拾い取り、諸道の父に、その矢を与えた。
おかげで戦に勝利した。

矢を拾っていた小僧は背に敵の矢を受け、急に見えなくなってしまった。
「どこかへ、逃げていったのだろう」と心配し、その小僧を探しても見つからない。

やがて戦を終えて、先祖を祀ってあるお寺にお参りに行った。
すると、その寺に安置されていたお地蔵様の背中に
矢が一本、射立てられているのを見た。

「ああ、あのお小僧さんは、お地蔵様であったのか」と、
その有り難さに泣きながら礼拝した。

(『今昔物語』 巻第17第3)

こんな話です。

今は昔の話ですが、現代でも同じような話がたくさんあります。
このお地蔵様の霊験を信じられるでしょうか。
そんな仏様に寄りそい、生きることができるでしょうか。

人が静かに手を合わせ、仏を礼拝する姿は尊いものです。
「お天道様がいつも見ている、だから悪いことをしてはならない」
という言葉は、最近聞かなくなりました。
でも、見ているのです。見守っているのです。

そして、もう一つ大切なことは、
私たちの心の中に、そんな仏様と同じような心、
仏心(ぶっしん)が宿されているということです。
その心は、やさしさであり、慈しみの思いであり、
相手の幸せを願い、自らも努力して、幸せの道を歩むことのできる力です。
そんな心と寄りそう。そんな生き方を工夫するのが、賢い生き方でしょう。

生き方の工夫 5 人生の工夫

何のために生きているのか

人生を生きていくために知っておかなくてはならないことは、
「私は何のために生きているのか」
「何故、私にこの人生が与えられているのか」
を、ちゃんと知っていることです。

この問いは難しく、明快に答える人は少ないかもしれません。
身近なところから考えていきます。

鉛筆は何のためにあるのでしょう。
簡単に答えられると思います。書くためです。
紙に字を書いたり絵を描いたり、あるいは図形を描き、計算式も書けます。
書くことで、鉛筆は役立つことをしています。

消しゴムはどうでしょう。
間違った文字を消したり、書き直したい絵を消したりするのが目的です。
鉛筆も消しゴムも、何のためにあるのかを、簡単に説明できます。

では、人は何のために生きているのでしょう。
こういうときは、単純に考えたほうがよいのです。
とかく複雑に考えて、迷路にはまってしまうのが常です。

鉛筆は書くことで、人のお役に立つためにあるとお話ししました。
それと同じように、「私は人に役立つために生きている」
「必要とされるために、私の人生がある」そう考えていいのではないでしょうか。

ありがとうの言葉

子どもさんのいる家庭では、その子どもを大きくしていくのは大変なことです。

間違った考え方は、
「親としての私が苦労して育ててあげた。お金もかかった。
 だから大きくなったら、恩返しをするのはあたりまえだ」
ということです。

子が生まれて、「お母さん、お父さん」と言ってくれる。笑顔を見せてくれる。
プレゼントをあげると、「ありがとう」と言ってくれる。
一緒に食事ができ、笑い、語らい、手もつないでくれ、だっこもさせてくれる。
もうそれだけで、恩返しをしている。そう考えるのが子育ての在り方であるといわれています。

このお話をした平成27年に、山形から泊りにきた孫が、
私が本堂の仏さまの花を新しい花に交換するのを聞いて、
どうしても手伝うというので、気が進まなかったのですが、一緒に本堂に行きました。
当時3才くらいの女の子です。

孫の世話をしながら、スムーズに花を換えることができずにいましたが、
最後に一輪の菊の小さな花が残ってしまい、普通ですと、背丈が10cmほどですから、
花瓶には生けられないので捨ててしまいます。
このとき、孫に「この花あげるね」と言ったら、孫が目を輝かせ、満面の笑顔で、
「わあー! かわいい。ありがとう」と言ったのです。

その小さな一輪の花を、
孫は大事に山形まで持っていって飾ったと、後で聞きました。
私にとっては捨ててしまうような花を、です。

素直で慈しみのある「ありがとう」の言葉は、
いただく者にとっても、安らぎに満ちるものです。

支えてあげて、支えられる。そこに「ありがとう」の言葉がある。
互いに、その言葉を大事にできる。
それだけでも、「何のために、私は生きているか」の答えになると思われます。

死を受け取る工夫

人生において、「この世限りか、あるいはそうでなく、あの世はある」かで、
人生の深さも違ってきます。

このお話をした当時(平成27年)、
その年の「法愛」8月号に「来世を恐れない」という章がありました。
死についての考え方が出ていたので、そのお話をしたのです。
そのところを少しまとめて載せます。

『神々の対話』という仏典の中に、天から降りてきた神々が、
「どのように生きたら、かの来世を恐れないですむのでしょう」という問いを、
お釈迦様に投げかけます。お釈迦様は、次のように説くのです。

「ことばを正しくするようにこころがけ、身に悪事をなさないで、
もし飲食(おんじき)豊かな富んだ家に住んでいるならば、
(一)信あり、(二)柔和で、(三)よく分かち与え、(四)温かい心でいるならば、
これらの四つの事柄に安住している人は、来世を恐れる要がない」と。

(神々との対話]中村元訳 岩波文庫)

お釈迦様が出られた時のインドでは、あの世があるのは当たり前で、
「あの世があるのですか。ないのですか」という問いはしません。
どうしたら、あの世(来世)を恐れないでいられるか、という問いなのです。

そのために、四つの方法をあげています。
よく味わわなくてはならない教えです。教えは良薬ともいいますから、
この教えを薬と思いいただき、実践していくのです。

心温まる言葉を投げかけたことが書かれた投書です。
男性の方で、「スタートの言葉」という題です。

社会人の姿が、若葉の中に映える。この季節になると50年あまり前の事を思い出す。

私の父は戦死しており、母子家庭で育った。
当時の就職では、両親のいる家庭が有利。
大企業でも採用の条件としている会社もあった。
一次試験にパスしても面接で不合格になる。
理由は片親で育ったからだという。戦死なのに何故かと思ったりもした。

私は工業高校を卒業後、国鉄の工事局に就職した。
筆記、適正、身体検査を終え、面接の最後に試験官が
「お父さんが戦死ということで、長い間大変ご苦労されましたね」
と、笑顔で話してくれた。

新たな人生のスタートを勇気づけてくれた言葉として、今も鮮やかに残っている。

(喜びの種まき新聞No.558)

ここにでてくる試験官の
「お父さんが戦死ということで、大変苦労されましたね」
という言葉は、お釈迦様の教えにあるように、温もりと、やさしさが満ちています。

そんな生き方を大事にしながら生きていれば、
あの世(来世)を恐がることはないのです。
なぜなら、死を受け取った後、そんな生き方に合った温かな世界に帰っていけるからです。
生きる工夫をしながら、幸せの道を歩んでいきましょう。