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法話

開いて手を合わす 1 手を合わす幸せ

今月から「一華開いて手を合わす」というテーマでお話を致します。
このお話は平成27年9月27日、
128回目の「法泉会」という法話の会でお話ししたものです。
少し手直ししながら、3回ほどにまとめてみます。

幸せという笑顔

この一華(いちげ)とは、一つの花の意味です。
この「一華開いて手を合わす」という演題は、
きれいな花に似た、人としての尊さとか、
有り難さを見つけ、あるいはいただいて、
「ああ、尊いものを見させていただいた有り難い。
 知らず、静かに手を合わす」
そんな意味です。

夏のお盆の棚経で、ある家にお参りに行きました。
その家では、たまたまお布施を用意していなかったので、
後日お寺に届けに来てくれました。

玄関のチャイムが鳴って出ていくと、
その家のおじいさんが立っています。立っているといっても、
腰がなんと90度ほど曲がって、立っているのもつらそうです。

「おじいさん、腰が大変ですね。大丈夫ですか」と言うと、
「なーあに、早く歩けないだけね」と笑顔で答え、
まったく困った様子をみせません。

帰りが心配に思った私は、
ずっと帰っていくおじいさんを見守っていました。
おじいさんの足取りは遅く、石畳の上を、
ゆっくりゆっくりと歩いていきます。

普通の人が歩けば数秒で山門に着くのに、
おじいさんは何分もかかって山門にたどりつきました。
そして乗ってきた一人乗りの電動の車に乗って帰って行かれました。

足が弱いのに、それを愚痴ることなく笑顔で答えて、
お寺に来てくださったおじいさん。
善人とは、こんな人のことをいうのだと、その時思ったのです。
そして、帰っていくおじいさんの後ろ姿に、
思わず手を合わせずにはいられませんでした。

詩人の工藤直子さんが「花」と言う詩を作っています。

「花」

わたしは
わたしの人生から
出ていくことはできない
ならば ここに
花を植えよう

お寺に来られたおじいさんも、
足腰が弱いならば、そこから出ていくことはできない。
だから、その身体をいたわりながら、幸せという笑顔の花を咲かそう。
そんな生き方かもしれません。尊いことです。

手を合わす意味

詳しい資料が手元にないのですが、
静岡県で縄文時代の頃と思われる土で作った人形が手を合わせている
という記事を読んだことがあります。
日本では、手を合わすという「しぐさ」は、
数千年前から行われてきたということです。

平安時代には、手を合わすと武器を持てないということから、
相手を犯さない清らかな姿を表しているといいます。

仏教では、右手は凡夫で左手が仏。
手を合わせれば、仏と一つになるという意味です。
左手が仏ですから、その左手に数珠を持つのです。

インドでは右手は食事をするところで善。
左手はトイレを扱うので悪。
手を合わせれば善悪を超え、相手を敬いますという意味になるようです。

あるいは、手を合わせることで身と心を正すという意味や、
仏を信じ、仏の心をいただいている相手をも信じ、
尊んでいく意味もあります。

手を合わす意味は、清らかさや、仏と一つになること。
また善悪を超えた透明さや、我(が)を捨てた無我の意味があるのです。

日光菩薩と月光菩薩の合掌

奈良の東大寺の南大門を通り、
大仏殿の左側に戒壇院があり、右側に法華堂があります。

戒壇院には有名な四天王があり、
法華堂には、奈良時代に彫刻された
国宝の日光菩薩と月光菩薩が安置されていました。
(日光と月光の前には「伝」の字がついている)

今は日光、月光とも、南大門を通り、
すぐ左側にある東大寺ミュージアムに安置されているようです。

以前、私がお参りした法華堂には、
日光菩薩と月光菩薩が安置されていました。
法華堂は綺麗な屋根の形をしていて、中に入ると、
正面に不空羂索(ふくうけんさく)観音があり、
その両脇に日光菩薩と月光菩薩が静かな佇ずまいで、
立っていらっしゃいます。

普通、日光菩薩と月光菩薩は薬師如来の脇仏で、
観音様の脇仏は珍しいといいます。

この日光、月光は共に合掌をしていて、
その姿はとても美しいのです。
その姿に、清らかさと透明さがあり、
前に立つと、心が洗われる気持ちになるのは、不思議です。
何か言葉を超えた、大切なものを、香らせています。

私たちの幸せを祈っているからなのでしょうか。
こんな短歌を思い出します。
女子教育に情熱をかけた甲斐和里子の作です。

よそめにもとうとかりけりみ仏の
          みすがた拝む人の姿は

できれば、私自身、
この静かに手を合わせている
日光菩薩や月光菩薩のような姿の人になりたい
と思っているのですが、何度生まれ変わったらできるのでしょう。

ありがとうの世界

以前(平成27年99月のこと)、
グレースさんに頼まれて「ありがとうの世界」
という文を書いたことがありました。

そこに、少し合掌のことを書いたのです。
手を合わす姿はそのままに、仏の姿であるということですが、
その部分を引用してみます。

少女のありがとう

ある日、用事があって車で出かけたときのことです。
ある交差点の赤信号で車を止めました。
すると小学生と思われる女の子が横断歩道を渡り始めました。
渡り終えると、なんと私を見て直角になって頭をさげ、
「ありがとう」とお礼を言うのです。
青になった横断歩道なのに、です。
そんな子に私も思わず頭をさげました。

それが中学生ごろになると、
しだいに大人びて気恥ずかしさからか、
ありがとうを言わなくなります。
ましてや大人になると、素直にありがとうが言えなくなるのです。

ありがとうは善の現れ

ありがとうは善のひとつでもあり、
仏教的にいえば、仏の心を表した言葉でもあります。
ですから、ありがとうと言える人は、善をひとつ積んだことになり、
また仏の心をその場にあらわしたことにもなるのです。

食事の前に、手を合わせていただく姿は美しいものです。
それは感謝の思いのあらわれです。なぜ美しく見えるのでしょう。
それは、そこに仏の姿を見ているからです。
善を言葉で表したありがとうには、そんな美しい面があるのです。

手を合わせる姿を美しいと書いています。
それは感謝の思いのあらわれであり、
仏の姿をそこにあらわしているからだと書きました。

ありがとうの言葉と、手を合わす姿の内なる世界は、尊さに満ちています。

手を合わせない生活

家に仏壇があれば、手を合わせる機会もあるかもしれません。
でも、核家族であれば、その家にはおそらく仏壇もないでしょうから、
手を合わす機会は少ないといえます。

両親が手を合わすことが大切であると思っていれば、
食事の前に、手を合わせて「いただきます」と、
子どもに教えることができましょう。

以前本山で研修を受けたときに、
ある少年院の院長をしていた方が講師で、
「この少年院にくる少年は、手を合わせることをみな知らない」
と、言っていたのを覚えています。

手を合わせることは、自分の幸せはもちろんですが、
家族や相手の幸せを願ったり、感謝の思いを、手を合わすことで表現したり、
あるいは神仏を信じる姿にもなります。

その思いを教えてもらえずに、大人になることは、
とても残念であるし、また生きる上でも
大切な生き方が欠けてしまうとも思えます。

中村すえこさんという人が
『女子少年院の少女たち』(さくら舎)という本を出しています。

彼女自身15歳の時に暴走族のリーダーになって、
傷害事件で逮捕され、少年院に入ったことがあるという方です。
その本の終わりのほうに出てくるところを、引用してみます。

世の人は少年が少年院に収容される前の生活なんて
想像さえしたことがないだろうが、
少年院には、収容されてから食事は三食食べることを知った子や、
「いってらっしゃい」「ただいま」「おやすみなさい」の
誰もが当たり前と思っている日常で交わす言葉を知らない少年たちもいる。

それだけでなく、靴の揃え方、お風呂の入り方、箸の持ち方など、
幼少時に日常生活としてしつけられることが身についていない。

中村すえこ著『女子少年院の少女たち』(さくら舎)

食事は三食食べることを知らない。
「いってらっしゃい」の挨拶も知らない。
靴を揃えることも知らない。
そんな子に、手を合わす「しぐさ」まで知ることは、
難しいと理解できます。

あたたかで温もりのある家族の中に、やはり手を合わす、
そんな場面が必要ではないかと思えてなりません。

神仏の姿を見、そして声を聞く

神仏の姿を見る、あるいはその声を聞くなどとは、
到底できないと思ってしまいます。
でも、手を合わせることで、そんな世界と交わることもできるのです。

次の「手を合わせ」という仏教讃歌をどこで知ったか覚えていませんが、
この歌は浄土真宗で歌われているものです。
私のお寺は禅宗ですが、宗派を問わず、
真理を歌っているものとして、挙げてみましょう。

手を合わせ 静かにお目めを つむる時 
うかんでくるのよ
ののさまの やさしい やさしい その笑顔
手を合わせ 静かにお耳を すます時 
聞こえてくるのよ
ののさまの みんなを はげます そのお声

仏様を見る時に、手を合わせて目をつむると、
仏様のやさしい笑顔が見えるのです。
手を合わせ、耳を澄ませてみると、
仏様が私たちを励ましている、その声が聞こえるのです。

禅的にいえば、見えるもの聞こえるものは、
内にある仏心の輝きかもしれません。

この「法愛」を読み終え、静かに呼吸を調え、
手を合わせて、目をつむってみましょう。
心の中に笑顔の仏様がきっと見えます。

耳を澄ませてみると、
「気をつけて生きてください。いつもあなたを見守っています。
 苦しみは、あなたの心を深くします。
 あなたが今幸せであれば、感謝の思いを深くし、
 その幸せを隣の人に、分けてあげてください」
そんな声を聞くことができます。

次の投書から、「母が仏様であった」という、
そんなメッセージを受け取ることができます。
52歳の女性の方で、「お母さんの幸せ」という題です。

「お母さんの幸せ」

少し早い盆休みがとれ、娘を連れて帰省した。

夫と私は同郷。
夫の実家に4日ほど滞在した後、
私の実家へも顔を出した。弟夫婦が同居してくれている。

81歳になった父は認知症が出て、要介護1となった。
週4日、デイケアに通う。オムツも用心のために使うようになったらしい。

76歳の母も帰省のたびに小さくなっているように感じる。
弟嫁がとてもよくしてくれているのに、勝ち気な母は、
これまで出来ていたことが出来なくなる現実を受け入れがたく、
つらくあたることもあるらしい。

そんな話を聞いて、
遠く離れて全てお世話をかけている私としては、母を叱るしかない。
母はそれを黙って聞いている。
帰りの飛行機の中で、その母の姿を思い出し、泣きたくなる。

座ってくつろぐ姿など記憶にないくらい母は懸命に働き、
私たち子ども4人を育ててくれた。 老後はゆっくり過ごしてほしいと思っていたが、次第に笑顔が消えていった。

離れている私に何ができるだろう。
実家近くで時々様子をみてくれる姉にメールで相談した。

「あなたたち家族の幸せがお母さんの幸せです」と返事が来た。

(朝日新聞 平成27年9月3日)

こんな投書です。

母を叱る娘の言葉を、黙って聞く母。
でもそんな娘の家族の幸せを、母の幸せと思っている母。
この母の姿こそ、仏様の姿であると思えます。

神仏はその姿を変え、いつも近くで私たちを見つめ、見守っています。
静かに手を合わせ、心を穏やかに平静にすると、
近くにいる、その人が仏様であると知るのです。

神仏と共に生きる。
そう確信することで、豊かであたたかな日々の暮らしをいただけ、
手を合わせることで、一華なる神仏のほほえみを見ることができます。

(つづく)