.

ホーム > 法愛 4月号 > 法話

法話

開いて手を合わす 2 尊さを受け取る力

先月は「手を合わす幸せ」というお話を致しました。
手を合わせる意味と、手を合わせることで仏様にお会いできる、
そんなお話でした。続きです。

尊さを発見する

5月になると田に水が入り、田植えがはじまります。
私の小さい頃は手で苗を植え、手で稲を刈り、
そして竿(さお)に稲の束(たば)を干してから
脱穀(だっこく)していました。

新米が取れると、仏様にそのお米をお供えし、
正月まで新米は食べられませんでした。
ですから、お米一粒の尊さを、今も感じています。

今はお寺ではお米を作っていないので、
いただいた新米や買ったお米を食べていますが、
新米の美味しさは特別です。
お米の尊さを知っているので、食べる前には、手を合わせ、
「いただきます」と言って食べます。

お米は毎日いただくものですから、
そのうち当たり前と思って、お米の尊さを忘れがちになります。
人は幸せが手に入ると、それに慣れてしまい、
幸せ感が薄れていって、幸せを感じられなくなるのです。
ですから、時々、当たり前ではないと自らを戒めることが大事になります。

地震や災害などで、日常の生活ができなくなると、
当たり前に過ごしていた日々の生活が、本当はそうでないことを知り、
感謝の思いを深めるものです。

水道から水が出てくる。
お風呂に入り、同じ枕で寝られる。
それが尊いことであることを、常に思いおこし、手を合わせて感謝する。
そんな生活が尊いのです。

平凡な日々のこと

こんな短歌があります。女性の短歌です。

夢多き年末ジャンボ外れてもいつも変わらぬ今に乾杯

(朝日新聞 平成27年2月10日付)

俵万智さんの選で、
「はずれてがっかり、というのではない。
 宝くじに夢をたくすことも、はずれて『いつも通り』であることも、
 どちらも否定していないところが魅力だ」と評しています。

夢を持つことも大切ですし、
また「いつもと変わらない今」を、喜びを持って感じ取っているのが、
最後の「乾杯」の言葉で伝わってきます。

平凡だけれども、いつもと変わらず無事に過ごせていることに、
尊さを見つけています。

こんな詩もあります。69才の男性の方の詩です。

散歩道

散歩していたら
小っちゃな直販所(ちょくはんじょ)

キューリにトマト
レタスにおじゃが・・・

世界に自慢の
無人直販所
どれも一袋二百円
お代はこの紙の小箱へ

散歩していたら
でっかい日本見つけた

(産経新聞 平成25年7月25日付)

こんな詩です。

散歩をしていたら、野菜の無人販売をしているのを見つけた。
おそらく小さな小屋のような建物でしょう。
買い求めに来る人を信頼しての無人販売です。

一般のお店でも、店の軒先に品物をたくさん並べています。
でも、持ち逃げする人はあまり見かけません。
そんなお互いが信用し合っているのどかな風景が尊く思えます。

いつもと変わらない、平凡で信頼し合っている今に、乾杯です。

尊いと思えないもの

世には尊いと思われるものはたくさんありますが、
なかには尊くないものもあります。

無人販売でも、
無断でキューリ一本持っていってしまう人もいるかもしれません。

私自身の戒めとして、こんな川柳があります。

慈悲を説く和尚腕の蚊打ち殺す

(毎日新聞 平成27年2月18日付)

慈悲を説いているのに、突然やってきて、
腕に止まった蚊を手でパシッと打って殺してしまう。
それも僧侶が、です。

毎年お寺で行っている子供会の夏合宿があります。
今はコロナ禍でできないでいるのですが、この子供会の目的のひとつに
「いのちを大切にする」という約束があります。

泊りに来た子ども達に、
今日と明日は、蚊が来ても殺さないでくださいとお願いします。

この川柳では、慈悲を説く和尚さんの、とっさに出た行動ですが、
言葉と行いを一致させるのは、とても難しいことです。

私自身、お話をするのですが、遠くの県外でするお話は、気楽なのです。
なぜならば、言いっぱなしでいいからです。
少し軽率な言い方ですが・・・。

でも、近くでするお話は、責任が伴います。
みんな和尚の日頃の行いを見ているからです。
「あの和尚、あんなことを説いているけれど、日々の生活はどうだろう。
 言葉と行いが一致していないではないか」と批判されかねません。
ですから、慈悲を説く以上、そんな人間にならなくてはなりません。

この川柳からも、学ぶべきものがあります。
尊くないあり方も反面教師として、尊い生き方に変えてしまう。
そんな学びも大切になります。

尊さを感じる心

尊さを感じて、思わず手を合わす。
そんな心根が、本来私たちの心の中に宿されている。そんな気がします。
禅的にはその心を仏心(ぶっしん)というのです。

美しさを感じたり、思いやりや、やさしさ、
あるいは学びたい、努力が大事など、これも仏心の中にあるものです。
それを育てていくのが、この世の修行ともいえます。

いつだったか、孫を連れて、
若いおばあちゃんがお参りに来られたことがありました。
そのバアバが言うのに、
「この子が、お寺の鐘をつきたくて、つきたくて。それで連れてきたんです」と。
鐘楼に向かう手前に、野の花観音様があります。その男の子が観音様の前に来ると、
バアバに言われなくても、小さな手を合わせ、観音様に頭を下げるのです。
「観音様の前にきたら、手を合わせ、お辞儀をするのですよ」と教えないのに、です。

この男の子が観音様に何を思ったか、手を合わせ礼拝する。
その礼拝する姿を見て、心があたたかくなるのです。
みな仏心の現れです。

あるいは、私自身小学生のころから、とても欲しい本がありました。
でも、当時の私の家の家計ではとても買えない値段です。
父が56才で亡くなり、私が修行に行き、お寺の住職になって、
少しお金に余裕がでてきたころ、この望みをかなえることができました。

その本は『日本大百科全書』です。
当時買ったのは小学館から出ているもので、25巻ものです。
私が20代のころで、20万円ほどしました。
京都の13メートルもある清水寺の舞台から飛び降りるという、そんな決断でした。
今でも、その本は一番大事なところに保管しています。

本で学びたいという思いは、
前世の記憶か、それとも仏心のなせる業かはわかりませんが、
学びたいという思いは、とても尊い姿であると思います。

開いて手を合わす 3 一華(いちげ)という尊さを見つける

一生けん命さの中に

一華とは、きれいな花に似た、
人としての尊さとか有難さを表しています。
では、その花をどう見つけ出したらいいのでしょう。

地方新聞で『長野日報』という新聞がありますが、
その多くの記事が地区で活躍している人のことを載せているのです。
週刊誌のような、人を批判する記事はありません。

たとえば、4月1日の記事に、
「美しい和楽器の音 子どもたち響かす」という題で、
コンサートが開かれた記事が載っていました。
和服姿の女の子たちが琴を奏(かな)でる、そんな写真が載っていて、
それが一つの花に見えるのです。

一生けん命に活動し、みんなに喜んでもらえる。
そんな姿を尊く思い、そんな新聞の記事からも
一つの花なる「一華」を見つけ出すことができます。

無駄なものはない

よく使われている
「この世には無駄なものは一つもない」
という言葉があります。
この言葉も、きれいな花を見つけ出す力になります。

5月にもなると、庭にたくさんの草が出てきます。
その草にも小さな花が咲いていて、取るのに、少し躊躇します。
何だか可哀そうになるのです。
でも、庭を草だらけにしておくことはできません。
ですからこまめに草取りをします。

いつだったか、ある方がお寺にこられ、お寺の庭を見て、
「和尚さん、この庭は草が生えないのですか」と言うのです。そのとき、
「とんでもないです。草がいっぱい生えてきて、
 草のない状態にしておくのは、大変なことです」。
「そうなんですか。草が生えないと思っていました。
 私の家でも、草が生えてきて、取るのに苦労しています」。
そんな会話をしたことがあります。

庭に生える草は無駄なものでしょうか。
できれば生えてこないにこしたことはないのですが、
取っても取っても生えてきます。

考えようでは、その強さに頭が下がります。
雑草の強さをよく聞きますが、何か困難なことがあれば、
その強さを学びとして、自らもくじけない生き方を教えてもらえます。

以前書いたことがありますが、
草を取らない場所を作り、そこは草を取らないことにしています。
そこには赤と白のミズヒキが生えてきます。その小さな笑顔に、心が癒されます。

無駄なものはないといいますが、
多くのものを、そうとらえていくのが、賢い生き方ではないでしょうか。

無駄なものはないと、気づく

私の修行時代に、愛媛県の宇和島にあるお寺さんに、
お盆の棚経のお手伝いに行ったことがありました。
1日に40軒から50軒ほどまわるのです。

その日の棚経を終えてお寺に帰ると、電話が来て、
1軒とばしてしまい、ずっと家族の人が待っているというのです。
知らない土地ゆえに、起こってしまったことですが、
私が「いけないことをしてしまったのだ」と思い、その家に歩いていきました。

雨がしきりに降っていました。
その家にたどりつくと、腰から下がびしょぬれです。
私の姿を見た、そこの奥様が、とても嫌な顔をしました。
正座だと座布団がぬれてしまうので、椅子を出してくれました。
心を込めてお経を読みました。

お勤めが終わって、振り返ると、
奥様の顔が優しい顔に変わっていて、
言葉使いもていねいに、お礼を言ってくれました。
帰るときには「雨にぬれて、大変でしたね。気をつけて帰ってください」
と、送り出してくれました。

その体験から、お経の力は尊いものだと、心から感じたのです。
びしょぬれであっても、私のお経を聞いて、奥様の心が柔らかくなったのです。
きっとその家のご先祖様も、私と奥様の気持ちが通じて、感謝をしていると思ったことです。

こんな投書もあります。
「不安から救ってくれた言葉」という題で、56才の男性の方です。

「不安から救ってくれた言葉」

祖父は信心深く、朝晩、読経をしていた。
小学校3年だった私が暗唱すると、
「よく覚えたね」と目を丸くして感心していた。

その年の夏休み、父、妹と神奈川県の江の島へ海水浴に行った。
私は水泳の教室に通い、泳ぎは得意だった。
クロールと平泳ぎを交互にしながら進むと、かなり沖に出てしまった。
幸いブイ(水泳ようの浮き袋)があってつかまっていたが、
辺りに人影はなく体は冷えて寒くなる。恐怖から泣きそうになった。

そのとき、祖父の言葉を思い出した。
「つらいことがあたら、お経を唱えたらいい」。

私は震える声で唱え始めた。
難度か唱えるうちに不思議と気持ちが落ち着き、
ゆっくりと岸に向かって泳ぎ、たどり着くことができた。
父と妹はまったく気付かず、海の家で食事をしていた。

家に帰り、祖父に報告すると、
「仏様が助けてくれたんだね。海は侮ってはいけないよ」と諭された。

(産経新聞 平成27年9月18日付)※カッコは筆者

この投書を書かれた人は、お経の力とその尊さに気づいています。
たった一つの体験ですが、50年あまり前のことを覚えていて、投書したのです。

無駄なものはないと一つでも気づけば、それが点になり、
もう一つ気づけば、やがて線になり、さらに一つ気づけばやがて面になって、
それがその人の人格を深め、相手をやさしく包んであげる、
そんな人になっていきます。

一華(いちげ)という小さくても尊いものを探し、
一つひとつ気づいていくと、そこに幸せの世界が広がって、
相手をも幸せにできる人になっていきます。

(つづく)