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法話

開いて手を合わす 4 自らの花に手を合わす

先月は「尊さを受け取る力」と、「一華という尊さを見つける」というお話でした。
平凡な日々の中にある一華という小さくても尊い出来事を見つけ出していく。
そして暮らしの中には無駄なものは何もない。
そのことに気づいていくことが大切である。そんな話でした。
続きです。

自分自身に手を合わす

相手や自然、あるいはさまざまな出来事の中に尊さを見つけ出しながら、
自分の中にある尊いものを探していく。
そんな尊さを見つけたら、その尊さに手を合わすのです。

自分が自分に手を合わすというのは、あまり聞いたことがありませんが、
別な言い方をすれば、自分自身をほめると言ってもいいかもしれません。

尊い言葉を挙げながら、考えていきます。
まず、ゲーテがこんな言葉を残しています。

才能は孤独のうちに成り、人格は世の荒波にて成る

才能は独り静かに努力をし続けて、成し遂げられるものです。

誰もほめてくれなくても、誰も見ていなくても、独りたんたんと努力をしていく。
成功した人は、誰しもが体験することかもしれません。
そんな自分を磨く孤独の中に、尊い自分があるのを知ります。

そして人格は、世の荒波の中で、自分がもまれ、たたかれ、
その苦難を乗り越え、さらには、相手の幸せのために力を尽くす。
そんな生き方の中に、尊さがあります。

良き言葉に出合う

ある新聞(朝日新聞 平成27年9月13日付)に、
「ことばと出会う勇気をもらう」というテーマで、
7人の顔写真の入った女性の、勇気をもらった言葉が載っていました。
当時(平成27年)の役柄です。

一人目は、AKB48の宮脇咲良さん(17才)です。

夢は、手を伸ばした1ミリメートル先にある

AKB48グループ総合プロデューサーの秋元康さんの言葉で、彼女のコメントです。
「4年前、この言葉を聞いた時は、一生夢に手が届かないのかとネガティブな印象でした。
 でも、あの頃より成長した今は全力で努力すれば、夢はつかめると解釈しています。
 言葉はその時々で、とらえ方が変わるんですね」

もう一人挙げてみましょう。
乃木坂46の生田絵梨花さん(18才)です。

ほとんどすべての人間は、
もうこれ以上アイディアを考えるのは不可能だというところまで行きつき、
そこでやる気をなくしてしまう。
いよいよこれからだというのに。

この言葉はトーマス・エジソンです。

彼女のコメントです。
「ピアノとの両立を目指していて、くじけそうな時があります。
 支えになる言葉が欲しくて、見つけたのがこの格言。強く共感しました。
 今では限界を決めずに努力しています。
 その積み重ねが目標へと背中を押してくれています」

二人とも、自分を高める言葉と出合い、努力する自分と向き合っています。
そんな自分が尊いと、自分が自分に手を合わすのです。
さらに、その行為が大きな力になっていくのです。

神を見つける

ヘレン・ケラーはたくさんの人生の指針となる言葉を残しています。
ヘレン・ケラーは2才のときに病にかかり、
見えない、聞こえない、しゃべることができないという
三重苦の障がいにもかかわらず、大学を出て、
身体障がい者の援助に尽力を尽くした人です。

こんな言葉を載せてみます。

私は自分の障がいを神に感謝しています。
私が自分を見出した生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、
この障がいを通してだったからです。

健常者にとって見える、聞こえる、話をしたり歌ったりするのはあたりまえです。
それゆえ、こんな気づきは出来ないかもしれません。
また、事故や病気で足や手を失う人もいます。
パラリンピックで、そんな身体の不自由な人が、頑張っている姿を見ると、
言葉には表せない感動をおぼえるのはどうしてでしょう。

最近、障がい者が義足でのファッションショーが開かれている写真を
週刊誌や新聞で見ることが多くなりました。

ある新聞(毎日新聞 平成27年9月6日付)に、
「走る喜び取り戻す」というテーマで、
義肢装具士の臼井二美男(当時60才)さんの事が、書かれていました。

臼井さんの詳しいことは、ここでは書きませんが、
臼井さんが携わった当時20才後半であった女性に
「走ってみたいと思わない」と持ち掛けた話が載っていました。

彼女は4才の時に、交通事故で右脚を大腿(だいたい)切断したのです。
当時、まだ義足で走れる人はゼロであった時のことです。

難しい義足の調整をしながら、廊下や道路で走る練習が始まりました。
1週間ぐらいで50mを見事に走り切りました。
彼女は「走るというのは、こんなに気持ちがいいことなんだ」と思ったのです。
忘れていた風を切る気持ちよさ感じ取ったのです。

臼井さんはその時のことを、ホームページで、書いています。
「完成した試作品を履いて走ってもらったところ、
 ポンポンポンと5歩ぐらい走れたのです。
 たかが5歩ぐらいと思うかもしれませんが、
 彼女にとっては実に大きな5歩だったのです。
 感激のあまり、彼女の目にあふれた涙を今も覚えています」
こんなコメントです。

5歩走った彼女が、神を見たかは分かりませんが、
4才から20年ほど、走ることができなかった彼女にとって、
5歩の走りは、人生の中で特別は体験であって、
そこに何か尊いものを感じ取ったのは確かなことだと思います。
その尊さを感じ取れる自分がいる。その自分に手を合わせるのです。

ありがとうと言える自分

お寺では毎月、お経会を開いています。
そのとき、来てくださる方にハガキで通知を出しています。
日程と一緒に賢人の言葉を載せて説明をしているのです。

当時(平成27年9月)の言葉は、
フランスの彫刻家で「考える人」の彫刻が有名な、ロダンの言葉でした。

家事は芸術ほど時間と勉励とを要する

こんな言葉です。

家事とは、食事を作り、洗濯をし、
掃除をしたりお茶を入れたりと、さまざまです。
子どもがいれば、子ども達の面倒も見なくてはなりません。
この家事の仕事が大変な仕事であることは、
やってみない人には理解できないかもしれません。
ロダンの言葉のように、家事は時間と勤め励む努力がいります。

それを知っていれば、お茶を入れてくださった方に、
ありがとうの言葉が出てきます。
洗濯をしてくれたことに、感謝の思いを抱きます。
掃除をしてきれいにしてくれれば、私も何か手伝いたいと思うようになります。
部屋の隅にゴミが落ちていれば、「誰が散らかしたのか」と不満を言わずに、
黙ってくず籠(かご)に入れます。

そんな自分がそこにあったなら、
小さな花であるけれど、尊い美しさがあるわけです。
その美しいしぐさを尊く思うことです。

分け与えられた自分

自分の欲をおさえて、自分の幸せを相手に分けてあげられたら、
そんな自分に手を合わせます。

欲がなければ人は生きていけませんが、
その欲が増し、どん欲になっていくと、相手のことを考えずに、
自分だけの幸せを願い生きてしまいます。
そんな自分を律して、相手への思いを少し強くします。

こんな詩がありました。
今年の1月のテレホン法話でもお話しした詩です。

79才の男性の方で、9才の時のことを思い返して作っている詩です。
「小さな笠地蔵」という題です。

「小さな笠地蔵」

七十年前の年の暮れ
母さんはぼくに
お米の入った袋を
背負わせ
顔に地蔵さんの面をつけました
ぼくは雪の山道を
急ぎました
身寄りのない
おじいさんの家の前に
袋を置きました

ふり返ると
おじいさんが
ぼくを拝んでいました

(産経新聞 令和3年12月10日付)

こんな詩です。

日本昔話の中に「笠地蔵」というお話がありました。
有名なので、誰しもが知っている物語です。
そんな童話の世界が、実際にあるのだと、この詩を読んで思いました。

このお母さんは、身寄りのないおじいさんの貧しさを知って、
お米を子どもに持たせてあげました。
そしてお米をいただいたおじいさんは、この子に手を合わせ拝んだのです。

こんな世界が広がれば、みな幸せな暮しができます。
相手に分け与えてあげる、そんな自分に感謝の手を合わせます。
その心根の奥底には神仏の思いが重なっています。

開いて手を合わす 5 一華を育てていく

美しい世界を見る

私たちの心には、尊さを感じ取る力があります。
それは一華という一つの小さな花の尊さにたとえられるのです。

そんな尊さを自分の中に見つけると、
自分を取り囲む世界に、たくさんの尊い花を見つけることができます。

怒りの思いで相手を見ると、相手を許せない思いになります。
不満の思いで相手を見ると、相手が嫌な人間だと見えます。
どん欲な思いで相手を見ると、相手がケチな人間に見えます。

昔、次女が中学生の頃、彼女が学校から帰って来た時、
「掲示板を見たか」と問うと、「見てない」といいます。
「掲示板に、ただで見られるものがあるぞ」と言うと、
カバンを置いて、掲示板を見に行きました。
帰るなり「お父さん、ほんとだ」というのです。

掲示板にはこう書いてあったのです。

腹たたば、鏡を出してみよ。鬼の姿がただで見られる

心の中でいら立ち腹を立て、その顔を鏡でみると、そこに鬼が映っているのです。
そうではなく、自分の内にある尊い思いを大事にして、まわりを見ると、
そこにはきっと、美しい世界が見えるはずです。

ふり返り見る一華の花

3回にわたって、「一華開いて手を合わす」というお話をしてきました。
この中で、一華という尊さを思い返してみましょう。

足の悪いおじいさんが「なあに、早く歩けないだけね」と言って笑っている。
そんなおじいさんの生き方の中に。

工藤直子さんの詩に、
「わたしはわたしの人生から出ていくことはできないならば、ここに花を植えよう」
という生き方の中に尊さを見つける。

「手を合わせ 静かに目をつむる時
 うかんでくるよ ののさまの やさしい その笑顔」という仏教賛歌があること。

「あなたたちの家族の幸せが、お母さんの幸せです」と娘に行った言葉の中に。

夢多き年末ジャンボ外れても変わらぬ今に乾杯、という短歌から、
平凡だけれども、いつもの変わらない生活ができていること。

散歩していたら、無人の直販所があって、
そこに大きな日本を見つけたという、お話の中に。

何も教えないのに、観音様の前に来たら、
手を合わせて頭を下げた子どもさんの行いの中に。

この世には無駄なものが一つもないという言葉の中に。

お経を聞いて、怒りの心が消え、感謝の思いに染まった女性の瞳に中に。

「つらいことがあったら、お経を唱えるといい」と祖父に教えてもらい、
遭難しそうになった海の中でお経を唱えて助かった
小学校3年の男の子の体験の中に。

ことばと出会い、勇気をもらった人たちの生き方の中に。

障がいを乗り越え、笑顔で前向きに生きる人たちの生き方の中に・・・。

この3回のお話の中に、たくさんの大切な生き方がありました。
生きていくどんな時でも、一つでも尊い花の生き方を見つけ出していきます。
その尊さを、手を合わせて受け取り、自分の心の花を育てる力としていきます。