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法話

花の風になれ 1 さまざまな風

今月から「花の風になれ」というテーマでお話を致します。
このお話は平成27年11月26日、129回目の「法泉会」という法話の会でお話ししたものです。
少し手直ししながら、3回ほどにまとめてみます。

私を通り過ぎていった風

私が考えた言葉の中に「慈しみの思いは、安らぎの風を吹かす」というのがあります。
この言葉は拙著「人生は好転できる」という本に出てくる言葉です。

花の特徴を言葉で言い表すと、ほほえみであるかもしれません。
美しさ、静かさ、穏やかさ、明るさなどで表すことができると思います。
それを「花の風」に重ねてみると、ほほえみの風を吹かすとなります。

さらには美しい風を吹かす、静かなる風を吹かす、穏やかな風を吹かす、
明るさの風を吹かすとなり、「そんな風になれ」というお話です。

このお話(平成27年11月)をする2カ月ほど前に、ある方らかハガキをいただきました。
そこには、こんなことが書かれていました。

「送ってくださった『法愛』も和尚様のお話のCDも、生きる上で、とても役立っています」
と書かれていました。そのハガキの表には、星野富弘さんの絵と詩が印刷されていました。
この詩を載せてみます。

風は見えない
だけど
木に吹けば
緑の風になり
花に吹けば
  花の風になる

私を過ぎていった風は
どんな風になったのだろう

こんな詩でした。

花に風吹けば、花の風になる、
いい言葉だと思い、「花の風になれ」という演題で話を作ってみようと思ったのです。
私を過ぎていった風はどんな風だったのだろう。
また、自分はどんな風を吹かせているのだろう。
そんな問いを持ちながら、考えていきます。

法愛の風

私を通り過ぎていったひとつの風が「法愛の風」かもしれません。
この風を受けて、人生を大切に生きようとする人がいます。

山萩月(やまはぎづき・平成24年9月)の言葉は、
自分勝手な心が貧しさを作り
思いやり深い心が富を作る

こんな言葉でした。

この言葉をノートに挿(はさ)んでいる女性の方がいました。聞くと
「私は自分勝手になりやすいので、いつもノートに挿んで、
 この言葉を見ることにしているんです」
というのです。

自分勝手な風ではなく、思いやりの風を吹かせたい。
そんな生き方をしたい人の工夫です。

この月の言葉は、毎月お寺の掲示板に書きます。
私の知らない人が、掲示板を見てメモ書きをしていきます。
「ああ、この掲示板からも、何やら風が吹きぬけていくのだなあ」と感じるのです。

ある時の掲示板には、こんな言葉を書きました。

いらいらしてかっとなると幸せが逃げる
穏やかに和して生きる

お墓に掃除にきた方が、この言葉を見て、ハッと思い、
「かっとなってはいけない。穏やかに、穏やかに」と思ったそうです。

その人は喪主に変わって、お墓の掃除をしているのですが、
喪主は遠くに住んでいるので、なかなか掃除にも来られないそうです。
そこで、その人は変わってご先祖様のことをしているのです。

そんなとき、「どうして私が、いつも……」という思いが出て、
「かっとなってしまう」というのです。

こんなところでも、掲示板の言葉の風に吹かれて、心を正している人がいました。

爽やかな風

私たち自信も、たとえば爽やかな風となって吹いていく。
そして、その風に包まれた人が幸せになっていく。
そんな風を吹かせていくことが、花の風になれということです。

そんな爽やかな風を吹かせた少女の話があります。
これは「自転車女子の気遣い」という題で、55才の女性の方が書かれたものです。

「自転車女子の気遣い」

国道の歩道を夫と一緒に歩いていると、
前方から、小学校高学年くらいの女の子が載った自転車が近づいてきたので、
私たちは右側に寄って縦に並んで歩きました。

すると女の子は自転車から降り、自転車を押して歩き出しました。
もしかして私たちのために?と思い、すれ違いざまに笑顔で会釈すると、
女の子もほほえんで少し頭を下げました。
そして、また自転車に乗って走っていったのです。
やはり私たちを気遣ってくれたのでした。

それまでも、その後も、自転車に乗った何人かの大人とすれ違いましたが、
自転車から降りた人はいませんでした。
中にはスピードを落とさない人もいて、怖い思いをしました。
それだけに、女の子の振る舞いがすてきに思えました。
大人も見習いたいものです。

(読売新聞 平成27年11月11日付)

こんな文です。

この少女が自転車を降りて、歩いている人を気遣う場面、
そしてほほえみながら会釈した行い。
そんな少女の振る舞いから、花の風が吹いてきます。
それは人を気遣う風であり、ほほえみの風であり、爽やかな風でもあります。

私たちも相手を幸せにできる自分色の風を吹かせて、
相手を幸せ色に染めてあげることが、生まれてきた私たちの尊い使命のひとつであると思います。

悪の風も吹きぬけていく

今年は児童虐待の通告が増えているといます。
昨年(令和3年)の1年間で、子どもから児童相談所に通告があったのが過去最多で、
10万8050人もいたそうです。大人でなく、子どもからの相談です。

その内容は「心理的虐待」が1番で、続いて「身体的虐待」「育児放棄」が続きます。
おそらく、通告をしないで苦しんでいる子どもさんも多いと思いますが、
こんなつらい悩みを持った子どもが増えているのです。
このような子どもさん達は、どんな風を受けて、暮らしているのでしょう。

また還付金詐欺が昨年(令和3年)は前年の2倍も増え、被害額が45億円だそうです。
テレビなどでもお金が戻るという、そんな宣伝をよく見ますが注意しなくてはなりません。
たとえば、詐欺の手順をある新聞が書いていました。

杉並区の70代の男性宅の固定電話に、「区役所職員」を名乗る男から電話がありました。
「医療費を還付する期日が迫っているのですが、書類は届いていませんか」と。
男性は、書類は届いていなかったのですが、持病で高額の薬を服用していたので、
その医療費が戻ってくると思い込んでしまったのです。
電話の男は「書類がなくても手続きはできます」と、説明しました。

その後、銀行のサポートセンターを名乗る電話があり、
「ATMへ行ってください。着いたら手順を説明します」と言われました。

男性は銀行のATMコーナーに行き、伝えられた携帯電話に電話をかけました。
すると電話の男は「指示通りに操作してください」と言うのです。
その通りにATMを操作し、翌日通帳を記帳したら、
計93万円余を2回に分けて振り込んでいたことを知り、
そのとき初めて被害にあったことを知ったといいます。

そんな詐欺なる悪の風を吹かせていると、必ず死後、閻魔様の裁きを受けなくてなりません。

自分に悪の風を吹かせてはいけない

自分に悪の風を吹かせてはいけないというのは、
自分自身が以前、誰かに傷つけられたことや嫌な出来事などをずっと覚えていて、
自分を傷つけた相手を恨み続けていることです。

もうとっくに済んでしまったことなのに、忘れないで、
思い出しては「許せない」「くやしい」と思う。
これは自分が自分へ悪の風を吹かせて、不幸にしているのです。

たとえば、こんな話があります。

この女性は今大学生ですが、中学校の時に、
部活の合間に、自分がスイカの種を買ってきてまき(学校内だと思いますが)、
水をやり、毎日世話をしていました。
やがて小さなスイカができ始めたころ、高校の受験ですっかりスイカのことは忘れてしまいました。

後日、そのスイカを誰かが美味しそうに食べている写真を見たのです。
その写真を見て、「私が作ったスイカなのに」と腹立たしく思い、
そのくやしさを忘れられないで、すでに4~5年が経ちました。
「この思いをどうすれいいかわかりません」という、そんな女性の相談でした。

もう過ぎたことを思い返しては、辛い思いをし続けています。
悪の風を自分自身が自分に吹かせて、不幸にしている例です。
自分が作ったスイカを誰かが美味しそうに食べている。
その誰かたちが幸せであれば、それでいいと思う。
スイカも腐って捨てられるよりも嬉しいに違いない。そう思うことです。
善いことをすれば、また違った形で、善の結果を得られると思い、
慈しみの風を吹かせていけばいいのです。

欲深な風

自分に吹かせてはいけない、もうひとつの風を考えてみます。
それは欲深な風です。

誰しもが、こんな風を吹かせて、返って損をする。
そんな体験をお持ちの方もいるかもしれません。
「欲をかくとクソをかく」という格言がありますが、注意しなくてはなりません。

「ぎょうせい」という出版社が出している『日本の民話』という本があります。
12巻本で、10巻目が「四国」の民話を集めています。
その中に、北宇和島に伝わる「黒砂糖は毒」という民話があるのです。
一休さんのような少しいじわるな頓知(とんち)です。
こんな欲深さは、あまり勧められません。全文を載せてみます。

黒砂糖は毒

和尚が留守に、小僧が黒砂糖を食べたらいけんけん、
「小僧や、この箱には毒みそが入っておるが、必ずふたをあけるなよ」
いうて、
「はい」
というて。

和尚様が毒みそいうたが、見るないうたら見たいわなあ。
ほいで、見て、食べたところが、うまいわなあ。
一口なめ、二口なめしているうちに、なくなってしもうて、
こりゃあなんとかせんといけんと思うて、
和尚さんが大事にしておった茶碗をわざと割って。それから、
「小僧よ、この茶碗はどうして割った」
「はい、おそうじをしよって、まちがいに割りました。
 和尚様が『あれは毒みそじゃ。あれを食べたら死ねる』といいなさったんで、
 死んでおわびをしようと思って、みな食べたけんど、死にません」
というた話。

こんな話ですが、その後、小僧はどうなったのでしょう。
おそらく、ウソは、いつかばれますので、罰を受けることになったと思われます。

人は見てはいけない、というと見たいものです。
日本昔話の中に「つるの恩返し」という物語があります。

つるが猟師のわなにかかって苦しんでいるのを助けたおじいさん。
そのお礼にとつるがおじいさんの家に来て、機織りをし、
おじいさんの家計を助けてあげる。
でも、「機織りをしている姿を見てはいけない」という、つるの言葉に、
ついおじいさんは機織りをしているつるを見てしまう。
見られたつるは、もうこれ以上家にいられないと、家を出ていく。そんな物語でした。
見てはいけない、というのに見たい。これも欲からきているといえます。

この小僧は見るだけなら良いのですが、
おそらく黒砂糖と分かって、一口食べました。
それでお終いにしておけばよいものを、二口三口と食べて止まらない。

歌人の若山牧水が、
「かんがえて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆうぐれ」
という唄を作っていますが、お酒でも、その美味しさに負けてしまい、
まだ飲みたい、もう一杯、というのは人間のサガかもしれません。

この物語の小僧は、みな黒砂糖を食べしまって考えたのが、
ウソをついて、自分の悪を消し去ろうとしたことです。
前述の詐欺の話のように、和尚をだまそうとしたのです。これも欲深さからきています。

欲の深い人は、自分のことを考えることが多いのです。
自分のよきことばかりを考えます。

そうすると、相手のことはあまり考えられなくなります。
考えられなくなると、どうなるでしょうか。相手から幸せを奪う気持ちが出てくるのです。
奪うにはウソをついてもかまわない、そう思い、良心の呵責が薄くなっていきます。
自分が幸せになるために、人を踏み台にして、幸せをつかむ。欲深さの末路です。

そんな欲深さの風を吹かせて、相手を傷つけ、そして自らの良心をも傷つけてしまう。
そうならないために、足ることを知り、正直な風を吹かせていくことです。

(つづく)