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法話

花の風になれ 2 風の道

先月は「さまざまな風」という章で、
法愛の風、爽やかな風、欲深な風などのお話をし、
自分はもちろん相手にも、爽やかで正直な風を吹かせていこうという、
そんなお話を致しました。続きです。

善の風を吹かす

風は青空を行き、木々をすり抜けて、流れる水をくすぐり、
どこまでも吹いていきます。

その風は、また泥水にも下水にも吹きぬけ、区別をしません。
できれば、そんな風になれればよいのですが、
人間は、なかなかそのような尊い生き方は難しいものです。

でも、できるならば、悪なる風でなく、善なる風を吹かせ、
爽やかなほほえみの花を吹きぬけてきたような生き方ができれば、
自分自身も相手の人も共に、幸せになれる人生を送ることはできると思います。

そのために、風の道を善なる方へと変えていく、そんな努力が必要になります。

不信心から信心への道の風

ある女性からハガキをいただきました。
そのハガキの内容を読むと、「法愛」(平成27年11月号)を読んで、
自分の生き方が変わったと書いてありました。

その「法愛」がどんな内容なのかを確かめてみました。
メイン法話が「心の栄養学」という演題で、そこには心の三大疾患のことを書いていました。

身体の三大疾病はよく聞くことです。
これは、日本人の死因のうち、上位をしめる3種類の病気をまとめた呼び名で、
ガン、急性心筋梗塞(こうそく)、脳卒中のことです。

心の三大疾病とはどんな病気でしょうか。
この「法愛」では、不信心、我欲、不勉強をあげて、説明しています。
最初の不信心の説明を載せてみます。

心における三大疾患を考えてみます。
1番目が「不信心」です。
無宗教であっても恥ずかしいと思わないことです。
神仏のことについて無関心で、守られ生かされていることを知らず、
ましてや手を合わせる尊さを知らないで生きているということです。
身体のガンにあたる病気といえましょう。

そしてお釈迦様の言葉を載せています。

信仰心の深い人は人生の旅路の糧(かて)を手に入れる。

こんな言葉です。

詳しい説明がさらに続きますが、
こんな「法愛」のところを読んだ女性が書かれたハガキの文を載せてみます。

山の紅葉の美しさに心が洗われております。 届く「法愛」を楽しみに、勉強させていただいております。
いつもありがとうございます。

嫁に来て、姑につかえ、食品の小売りを任せられ、
それと子育てと、夢中で世渡りをしてきました。

80才の自分の人生を静かに振り返ってみても、
神仏にあまり関心を持たなかったことを恥ずかしく思っています。

「法愛」に接し、生きざまが変わりました。
人様が喜ぶことを、勇気をもって心がけ、心の勉強に励みたいと思います。
悔いのない人生を努力してまいります。心の支えにしております。

こんな文章です。

生きる風の道が変わりました。
神仏にあまり関心を持たなかったことを恥じて、
信心を大切にしながら、人様が喜ぶことを勇気をもって心がけると書いています。
年齢が80才でも、心を入れ替え、花の風を吹かせることができるのです。

風の道を変える、備えの大切さ

ハガキの女性は、心の勉強に励みたいと言っています。

私たちがこの世に生まれてくる一つの理由は、多くの学びを積むためです。
そのために、苦労があったり、悲しみがあったり、そして幸せの日々があったりして、
それぞれ与えられた人生の課題に立ち向かっていくのです。

そのとき、普段から学びという備えをしておけば、
どう苦しみを乗り越えていくかが分かります。
そんな備えの大切さを教えていただいた出来事がありました。

平成26年9月28日、長野県と岐阜県の県境にある御嶽山(おんたけさん)が噴火し、
58人が死亡し、5人が行方不明となる戦後最悪の火山災害がありました。

その中で、生還を信じて救助を待ち続けた40代の女性がおられました。
「備えの大切さを伝えたい」と、傷も癒えない中で、当時の状況を振り返る記事が
ある新聞に(産経平成27年9月28日付)掲載されていました。

御嶽山の噴火は午前11時52分。
最初、噴火したときには、女性は現実と受け止めることができず
「まさか、この山とは思わず、どこかの他の山かなと感じて・・・」。
その10秒後、現実を突きつけられました。
逃げる時間はありませでした。
近くに身を隠すような所もなく、噴煙が目前に迫ってきました。
噴煙は熱く、サウナに入ったような感じで「焼け死ぬのか、溶けるのかな」と思ったようです。

山梨県富士山科学研究所の試算では、
火口から噴石が出た速度は、時速360~540km。
地面に衝突した際の速度は108kmであったといいます。

女性にも、そんな噴石が襲い掛かりました。
2度目の噴石が襲ってきたとき、身体が地面に沈むくらいの衝撃を左腕に受け、
「痛い、熱い、しびれ」と、今までに味わったことのない感覚がしました。
そのとき、お腹に何か重いものを感じ、それが噴石の直撃でちぎれた自分の左腕だったのです。
近くの人に、止血をしてもらい、腕をなくしたことは残念であったのですが、
命を落とさなかったことで、生きようと思ったのです。

下山を勧められも、動くことができず、石が積まれていたそこに坐り、
下山できる人に、自分のザックからダウンジャケットと簡易テントを出してもらい、
防寒対策として、身体に巻き付けてもらいました。
標高3000m付近の夜は、氷点下であったようです。

寒さに耐え、救助されたのは翌日の午後0時半でした。
自分の近くにいた男性2人は息を引き取っていたそうです。

生死を分けたのは何だったのでしょう。

女性は、
「御岳山は初心者でも気軽に登ることのできる山だけに、
 十分な準備をしている人が少なかった。
 生き残れたのは運もあるが最低限の準備をしていたからだと思う」と。

女性は登山の際、日帰りでも簡易テントは必ず携行し、
3000m級の山にはタウンジャケットも持っていました。
夜になるまで生存していながら、周囲で亡くなった登山客は、
ダウンジャケットや簡易テントは持っていなかったようです。
生死を分けたのは「その差ではないかと思います」と女性は言います。 そして、女性は訴えます。
「もし山に行かれる方は、リスクを考え準備をしてほしい」と。

何も恐れない風

初心者でも登れる山に、突然噴火という災害が起き、
十分な準備をしていった女性が命を失うことなく、
こうして新聞にその体験を語り、みなに「備えの大切さ」を伝えたのです。

考えてみれば、人生も山を登るようなものかもしれません。
平坦な毎日と思って暮らしていたら、突然事故に遭ったり、病気になったり、 人間関係で苦しんだり、順調にいっていた仕事が上手くいかなくなったり、
介護をされる身になったり、介護する立場に立ったりと、さまざまです。

でも、人生という山登りは逃げることはできません。
自分の足で準備を怠らずに歩いて行かなくてはなりません。

例えば、こんな準備も必要かもしれません。
「生きる」という詩を紹介します。65才の女性の方の詩です。

「生きる」

長く苦しかった
人生の中で
嬉しかったことだけを
飛び石のように
思い出しながら
生きている老婆(ひと)

顔をほころばせて
これが
老後というものならば
私はもう
何も恐れない
よけいな物を
削ぎ落しながら
生きるのだ

(産経新聞 平成27年11月22日付)

こんな詩です。

長くて苦しかった人生。険しい山を登るような表現です。
でも、苦しいことを思い出して悔やむのでなく、嬉しかったことを思い出す。
それを「飛び石」のように思い出すと表現しています。上手な表現の仕方です。
そして、嬉しいことを思い出して笑顔で生きている老婆(ひと)。
それが老後というものなら、この詩の作者はもう恐れないと決意し、
よけいなものを削ぎ落し生きていくと書いています。

苦しいことのみを背負い生きていては、人生の山道はつらいことばかりです。
そうではなく、嬉しかったことだけを心に刻み生きていく。
そんな生き方ができれば、人生に恐れなどなくなっていくかもしれません。
人生を歩いていくための備えとして持つ、一つの賢明な考え方です。

勤め励む風の道を行く

人はとかく自分を甘やかす、そんな生き方を選びやすいものです。
こんなことを真剣に考える人はいないと思いますが、
働かないで食べていければ、こんな楽なことはないという生き方です。

かつて定年で仕事をやめられた男性と話をしたことがあります。
その男性は言うのです。

「会社に行けず、仕事がないというのが、こんなに大変なことだとは知らなかった。
 暇のほうがよいと思っていたけれど、とんでもないこと。
 元気なうちに少しでも働けるというのは幸せなことです」と。

こんな短歌がありました。女性の方の短歌です。
(毎日新聞 令和4年6月14日「毎日歌壇」)

美しい手にはあらねども働き者のわが手を愛す

お年は分かりませんが、美しい手ではないけれど、
骨太で働き者の手を愛していると歌っています。

日々、働くことを惜しまず、家族やまわりの人のお役に立ってきたのでしょう。
ごつごつとした手でも、その手によって多くの人を支えてきたならば、
その手に何かしら、尊い光が放たれているかもしれません。

私たちにはその輝きは見えないかもしれませんが、
きっと、見えない世界にいらっしゃる神様や仏様は、
その手を美しいとほほえんで見ていると思います。
そんな勤め励む手から、花の風が吹いているのです。

勤め励む風に、人を思う気持ちを添える

日々勤め励むその生き方の中に、相手を思う気持ちを少し添えるだけで、
さらに尊い花の風になります。
その花の風を吹かす人に、幸せの福の神が寄りそってくるのです。

こんな短歌もありました。男性の方の短歌です。
(読売新聞 令和4年6月27日「読売歌壇」)

きみのバースデーケーキを予約してきみより先にしあわせになる

仲のよい夫婦なのでしょう。
妻の誕生日にバースデーケーキを予約し、
誕生日の日に、お祝いしてあげるのです。

その妻の喜ぶ顔、そして笑顔を見て、先に幸せを感じている短歌です。

人にしてあげることは、自分が幸せになる秘訣(ひけつ)なのです。
本当はしてもらうほうが幸せに感じますが、それ以上に、不思議なことですが、
自分が相手を思い、してあげる、支えてあげる、
助けてあげるほうが幸せになれるのです。

檀家さんが亡くなると、必ず「故人を偲ぶ言葉」を書いてもらいます。
男手一人で二人の子を育てたお父さん。
85才で亡くなって、そんなお父さんへの思いを、娘さんが書いてくれました。
一部を載せます。

父はいつも優しく穏やかで、人の悪口を言う人ではありませんでした。
小さな私たちをとても愛してくれて、子どもを思う父の愛の深さをいつも感じていました。

私が小学校6年生の時には学級の役員をしてくれて、
男手で私たちを育てる父にとっては大変なことであったと思います。

料理も上手で、醤油で味付けした卵焼きや、
お肉の代わりにちくわを入れ、塩で味付けした焼きそば、
たくさんの父の味、今でも大切に忘れないでいます。

手先が器用だったので、それを役立たせ、たくさんの人のお役に立っていました。
それがまた父の喜びであったかもしれません。

こんな故人を偲ぶ言葉です。
子どもへの愛、そして人のお役に立てる喜び。
勤め励み、そこに他を思う気持ちを添えると、
そこから尊い花の風が吹いてくるのです。

(つづく)