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法話

花の風になれ 3 自分色の風を吹かす

先月は「風の道」という章で、善の風、何も恐れない風、勤め励む風などのお話をし、
他を思う気持ちを、その風に添えることで、尊い花の風を吹かすことができる。
そんなお話でした。続きです。

泪と負けない風

花が泪を流すというのは聞いたことはありませんが、
春咲く花も、きっと冬の凍てつく大地の中で、泪を流さなくても、
辛い日々を過ごしているのではないかと思います。

泪と言えば、高梨沙羅(25)さんの泪を思い出します。
今年、令和4年の北京で冬季オリンピックが開催されました。
2月7日に行われたスキージャンプの混合団体で、
高梨沙羅さんがスーツの規定違反で、まさかの失格になりました。

その時の泪が、とても印象的に思い出されます。
もうスキーをやめようかとも思ったようですが、立ち直って、
2026年に行われるミラノ五輪への意欲を示しているといいます。

辛い泪でしたが、負けない風が吹きぬけていきます。
きっと、この涙がきれいな花を咲かせる力になっていくと思います。
長野五輪のテーマソングにもなったゆずの歌った
「栄光の架け橋」に出て来る歌詞を思い出します。

誰にも見せない泪があった
人知れず流した泪があった
決して平らな道ではなかった
けれど確かに歩んで来た道だ

誰しもが、こんなつらい泪を流したことがあったでしょう。
その泪が自分の人がらを深くし、そこから吹いてくる花の風は、
相手によい影響をきっと与えていきます。

雑草のような風

現在はプロフィギュアスケーターで、
バンクーバーとソチオリンピックに選ばれた鈴木明子さんが出された
『壁はきっと超えられる』という本があります。そこに、

自分のためよりも、大切な人のためのほうが、大きな力を出すことができる。
人間ってそうゆうふうにできているような気がする。

こんな言葉がでてきます。

自らの人生からつかみ取った、大切な言葉です。
そんな生き方から、鈴木明子さんの風が吹いてきます。

彼女自身、何度も壁にぶつかって、それを乗り越え、
彼女なりに雑草のように強く生きてきました。
どこかで誰も知られず、泪した日があったことでしょう。

ある新聞に、「たからもの」という企画で、
鈴木明子さんのことが載っていました。

彼女のたからものとは、
「あすなろ」という小学校3年生の時の学級通信だそうです。
カラー写真で、彼女が「あすなろ」の学級通信を持っている姿がきれいに写っています。

この学級通信は、担任の教師であった鈴木正巳先生が、
子ども達の様子を家庭に伝えようとした手書きで印刷したものです。
1年間に102号も発行されたといいます。

先生は当時50才代後半で、人工透析を受けながら教壇に立ち続けた先生でした。
透析を右手で受けているときは、左手で学級通信を書いていたといいます。
鈴木明子さんは「先生が頑張っているから自分もがんばらなくっちゃと感じていた」
と、コメントしています。

その学級通信には、こんな言葉が載っていたと、新聞には書かれています。

何でもいい、打ち込める何かを持っている子は幸せだ。
壁を乗り越えるって長く苦しいね。
苦しみが喜びに変わるとき、人は大きく成長する。

(読売新聞 平成27年9月21日)

この言葉の後に、鈴木明子さんの
「大人になって読み返すと、大事なことを伝えてくれていたと気づかされます」
とあります。6才からスケートを始め、
13度目に、28才で初めて全日本選手権で優勝しました。

その長い道のりは苦しかったでしょう。
優勝という壁を乗り越えた、そんな体験と、
小学校の時の担任の先生の言葉が合わさって、
『壁はきっと超えられる』という本の題名が出来たのではないかと、推測します。

花も苦労を重ね、そんなそぶりも少しも見せず、ほほえみの花を咲かせます。
人もそれぞれの苦難を乗りこえ、密かに泪しながら、その人自身のきれいな花を咲かせ、
そこから吹いてくる風が、相手にも大きな力を与えるのだと思います。
雑草のごとく強くあれ、そう教えていただくエピソードでした。

鈴木明子さんは、もっときれいな花でたとえられるでしょう。

自分という花から吹いてくる風

この「法愛」をお読みのみなさんは、
自分をどんな花とたとえられるでしょう。
バラの花でしょうか。ユリの花でしょうか。
元気で明るい人は、ひまわりの花かもしれません。

花ことばがありますが、
たとえば秋に咲くコスモスは「乙女のまごころ」だそうです。
シクラメンの花は「はにかみ・内気」、ナノハナは「快活」です。

私自身、何の花にたとえたらよいかと考えてみました。
花ことばから探せば、ピンクッションという花があって、花ことばが「豊かな心」です。
そんな心になりたいとは思いますが、やはり、自分としては、
目立たなくて、それでも何か役に立っている、そんな花がいいのです。
少し考えて探してみると、定かではありませんが、フキノトウの花かなあと思うのです。

早春の里山に、フキノトウが顔を出し、
まだ花の咲かないうちに取って来て、天ぷらにして食べると、
口の中に春の香りが広がっていきます。

そして花自体は、床の間に飾られることもなく、忘れがちになる。
そんな花のイメージを持っています。

私はよく心の食事を取ることが大事だと、何度もお話ししています。
そのひとつに「法愛」という心が取る食べ物があります。
その味わいは、人それぞれでしょうが、
美味しく食べられるようにと微力ではありますが、考えながら作っています。

「法愛」を読んでいる方から、こんなメッセージをいただいたことがありました。

こんにちは。
いつも法愛をお送りくださりありがとうございます。
自分は日々頑張っているつもりでも、
ああ、足りないと振り返って反省させていただいています。
法愛はやさしく心の中に入って来てくださいます。
ありがとうございます。

こんな文でした。

「やさしく心の中に入っていく」という表現は、
心の食事として美味しくいただいていると判断しても、よいのではないかと思います。

「法愛」を読んで、「ああ、私もできるなら、こんな生き方をしたい」とか、
「少しの時間だけれど、心が優しくなった」とか「心が柔らかくなった」など、
そんな思いに少しでもなれば、心の食事として、この「法愛」も役に立っていると思います。

それが、まだ花の咲いていないフキノトウで、
食べると春の香りが口いっぱいに広がる。
そしてその花は目立たない所に咲く。

この「法愛」も心の食事としていただいてしまえば、
法愛を書いている人のことは忘れてしまう。
そんな目立たないイメージがいいのです。

それぞれの自分の花を探して、
どんな花の風を吹かせていくのかを、考えることも、
大切な人生の時間になっていきます。

尊い香りの風

四季折々にさまざまな花が咲きますが、
そんな花の種類はどれだけあるのでしょうか。

でも、みな違っていて、
違っていても、それぞれの特徴を生かし咲いています。
みな違っていて、素晴らしいのです。
神仏が、そんな花をこの世に在らしめている、そんな思いがします。

人もそれぞれで、違った姿をしています。
不思議とみな顔や身体、そして考え方も違います。
違っているのですが、それが上手く調和されると、そこに幸せの輪が広がっていきます。

お釈迦様が小さな子ども達に諭した逸話があります。
仕事に貴賤はないという教えです。

特にお釈迦様の生まれたインドでは、
カースト制と言って、厳格な身分の差がありました。
こんな時代に、このような教えを説くことができるのは、
深い慈悲の思いがなければできないことだと思います。

ある時、男が人の排泄物を片付ける仕事をしていました。
そこに子どもたちが集まってきて、
「くさい、くさい。あっちへいけ」と、男に石を投げました。

男は辛い悲しい思いになり、逃げるように、
その場を立ち去ろうとしたとき、ちょうどそこにお釈迦様が通りかかりました。
男と子ども達のようすを見ていたお釈迦様は、子ども達にこう語りかけました。

「人の排泄物を片付けることは、人のお役に立つ、とても大切な仕事です。
 優しい眼差しで彼を見てごらん。
 彼からは人に役立とうとする香りが漂っているのです」

お釈迦様の慈しみの眼差しが子ども達に向けられると、
不思議とお釈迦様の言葉が、子ども達の心の中に入っていきました。

そして、みんなで「すみませんでした。尊いお仕事頑張ってください」と、
頭を下げて謝ったのです。

こんなお話が残っています。

またある本にこんな話も出ていました。

汗を流して下水道を工事している男の人を見て、
小さな子どもを連れたお母さんが、
「あんな汗をかいて泥水の中で仕事をするような人にならないためにも、
 よく勉強して、偉い人になるのよ」
と、子どもを諭しました。

もうひと組のお母さんと小さな子供が、そこを通りかかりました。
お母さんは子供に、
「あんなに泥まみれになって、私たちに美味しい水をくださっているのよ。
 ありがたいことなのよ」
と、子どもに言いました。

どちらが、大切なものを見ているでしょう。

お釈迦様のように人に役立つ仕事をすることが、
尊い香りを放っていると思います。
そんな人から吹いてくる風もあるのです。

さまざまな花があるように、さまざまな人がいます。
それらの人が花のように、ほほえみながら、人の役立つ生き方をしていくことが、
私たち人間としての使命でもあり、役割でもあると思います。

女性が作った短歌がありました。

美しい手にはあらねど骨太の働き者のわが手を愛す

(毎日新聞 令和4年6月12日)

自分にしかできないことが、必ずあるものです。
この女性は家族や多くの人のために働いてきたのでしょう。
骨太でも、手の歴史が美しい人生を語っています。

透明な風を吹かせる

風は透明です。
透明ゆえに、どんな花に吹いていっても、その花の色を汚すことはありません。

私たちはみな個性を持ち、
その個性を生かして生きていくのは大切なことです。

でも、その個性が自分勝手な生き方になり、
我欲となって、相手を傷つけ、その生き方が自分をも不幸にしてしまわないよう、
気をつけなくてはなりません。

風の透明さは、「相手は、こうあらねばらない」と決めつけるものではありません。
思うようにならないからと言って、不満を持ったり、相手を恨んだりとか。
「どうしてこんなにしているのに、私のことを分かってくれないの」
という思いは、風にはありません。

そのような風の生き方は難しいかもしれませんが、
「そんな生き方を私もしてみたい」と思うことが大事になります。

心が軽くなり、笑顔がもどってきます。
そんな自分の風を吹かせていく努力が必要です。

良心の風

そして、もう一つ必要なのが、神仏を信じるということです。

みな良心を持っています。
善いことをすれば心があたたかくなります。
悪いことをすれば、心が乱れいい気持ちではありません。
それはみな良心があるからです。

その良心と神仏の心はつながっているのです。
良心の声を聞き、善いことをすれば、神仏も嬉しいのです。
そしてそう生きた人が、爽やかな風になり、死後、天の世界に吹いていくことできるのです。

「ただいま」

人間ってすごいね 生まれる前は天国で
赤ちゃんで生まれて おじいちゃんになって
また天国へ行くんだね
でもじごくへ行く人も ときどきいるみたい
ぼくは天国がいいな
そして神様におかえりって 言ってもらいたいな

(産経新聞 令和4年7月15日付 9才の男の子の詩)

神仏を信じ、良心という花の風を吹かせ、
まわりを幸せの笑顔にさせていけば、みんな、必ず天国に帰れます。