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法話

よい人生であったと思えるために 2 幸せを育てるための、心の学び

先月は「幸せを育てる」ということで、お話を致しました。
日々幸せの中にいるのに、その幸せに気づかない。
幸せはシンプルだから、水道から水が出てくるだけでありがたいと思う。
そして今が幸せと思っていると、幸せが引き寄せられてくる。
そんなお話をしました。続きです。

心に何を思うかで人生が変わる

健康な身体を作るためにも、私たちは食事に注意をし、
運動をしたり、病気になれば医師に相談したり、
健康な身体を保とうと努力します。同じように、
心も常に健康に保つことが必要です。

心についてまず、大切なことは、
心の思いによって、その人の生き方が変わってくるということです。

たとえば、ここに2人の男性がいます。
1人の男性は、いつもこう思っていました。
「私はバカで、何もできない」と。
もうひとりの男性は
「私はバカかもしれないが、努力すればなんとかなる」と思っていました。
この2人の男性のどちらが、成功の道を歩むことができるでしょう。
成功とは言わないまでも、後者の男性のほうが、よい人生を歩める確率が高いと思います。

あるいは、「私は人前で話しをするなどとは、とうていできない」という人。
もう1人の人は、「人前で話しをするなどとはおこがましいけれど、
なんとか話ができる、そんな人になりたい」と思っている。
どちらの人が、話ができるようになるでしょう。
後者の人が、今話している杉田です。

このような講演をしないほうが楽なのですが、
せっかくこの世に生まれてきたのですから、未熟でも、自分の出来ることをする。
そこに大切な生き方があるように思えます。
ただ、不勉強な私が、話をすることで、
勉強しなくてはならないように、自分を追い込んでいる。そんな気もしています。

今の皆さんの立場でいえば、こうなります。
今日、この場所で、杉田という坊さん来て、
「よい人生であったと思えるために」というお話がある。
「杉田さん? 知らないなあ」と思う人は、きっとこの場所にはこない確率が高いでしょう。
「杉田という人は知らないが、演題に興味がある」。
そう思う人は、ここに来る確率は高いと推測します。
綾小路きみまろだったら、文句なしに、みな参加するでしょう(笑い)。
聞きたいと思うからです。

このように心で何を思うかで、その人の生きる道が変わっていくのです。

不満の思いが、心をいらだたせる

この話は有名なので、知っている人も多いと思います。禅の話です。

昔、2人の修行僧が旅をしていました。
川にさしかかった時、その川を渡れず困っている若い1人の女性がいました。

すると1人の修行僧が、何を思ったか、若い女性のところに行って、
「困っているのなら、私が渡してあげましょう」と話かけたのです。
女性は恥ずかしそうに頭を下げ、「お願いします」と。
その修行僧は、女性を背負い、川を渡してあげました。

おもしろくないのは、もう1人の修行僧です。
若い女性を背負って川を渡した修行僧のことを思うと不満でたまりません。心の中で
「修行中の僧が、あんな若い女性にふれていいものか。
 あいつは修行を怠っている」
と。心のいら立ちをおさえきれません。

しばらくして歩く道すがら、その不満をぶつけました。
「お前は、修行の身であるのに、どうして若い女性を背負って川を渡したのか。
 女性に触れてもいいのか。お前は堕落している」と。

すると、女性を背負ってあげた修行僧は言いました。
「お前は、私が女性を背負って渡したことを、まだ背負っているのか。
 私はもうすでに背負ってなどいない。そのことはすでにすぎたこと。
 女性を背負ったことには、もうとらわれていない」。

不満を抱いたもう1人の修行僧は、この言葉に、何か気づかされ、
何事もなく、旅を続けたのです。

明確ではありませんが、このような話です。

女性を背負うことをしなかった僧は、
背負った僧に対して、不満といら立ちをずっと背負っていたのです。
その重い荷をおろせばいいものを、背負い続けていたので苦しいのです。

心に不満の思いを背負い続けていると、
そこに現れるのは、きつい言葉であったり、悪口であったり、
あるいは相手を不快にさせる行動であったりするのです。

不満の思いがでたら、その不満を背からおろすと、心が軽くなります。

心の思いは物に付着する

お釈迦様の教えを、ここに挙げてみます。

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もし汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。
車をひく(牛)の足跡に車輪がついていくように。

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。

(『真理のことば』岩波文庫)

ものごとは心(思い)によってつくりだされる、と言っています。
不満を思えば、そんな思いが言葉や行動に現れるというのです。
逆に清らかな心で話したり、行ったりすれば、
福楽すなわち幸せになれるというのです。
清らかな思いで相手と接すれば、きっと相手も心地よい思いに包まれるはずです。

この思いは、物に付着する、くっつくという性質もあるようです。
たとえば、半紙に筆で「清らか」という字を書くとします。
心を調え、冷静に、清らかな思いで、その字を紙に書く。
きっとそうして書いた字は、清らかな思いが伝わってくるでしょう。

そうではなく、怒りの思いをもって、書いたその「清らかさ」は、
その中に怒りの思いが込められるはずです。
もしかしたら、怒りの思いでは「清らかさ」は書けないかもしれません。

食事でもそうです。
料理を作る時に、相手のことを憎くてたまらない思いで作れば、
その料理には、何らかの毒が入るはずです。

そうではなくて、料理を作るときありがとうの思いを込め、
食べる人が健康になれますようにと思って作った料理は
美味しいでしょうし、薬にもなるのです。福楽をもたらすのです。

ギンモクセイに学ぶ

よい人生を得るために、心を豊かにしていくことが大切です。
そのために、身の回りにある事ごとに関心を持ち、
学び取っていく姿勢がとても大切になります。

自然の中には、たくさんの学びがあります。
9月の下旬ごろから10月上旬にかけて、キンモクセイが咲き、
その匂いが当たりに漂い、この匂いを好む人は、秋の匂いを楽しむことができます。

お寺にはキンモクセイがなく、植えたいと思っていたのです。
お店にいくと、白い花をつけるギンモクセイが売っていました。
これにしようと買い求め、植えました。もう10年以上も前のことです。

植えた翌年咲くだろうと思い、待ち望んでいたのですが咲きません。
翌年も、その次の年も咲きません。辛抱強く咲くのを待っていたのですが、
植えた場所の栄養が足りないのかと、思っていたのです。

ある年のこと、咲かないギンモクセイにいいました。
「あなたは花を咲かせないね。切ってしまおうか」と。
でも、せっかく買いも求めたので、1年待つことにしました。
するとどうでしょう。次の年に少し、白い花を咲かせています。

「お前、できるじゃないか。花が咲いているよ。切らないでよかった」
と、ギンモクセイに語りかけました。
今年は、満開に白い花を咲かせ、甘い匂いを漂わせています。

ギンモクセイはもしかしたら、人の言葉が分かるのかもしれない。そう思います。
花も人間の言葉を理解することができると、どこかの本に書いてありましたが、
植物も人の気持ちをくみ取ることができるようです。

この体験から学び取ることは、
植物も人も、どこかでつながっているということです。
つながっているからこそ、互いの思いをくみ取ることができるのです。
仏教的に考えれば、植物にも仏の心が宿されているといえます。
尊い気づきだと思います。

捨て去ること

ここで、ひとつの詩で学んでみます。 69才の男性の詩です。「晩秋の山歩き」という題です。

「晩秋の山歩き」

枯葉のあたたかな
雑木林の丘道を
登って行く
緑に埋もれ 夏の間
見えなかった湖が
思ったより近くにある

捨て去ることで
見えるものもある

頂上に着くと
最後の枯れ葉が数枚
蝶のように明るく
谷に飛び立って行った

(産経新聞 平成27年12月4日付)

こんな詩です。

そういえば、夏、緑の葉が生い茂ると、
まわりの景色が緑の葉たちにおおわれ、見えにくくなります。

この男性が山歩きをして、発見したのが、緑の葉が枯れ落ちて、
今まで見えなかった湖が見え、それが思ったより近くに見えることです。

そして、気づいたのです。
「捨て去ることで、見えるものがある」と。
とても気がつかない、いい視点です。
そして頂上について、蝶のように明るく枯葉が谷に飛び立っていったと書いています。
枯れ葉のせつない思いでなく、蝶のように明るくと、書いているところは、
辛さや悲しみを捨て去る、そんな思いも伝わってきます。

あたりまえという言葉があります。
そのあたりまえという葉を1枚捨て去ると、
そこには感謝の思い、ありがとうの言葉が見えてきます。

怒りという葉を1枚捨て去ると、そこに見えてくるものは、
もしかしたら自分もいけなかったかもしれないという景色が見えてくるかもしれません。

不満という葉を1枚捨て去ると、
そこに欲深い私であったかもしれないという思いの景色が見えてきます。

捨て去るというひとつの生き方が、
よい人生を得る大切な方法なのだとわかるのです。

素直に学びとる

相手がいて、私たちはその人から多くを学び、
そして人生を豊かにしていくことができます。
そんな相手の言葉や思いを素直にくみ取り、自分の人生の糧にしていくのが、
尊い人間関係です。

以前、ある中学校で「命の重さを知る」という講演をしたことがありました。
500人以上の生徒たちも熱心に聞いていました。
最後にこんなメッセージを話しました。

「命の重さを知ると、自分が人のために生きられるようになります。
 自分の命を相手の幸せのために使うことができるのです。
 やがて、そう生きて、命より大切なものを知るようになるでしょう」と。

講演後、授業で聞いたことを感想文にするというので、
後日、その感想文を 25通ほどいただきました。
その中の3年生の女子が、次のように、感想文に書いています。

素直に聞き、それを自分の生きる糧にすることが、
よい人生であったと思えるための、大切な生き方になります。

杉田先生の、1つの言葉が心にしみわたるようでした。
特に私が心に残ったのはマララさんのお話です。

「1本のペンが世界を変える」。 この言葉がとても響きました。
私たちは、あたりまえに学校に来て、あたりまえに勉強をしていますが、
それは世界で見ると、決してあたりまえではないのだと気づかされ、
「はっ」としました。

1本のペンの力は武力なんかよりも強いんだなと思いました。
逆境の中でも立ち向かい、教育の権利を訴え続けているマララさんの言葉は「重かった」です。

また、命は1つでないことも知りました。
私が今まで食べてきたもの、家族、そして見えないところで支えてくれている人たち、
数えきれない命によって私は支えられ、それがあったからこそ私はここにいるんだと気づきました。

そう思うと、私がここにいることが奇跡のように思えてきて、
すべてのことに「ありがとう」と言いたくなりました。

自分の命も、人の命も、同じくらい大切にしていく。
そして何事も、いろいろな命の重みが重なって、それを感じながら生きる。
そういう生き方をして、私にはまだ分からない「命より大切なもの」を
これから人生の中で探していきたいと思います。

杉田先生のお話によって、私の命が、さらに重くなった時間でした。

(つづく)