.

ホーム > 法愛 4月号 > 法話

法話

よい人生であったと思えるために 3 与える心を大切にする

先月は「幸せを育てるための、心の学び」ということで、お話を致しました。
よい人生であったと思えるために、さまざまな体験から学び、その学びを人生の糧としていく。
そんなお話でした。

与えたものが残る

人生の基本は「一生の終わりに残るものは、自分が集めたものでなく、
自分が与えたものである」ということです。

私のお寺では、亡くなった人に対して、
家族のみんなさんに「故人を偲ぶ言葉」を書いてもらいます。
このことを始めて、もう40年近くになります。

昨年33回忌の法要をした、
当時93才で亡くなられたきくゑさんの故人を偲ぶ言葉を読み返し、
本当に一生の終わりに残るのは、自分が与えたものだという思いを強くしました。
こんな故人を偲ぶ言葉を書いてくれました。一部を載せます。

母は若くして父(自分の旦那さんにこと)を亡くし、結婚生活も5年。
父の亡き後、父親の役目と母親の役目を見事にやってきた人でした。 困っている人には、誰にでもあたたかい愛の手を差しのべ、
自分を無にして、人に尽くす人でした。何年も骨身惜しまず、
働いて働いて、明治を代表する責任感の強い性格を持った人でした。
(Aさん)

自分の信じた道を歩き続け、
ある日、ちょっと立ち止まるごとく逝ってしまったおばあちゃん。
生きるということ、人としての生きざまを教えてくれたおばあちゃんでした。
(Bさん)

私のそばにいつもおばあちゃんがいました。
自分よりも他の人のことばかり考えていたおばあちゃん。
(Cさん)

不思議とみな、故人からしていただいたこと、与えられたことを、
この故人を偲ぶ言葉に書いてくれます。
自分が集めたものでなく、人にしてあげたこと、与えたことが残っていくのです。

愛を添えるお皿の教え

先月「心の思いはものに付着する」という、少し難しいお話をしました。
ただ与えるだけでなく、そこにあたたかな思いを添えるのです。

渡辺和子さんの話は、この「法愛」で、何回かお話をしました。
渡辺さんの本は、15冊ほど読んでいるのですが、
その中に『現代の忘れもの』(日本看護協会出版)という本があります。

渡辺さんは平成28年に89才で亡くなられています。
キリスト教カトリック修道女で、ノートルダム清心学院の教授、学長、理事長をした方です。

この本の中に、まだ若い頃に、
アメリカのある修道院に5年ほど派遣され、そこで過ごしたことがあって、
その時のエピソードを書いています。少しまとめて載せてみます。

5年ほど、その修道院で生活しました。
そこには百数十人の修練をしていたシスターたちがいました。

食事の支度も百数十個のお皿とコップ、百数十本のフォークとナイフを並べ、
食べ終わったら、それを洗って拭かなくてはなりません。
その単純作業を言いつけられ、毎日のようにしていました。

ある日お皿を並べていると、目上の修道女が、
「シスター、あなたは何を考えて、お皿を置いていますか」と尋ねました。
「別に何も考えていません」
と、そう答えたのです。

そうしたら、厳しい顔をして、こう言ったのです。
「お皿を、もう少し静かに置きなさい。
 赤ちゃんのイエスさまが、あなたのそばですやすや眠っていらっしゃると思って置きなさい。
 もう一つ、やがて夕食に、どなたがそこに座るか分からないけれども、
 お座りになる方のために、〝お幸せに〟と祈りながら置きなさい」
と。

言葉を変えていえば、「愛を込めて仕事をする」ということを教えていただきました。

与えるのには、大小に関係なく、
そこにいかに思いやり(愛)を添えられるかで、与えたものが尊く輝きだすのです。

お皿を並べるのに、目に見える世界では、
どんな思いで並べても、同じように見えますが、
見えない世界においては、そこに思いやりや愛を添えることで、
大きな違いがでてくるのです。

心をこめて

仏教でも、お釈迦様はこう説いています。 「立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥(ふ)しつつも、
 慈しみの心づかいをしっかりたもて」と。
小さな事でも、そこに慈しみの思いをたもちながら成す、ということです。

以前、寺院を巡って慈悲の心を学ぶという、
そんな会の人たちが30人ほどお寺に来られました。

そのとき、法話をしていただいた後に、
何でもいいからお手伝いをさせてほしいというのです。

2月の寒いときなので、庭掃除もできず、窓ふきも寒くて大変なので、
この「法愛」のお手伝いをお願いしたのです。

「帰依の尊さ」というお話をした後、紙に印刷した「法愛」を、折っていただき、
そしてホッチキスで止め、一冊の本にしていだたく作業を手伝ってもらいました。

この時、言い忘れたことがあったのです。
「この『法愛』をたたむ時、心をこめて、
 その思いが法愛に添えられるように、そんな思いで作ってください」
というお願いでした。

がやがやと話をしながら、仕事をしていましたが、
みなさんがお帰りになったあとで、作ってくださった「法愛」を見て悲しくなったのです。

6枚の紙がそろってなくて乱雑で、読む人への思いが込められていないのです。
そこで、この「法愛」を読むみなさんが幸せになれますようにと思いながら、
やり直しをしたことがありました。

奪うこと与えること

与えることの逆は、奪(うば)うことです。

あるお寺さんへ会合に行ったときのことです。 雨が降りそうだったので、用心にと思い、傘を持っていきました。
ちょうど玄関横に傘立てがあったので、そこに傘を置いて、
お寺の書院で会合をしました。

どれくらいの時間が経ったのか覚えていませんが、
帰りに外をみると、雨が降っています。
「ああ、傘を持ってきてよかった」と思い、
玄関横の傘立てを見ると、私の傘がありません。

自分にとっては気に入っていた傘でしたが、奪われてしまいました。
止めてあった車まで、濡れながら早足で歩き、車にたどりついた記憶がありました。
「誰が濡れずに、私の傘をさしていったのか。ひどい」と思いました。
大事なものを奪われるのはあまり気持ちがいいものではありません。

逆に、傘をさしかけてもらったことがあります。
暑い夏の日、法事の後のお墓参りでお経を読んでいると、
夏の日差しが髪のない頭に照りつけてきます。それが結構きついのです。
そんなとき、近くの女性が日傘をそっと差し掛けてくれることがありました。
そのしてくださったことに、心があたたかくなったことを何度も経験しました。
していただくのは、とてもありがたいことです。

与えることが尊いのは、互いが幸せになれるからです。
奪うばかりであれば、そこに言い争いか必ず起こり、互いが傷ついてしまうのです。

与えることのためには、感謝の思いが大切

この与える心を育んでいくためのひとつの方法が、感謝の思いを深めることです。
感謝の思いは神仏のそば近くにある思いではないかと感じています。

次の詩から感謝の大切さを学んでみます。
「魔法の料理」という題で、49才の男性が書かれた詩です。

「魔法の料理」

昇給が止まって
ボーナスが減っても
妻は大丈夫よ
気にしないでって
明るく言ってくれる
スーパーでは半額品
お買い得品を買って
魔法の料理を作る
子供たちとの会話
一流レストランみたい
家族って温かい
僕はダメ親父だけど
妻のおかげで
うちは安泰でいられる

(産経新聞 平成28年1月20日付)

こんな詩です。

読むとほのぼのとしたものが感じられます。
ここには感謝という言葉は出てきませんが、
この詩を書いた男性の、妻への感謝の思いが伝わってきます。
また、共に支え合って生きる姿や、明るさ、おかげさまの思いもあふれています。

感謝の思いは、こんな世界を作り出していきます。

感謝の言葉を残す

感謝を言葉にすると「ありがとう」になります。
特に夫婦の間でありがとうの言葉を使うことが良いのですが、
特に男性の方は、なかなかこの言葉を言わない人が多いかもしれません。

言わなくても分かっているとか、
いまさらそんな言葉は言えない。恥ずかしい。
そんな人もなかにはいるようです。

でも、この感謝のありがとうの言葉で、
今までの苦労がきれいに消えてしまったり、あるいは生きる力になっていくのです。

私の母が亡くなったとき、母の残したもののなかから手紙が出てきました。
その手紙には「幸せでした。ありがとう」と書かれていました。
このような文を読むと、「母と接してきた日々は、良かったのだなあ」と安心感を覚えるのです。

こんな投書がありました。
80才の女性のものです。「夫から半生紀ぶり」という題です。

「夫から半生紀ぶり」

今は、友人や会社の仲間を好きになり告白することが多いのだろう。
私の青春の頃はお見合いが多く、私も親が薦める人とお見合いし、
少し交際をして結婚した。

3年前に逝った夫は、その1週間前
「座りなさい。話したいことがある」と切り出した。そして
「お前のこと、好きだったよ。これからの人生大いに楽しみなさい。
 いろいろ尽くしてくれてありがとう。感謝しているよ」
と言った。五十数年ぶりに生の声で告白されて、感動を覚えた。

寂しいときはこの最期の言葉を胸に、楽しく過ごしていくよう努めている。

(読売新聞 平成28年2月7日付)

こんな投書です。

「好きだったよ。尽くしてくれてありがとう」と、言葉にして、妻に言っています。

亡くなる1週間前のことです。
亡くなるときには、何故か素直な気持ちになり、
またもう別れなくてはならないと自らが知って、この言葉を妻に残したのでしょう。
この言葉を受けとった妻は、感動したと書いています。嬉しかったのです。

亡くなっていくときには、こんな言葉を残すか、
あるいは言えなければ手紙にして、残していく。
そんな行為が、その人の人生をよい人生にしていくのです。

よい人生であったと思えるために 4 命尽きた、次の世を信じる

あの世の古里

人生を生きぬいて、自分の人生に点数をつけると、
100点満点で何点とれるでしょうか。
この世も、どう生きればよいかの、試験のようなものかもしれません。

この世という学校に生まれてきて、さまざまな体験をし、
この世の学校を卒業し、あの世の古里に帰って、そこでこの世で培った知恵を生かし、
また新たな生活をするのです。

亡くなったら、決して無になって消えてしまうのではありません。
お釈迦様も、「善を積んだ人が、この世でもあの世でも安楽に臥す」と言っています。
安楽とは安らかで幸せの思いです。

奪うばかりの人生でなく、
感謝の思いを深めながら与える人生を生きた人が善を積んだ人と言えます。
そんな人がやがて死をいただき、安らかな世界に帰っていくのです。

また会おう

以前「おくりびと」という映画のことを、
この「法愛」(平成27年8月号)に書いたことがありました。

その中で、笹野高史さんが、火葬場の職員をしていて、
その体験で語った言葉を載せていました。もう一度、載せてみます。

長い間ここにいると、つくづく思うんだよ。
「死」は「門」だなあって。

死ぬというのは、終わりというのではなくて、
そこをくぐり抜けて次に向かう、まさに「門」です。

私は門番としてここでたくさんの人を送ってきた。
「いってらっしゃい。また会おうのう」と言いながら。

感謝の思いを深め、苦しみも辛いことも自分の心の糧とし、常に与える側に立ち、
「いい人生であった。みなありがとう」と言って旅立っていく。
そして、あの世で、またこの「法愛」と再会して出会えば、そこは安楽の世界です。