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法話

生きぬいて、舞台を降りる 1 生きぬく力とは

1月からの演題は「生きぬいて、舞台を降りる」です。
このお話は、平成28年2月15日、伊那市のウエスト・ヴィレッジという喫茶店で行っている、
「喫茶店法話の会」でお話ししたものです。
3回ほどにまとめ、少し書き直しながらお話を致します。

人の生涯は影

私の母が生前、表装を学んでいて、
私が表装の本紙(ほんし)にする字を何枚か書き、それを表装していたのです。

上手に表装して掛け軸になったものが数幅ありました。
その中で、自分の気に入った掛け軸を母の部屋の床の間に飾っていたのです。

それが「生きぬいて、舞台を降りる」という掛け軸でした。
母が亡くなるまで、その掛け軸が母の部屋に飾ってありました。
この字にどんな思いを抱いて、日々見ていたのでしょう。

この世は舞台という考えは、シェイクスピアが書いた「マクベス」にも出てきます。
マクベスが第5幕の第5番で、こう語っています。

人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。
あわれな役者だ。

ほんの自分の出場のときだけ、
舞台の上で、みえを切ったり、喚いたり、
そしてとどのつまり、消えてなくなる。

この世が舞台であるとは明確には語っていませんが、
そんな意味合いがあるように思えます。

人生は舞台

私が書いた『人生は好転できる』という本があります。
その本の第5章に、「人生のドラマを演じ切る」という章があります。

その章の中で、「人生は舞台」であるという詩を書いています。
少し長いのですが、今回の演題の結論になるので、本から引用しています。

人生は舞台

人生は舞台だ
ひとりひとりが
役をいただいて
この世の舞台に立ち
その役を演じる

舞台へ上がる前の自分は
この世に生まれてくる前の自分

自分の役が決まれば
上手に演じようと思い
みんな緊張して
あるいは期待をこめて
この世に生まれてくる

与えられた月日のなかで
さまざまな衣装をまとい
喜びや苦難にあいながら
自分の役を演じきる
やがて役を演じきって舞台を降りれば
もとの自分にもどる

人生の舞台を降りれば
あの世に還(かえ)って
生まれる前の自分にもどるのだ

そして
演じきった自分の役割を
映画を見るかのように回顧する
拍手をもらえるか
ご批判を受けるかどちらにしても
今どうこの自分を演じているかが
問題なのだ

この世は舞台であって、それぞれに与えられた役を演じている。
これはこの世の真実であるという。そんな詩になります。
そのためにも、この世の自分の役を演じていく力、生きぬく力がいるわけです。

生きぬく力と支えの力

昔、お寺の本堂の後ろにカシの木がありました。
イチョウの大木の隣にあって、雷に打たれて、幹が空洞になっていて、
しかも葉がたくさん散って困るので、切ってもらいました。

その後、いつだったかははっきり覚えていませんが、
本堂と書院の間にある中庭の石の割れ目から、
小さなカシの木の芽が生えているのを発見しました。

そのカシの生きる力に心打たれて、
取り除くのをやめ、しばらく見守ることにしました。
それから10年以上経ったでしょうか。今では石を裂いて大きく成長し、
1メートル以上に育っています。
そのカシの木を見るたびに、生きる力の強さを思うのです。

よく言われることですが、タンポポもアスファルトを打ち破って花を咲かせます。
その強さをたたえた歌もあります。そして綿毛を飛ばして、
違う場所で生きぬこうという力もあります。

同じ花でも、切り花は水をあげなければ枯れてしまうし、長くはもちません。
お寺の本堂には、いつも花が飾ってあります。夏は暑さで、花はあまりもちません。
冬は寒さに弱いので、花の管理が大変です。

いつだったか、冬の大寒のころ、寒波が来るというので、
本堂にある花を電気ストーブの置いてある部屋に、夜の8時ごろ移しました。
移さなければ、朝みな凍って花を駄目にしてしまいます。

翌日、まだ寒さが続いていたのですが、本堂に花がないのは寂しいと思い、
一対だけ、午前10時ごろ本堂の本尊様の前に飾ったのです。
午後の3時ごろでしたか、花が凍っていて、可哀そうなことをしてしまいました。

花も寒さに弱い、それゆえに暖かな部屋に移すという支えがいります。
ある放送を聞いていましたら、迷って、どう生きたらよいか分からない人が、
「1人じゃないから、1人でいられる」
という言葉を聞いて救われ、生きる力を取り戻したという、そんな話をしていました。

人も花のように、弱い存在であるときがありますが、
そのとき人の助けをいただいて、生きて行かなくてはなりません。
自分の生きる力と、他の人の支えの力で、人はこの世の荒波を渡っていくのです。

中なる道を歩む

お釈迦様の話から、この生きぬく力を考えてみます。

お釈迦様は29才でお城を出て出家し、やがて6年間の苦行に入ります。
激しい苦行生活をしても真の悟りは得られませんでした。

そんな時、付近のネーランジャヤーの河のつつみを
民謡を歌って通る農夫の声を聞くのです。
その歌の歌詞は、次のような意味でした。

絃が強すぎると切れる
弱いと弱いでまた鳴らぬ
ほどほどの調子にしめて
上手にかきならすがよい

この歌を聞いて、お釈迦様は、そこで苦行をやめ、苦行林を出ます。
そして河で身体を洗い清めていると、スジャータという女性に出会います。

その女性から乳がゆをいただき、身体を整え、
菩提樹のもとに坐して、坐禅瞑想をし、大いなる悟りを開くのです。

この歌の意味を生き方に照らし合わせると、
苦行というのは絃が強すぎること、贅沢な暮しが絃の弱さをいいます。

ここでのテーマでいえば、
自分のみの力、我の強さのみで生きて、他の人の助けはいらない。
そんな生き方は、絃が強すぎて、やがて絃が切れてしまう。
逆に、私には生きる力がない。他の人に頼らなければ生きていけない。
そんな生き方が、絃が弱すぎて鳴らない、となるでしょう。

中なる道、中道とは、自分の生きる力、前向きな努力を怠らず、
困ったときには、他の人の助けをお願いし、
そんな自分を支えてくださる人や、ものに感謝を忘れず、
心を上手に調律(ちょうりつ)させ生きていくことです。
それが人としての正しい生き方になります。

その心の調律、言い方を変えれば、
「どう生きたら幸せになれるかの方法」を説かれたのがお釈迦様です。
ですから、その教えを学ぶ姿勢が大切になるのです。

どう生きればよいか

令和2年の児童虐待が、過去最多の20万件を超すというニュースがありました。
コロナ禍で、親と子が自宅で過ごす時間が長くなったのが、一つの原因であるようです。

令和4年12月3日のある新聞(朝日)に、
「保育士園児宙づり・脅迫」という見出しで記事が載っていました。
この事件はテレビでも報道していたと思います。

内容は、静岡県のある保育園で起こったことです。
女性保育士3人が、園児を宙づりにしたり、
カッターナイフを見せて脅かしたりする行為を繰り返していたといいます。

3人は1歳児クラスを担当していて、
園児に対して足をつかんで逆さづりにした後、真っ暗な部屋に放置したり、
泣いている姿を携帯電話で撮影したり、寝かしつけて「ご臨終です」と発言したり、
15の問題行動を起こしていたというのです。

3人は11月末に退職したといいますが、園ではこのことを口外しないようにと、
保育士全員に誓約書にサインをさせていたといいます。

この記事の下には、ある市の保育園で、
女性保育士が園児を虐待している記事も載っていました。
泣き止まない園児を園内の物置に閉じ込めたり、
移動を促すため尻を棒でつついたりしていたというのです。

子への虐待は、虐待するその人の心が、我が強く、
怒りや不満で荒んでいる状態なのかもしれません。
言葉で上手く表現できない事件ですが、
ただ人として正しくない生き方であることはわかります。

絃楽器であるギターやバイオリンの絃が正しく調律されていなくて、
弾いても上手に音が出ない、そんな状態に思えます。

どう生きればよいかを、常に学び、心を正しく調律していく努力が必要に思います。

人の命をあずかる

保育士の仕事も、子どもの命をあずかる、とても大切な仕事です。
逆に、上手に絃を調律し、音を奏でた人は、
相手に美しい音楽を聴いていただくことができます。

それは、生き方でいえば、自らが努力し、正しい生き方をして、
相手の幸せのために生きられるということです。

戦後、日本航空業界の父と言われた松尾静磨(しずま)という方がおられました。
亡くなられて、もう50年あまりになります。

この方が残した次のような言葉があります。

臆病者と言われる勇気を持て。
安全航空こそ最大の使命であり、
責任である。

この松尾さんがちょうど日本航空国内会長をしていたときに起こった事故です。
昭和41年3月4日のことです。

ハワイから羽田上空に来ていた日航機の機長は、その時の悪天候に不安を感じ、
着陸するのをやめて、福岡空港まで飛び、そこで安全に着陸しました。

乗客のみなさんも、それぞれに予定があったでしょう。
でも、着陸をやめる判断をしたのが、
「臆病ものと呼ばれてもいい、人の命が第一」という、
松尾さんの言葉だったと思います。
この判断で、乗客みなさんの命が助かったのです。

そして、その機長は翌日、自分の疲労を考え、他の機長に操縦を代わってもらい、
自分は客席に座って乗客とともに、東京へ帰ったといいます。

この日航機が羽田の着陸を断念した1時間後、
悪天候で長い上空待機をしていたカナダ太平洋航空の402便が、
わずかな天候回復をついて着陸をこころみましたが、失敗したのです。

飛行機は炎上、72名の内、64名が犠牲になりました。
後での調査でわかったことは、カナダ航空の操縦乗員が
悪天候にも関わらず着陸しようとしたのが原因であったとされています。
少しの判断ミスで、多くの人の命が奪われる、そんな事故でした。

保育士さんも機長さんもみな、尊い命を預かっての仕事です。
そこに、責任をもって命を預かる、そんな心構えが、生き方の調律ではないかと思います。

素直に生きぬいていく

こんな川柳がありました。

精巧な造花も虫は騙(だま)せない

(毎日新聞 令和4年5月30日付)

とうものです。

本堂に飾ってある花を見てきれいだなと思って近くによって、
よく見ると造花であった、という体験があります。
人を騙せても、虫は騙せないし、仏様も騙すことはできません。

人の思いは見えないので、つい粗悪な思いになりがちです。
陰ひなたなく、誰が見ていても恥ずかしくない、そんな心の調律が大切です。
その調律の仕方のひとつの方法が素直に生きるということです。

この素直な思いになると、自らの内にある人を思う気持ちがあふれてくるのです。
それは自分をも大切にしている力でもあります。

そんな生き方で、この世の舞台に立って、自分の役を大切に演じていくのです。

(つづく)