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法話

生きぬいて、舞台を降りる 2 この世の舞台の真相

先月は「生き抜く力とは」というテーマでお話し致しました。
私たちには生きぬく力があり、また支えの力があって、この世を生きていく。
そんなお話でした。続きです。

この世は舞台

先月、シェイクスピアの「マクベス」という作品の中から、
この世は舞台であるという、そんな言葉の引用をしました。

この世は舞台であるというのは、
他の作品である「ヴェニスの商人」や「お気に召すまま」という作品にも出てきます。
「ヴェニスの商人」では、

この世はこの世、ただそれだけのことと見ているよ。
つまり舞台だ。誰も彼もそこでは一役演じなくてはならない。 

こんな言葉です。
訳す人の価値観で、少し違う訳にもなり、
ある「ことわざ辞典」では、このところを次のように訳しています。

わたしはこの浮世をただ浮世として見ている。
めいめいが何か一役ずつ演じなければならない舞台だと思っている。

後者はこの世を「浮世」という表現で表しています。
意味はあまり変わりませんが、浮世とは仏教的表現で、
無常の世とか、生きることの苦しい世という意味合いが濃くなります。

ヴェニスの商人

この「ヴェニスの商人」も、舞台での作品です。

読んでいくとさまざまなことごとが絡み合っていますが、
1ポンド(約453.6g)の肉のところを中心に、あらすじをまとめてみます。

ヴェニスの商人であるアントニオは友人の結婚資金のために、
悪名高い金貸しのシャイロックに借金をします。

シャイロックは利子を取らない代わりに、
3ヵ月以内にお金を返すことができなければ、
アントニオの身体の肉を1ポンド取り立てると言います。
「しかたない」と了承したアントニオでした。

しかし、アントニオの船団が3ヵ月以内に返ってくれば
返済できるはずだったお金ですが、どうも嵐に遭い、
海に沈んでしまったという知らせを受けます。
お金が返せなくなりました。そして裁判になります。

シャイロックは約束だから、
アントニオの身体の肉を1ポンド支払えとせまります。
命をもらうということです。

そこで裁判官が、こう言うのです。
「さあ、肉を切り取るがよい。血を流してはならない。
 また、多少を問わず目方の狂いは許さない。きっかり1ポンドだ。
 たとえわずかでも重すぎたり軽すぎたりしたら、
 髪の毛一本ほどの違いでも、そのときは、命なきものとおもいなさい。
 あなたの財産は没収ということにする」

その裁判の判決を聞き、シャイロックは諦めるのです。
後日、船団が無事帰ってきたことをアントニオは知ります。

簡単にまとめてみましたが、これも互いに役を演じた舞台での出来事です。
そしてそれぞれの役を終えたら、舞台を降りて、普通の人に戻るわけです。

大切なこの世を生き抜く言葉

このシェイクスピアの作品「ヴェニスの商人」の中に、
教えられる言葉が出てきます。今回のテーマには直接関係しないかもしれませんが、
どうこの世の舞台で生きていけばいいかのヒントにはなる言葉だと思います。
まず、ひとつ挙げてみます。(以下すべて前掲書より引用)

慈悲はしいられるべきものではない。
恵みの雨のごとく、天よりこの下界に降りそそぐもの。
そこには二重の福がある。与えるもの受けるものも、共にその福を得る。

慈悲とは慈しみの思いや、やさしさともいえます。
それはしいられてするものではなく、恵みの雨のように、
相手の幸せを思う自分の心の奥底からでてくるものです。
その慈しみややさしさを相手に与えると、
その慈しみを与えたものも受けたものも、みな幸せになれる。そんな意味です。

もうひとつ挙げてみます。

あそこに見える燈(ともしび)は家の広間のよ……
あの小さな蝋燭がこんな遠くまで光を投げかけてよこす!
それと同じ、善いおこないはこの汚れた世界に光を与えるのです。

善いおこないは汚れた世界に光を与える、と言っています。お釈迦様も、
「花を集めて花かざりを作るように、
 人としてこの世に生まれ死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ」
と言っています。

道に落ちたゴミを拾うのも、ひとつの花びらのようにきれいな行為です。
そんな花びらを集めて、花かざりを作る。
そうすることで、自分も相手も、幸せになれるのです。

仮の世の意味

この世とか浮世を、仏教ではどう受け止め、解釈しているのでしょう。

仏教の基本的な考え方は、この世は仮の世であるということです。
仮の世というのは本当の世界ではないということです。

自分の身体もあって、食べ物もあって、家も土地も自然もあって、
この世が仮の世などとは信じられない人が多いと思います。

でも、この世は学びの場であって、人生から大切なことを体験し学び、
そこから智慧を得、そして死を受け取り、あの世という本来の世界に帰っていくのです。

今「法華経の詩」を連載していますが、
以前はお釈迦様の生涯について詩的に書いていました。145回で終了しています。
その最後の章が、10年ほど前になる、平成25年1月号に載っていて、
「満月の光」と題して書いています。

読み直してみると、お釈迦様が涅槃に入るのも方便であって、
今も実際に天の世界で法を説いていることがわかります。

お釈迦様もこの世の舞台で、尊い教えをとく役を演じたと解釈できます。
少し長いですが、その詩を載せてみます。

満月の光

人はこの世に偶然に生まれ
死んだらどうなるかわからず
もしや灰になってすべてが無になる
あるいは宇宙の中に吸い込まれる
あるいは風になってただよう
そんな無明の考えをしがちだ
しかしそれが仏陀の悟りであろうはずがない
仏陀はこの世に計画し生まれ
そして涅槃という形で死を受け取り
仮にその姿を消し去っただけなのだ
それを月のたとえで説いている

ある人が月が出ていないのを見て
月は没し無くなってしまったと思う
しかしその月そのものは無くなることはない
月そのものに生滅はないのだ(中略)
私がインドに生まれる姿は初月のごとく
出家を示すは八日の月のごとし
大いなる智慧を得て人びとや神々に教えを説き
さらに悪魔を導いたのは
ちょうど十五日の満月のようだ

実際月そのものは変化がないように
涅槃をいま示すがこれは仮の姿であって
私はいつも満月のごとく
あなたがたの頭上で教えの光を投げかけている
このことを忘れてはならない

やがて隠れた月が姿を現すように
優曇華(うどんげ)の花が三千年に一度花咲くころ
あなたがたの前に再誕するときが来よう

こんな詩です。

「涅槃を示すが、これは仮の姿である」と説いています。

浮世という仮の世の舞台で、
それぞれに与えられた人としての姿で学び多き人生を生き、
やがて時がくれば死を受け取り、この世の舞台から降りて、
本来の世界に帰っていくわけです。

苦労を演じきった母

人はさまざまな立場で生きています。
一人として同じようには生きられないのがこの世の定めでしょうか。

豊かな家に生まれても、満足しない人。
貧しい家に生まれても、成功していく人。
苦しい中でも、笑顔を忘れず強く生きぬいていく人。さまざまです。

こんな投書がありました。
70才の男性のもので、母に対する思いが綴られています。
苦労に耐えて生きぬいた、そんな母を演じきった女性の生き方です。

6月、特別老人ホームで、母が逝った。
94歳まで長生きしてくれた母は
「どんな苦労にも耐えてきた」が口癖だった。

戦時中の女学校時代は鉄工所への勤務動員。
終戦の年、あたふたと卒業させられたが、
進学先や就職先が満足にあるわけがない。
数年後に隣村の農家に嫁ぎ、私が生まれた。

小学生時代から私は農作業を手伝ったが、
いつも母はそばにいてくれる安堵感があった。

私は田舎を出たくて東京の大学に進み、
父母の期待に添わない人生を歩んだ。それでも母は見守ってくれた。

その母は舅、姑の介護を担った。
姑が他界して10年後、父が要介護に。
母は介護が務めと思っていた。
家族介護は30年に及んだ。

父の死後、母は田舎で一人になったが、
毎週通ってくる私に「来てくれたのか」と言って喜んでくれた。

地域の中で気配りを忘れぬ母は、
人を思いやる大切さを教えてくれた。
私と私の妻や子に向けた、その慈愛のまなざしは
「昭和の母」のきらめきだった。

(朝日新聞 令和4年12月29日付)

こんな投書です。

94年という人生を生きぬき、この世の舞台を降りました。
苦労に耐え、それでもその苦労に負けず、人を思いやる気持ちを持ち、
相手に対しても気配りを忘れない。

家族に慈愛の眼差しを投げかけ、
母として一人の女性としての役を、しっかり演じきった生涯だと思います。

ひとときの舞台

この世の一生という舞台でのお話でしたが、
もっと短時間の舞台のとらえ方もあります。

この「法愛」を読むのに、10分から15分もあれば読めてしまいます。
この時間も大切なひとときの舞台と考えることができます。

読んでくださる方々は、みな読んでいる時は
「そうだ、いいことが書いてあって、ひととき心穏やかになれる。
 やさしくなれる。でもすぐ忘れてしまう」
と、そんな感想を持たれる方が多いのです。それでいいと思っています。

教えというか、人の生き方を学ぶのは
心の食事と同じで、心が豊かになっている時です。
実際の食事でもいただいている時は美味しく幸せを感じますが、
食べてしまえば、その感覚は薄れていきます。

心の食事でも、読んでいるときは、
「そうだ、このように生きたい」と思うのですが、
時が経つと、その感動も薄れていきます。

ですから、できれば一カ月に一度、新たな生き方の文章を読み、
心の汚れを取り、豊かな思いになることが必要なのだと思います。
安らぎの舞台に憩うのです。

ある方から、次のようなお手紙をいただきました。
檀家さんではありませんが、「法愛」を大切にしてくださっている方です。
令和3年初旬に届いた手紙です。必要と思われるところを抜き出してみます。

毎月毎月欠かさずポストに入っている法愛を、
夜寝る前にフトンの中で拝読しています。

読んでいる時は感動し、また反省し、
自分もこうありたいと思ってはみるのですが、
次の法愛が届く頃には、すっかり忘れ果て、
またフトンの中で想いを新たにする、そんな繰り返しです。

昨年の夏頃になりますが、私用で飯島町へ行った帰り、
ふと護国寺を訪ねてみたいと思い、車のナビゲーションを頼りに、
妻と二人そっと訪れてみました。

広い駐車場に車をとめて、お寺の前まで歩いていくと、
なんときれいな小川が流れていること。
50年以上も前の私達が幼少の頃のなつかしい風景があり、感動しました。

そしてその脇にひっそりたたずむ野の花観音。
境内には手入れの行き届いた庭。
思っていたとおりの静かな風情のあるお寺でした。

「法愛」を読むひととき。お寺を訪ねる心休まるひととき。
そんな短い時間での舞台ではありますが、ここに幸せの風が吹いています。
感動という花が咲いています。

(つづく)