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法話

ほんとうの自分に出会う 2 相手の幸せを感じとる

先月は、自分の幸せを感じ取っているとき、
そこにほんとうの自分と向き合っているということ。
また、相手の幸せを思うとき、ほんとうの自分がそこにいる。
そんなお話を致しました。

今月は2章の「相手の幸せを感じとる」が途中で終わっていましたので、
そこから続きのお話をします。

相手がいて、自分が磨かれる

私自身はひとり暮らしをしたことがないように記憶してます。

大学生の時は、大学の寮に入っていて、共同生活をしていました。
当時朝食が90円で食べられ、自分で作らなくても、
温かいご飯が食べられるのを有り難く思っていました。

その寮は4階建ての二棟で、ずいぶん多くの学生が一緒に暮らしていました。
私もその寮の係をしたことがあります。その係の中で、電話を受け取る係もありました。

そのとき、女性からの電話には「お」をつけるという暗黙の約束があって、
「○○さん、お電話です」と、マイクで寮内に流します。
すると、みんなが「おー!」と、あたかも合唱するかのように叫ぶのです。
嫉妬なのか、女性に飢えているのか……。青春時代の思い出です。

修行僧堂でも、当時、雲水(うんすい・修行をしている僧侶の意味)が24人ほどいて、
気ままな暮らしは出来ませんでした。

相手の行動範囲、行動時間を考え、自分を律しながらの生活です。
それがまた自分を磨く修行にもなったような気がします。

ひとり暮らしは、どうでしょう。
たとえば仕事からアパートに帰ってくれば、
自分の思うように、時間も場所も気がねなく使えます。
食事もお風呂もテレビも、みな自分の思うままです。

それが結婚して二人暮らしになれば、そうはいきません。
我慢することが増えてきます。

出かける時間も違えば、寝る時間も違い、食事の好みも違います。
相手のことを考え行動する。その意味で、束縛されることが多くなります。

子どもができたり、あるいが祖父母はいれば、さらに自由な振る舞いができず、
相手のことを考えながら、暮らしていかなくてはなりません。

でもその分、たくさんの幸せを分かち合い、悲しみを共にすることができます。
我慢と幸せ。その中で、自分が磨かれていきます。

仕事で幸せを感じとる時

私の職場はお寺です。
そこで、さまざまな檀家さんとのふれ合いがあります。
また、私はお話をしますので、いろいろな所に呼ばれて、話をします。

昨年(令和4年)の「法愛」10、11、12月号のメイン法話は
「よい人生であったと思えるために」というお話で、
ある町の社会福祉協議会でのお話でした。

この話を電話でお受けしたときには、出席者が20名ほどと聞いていたのですが、
40人から50人ほどおられて、たくさんの人に聞いていただき、
よい時間を持つことができました。

いつもは、お話の感想を聞いたことがありませんが、
後日、協議会の会長さんから、こんな手紙が届きました。

拝啓
 余寒の候、貴殿におかれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。
さて、先日は○○社会福祉協議会の「やらまいか講座」におきまして講師をお願いしたところ、お忙しい中、快くお引き受けいただきまして
ありがとうございました。
 より良い人生だったと思えるために、何を考え、どう行動していけばよいか、豊富な知識と経験をもとに分かりやすくお話していただき、これからの人生を見つめ直す機会となりました。
 参加された皆さまも、「幸せ感覚が鈍くなっている自分に気づかされた。思いやりの心をもって幸せを育てたい」「与える側に立った生き方を意識して生活していきたい」と話されていました。
 今後ともご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い致します。
 最後になりましたが、貴殿の今後ますますの御活躍をお祈りしお礼とさせて頂きます。
                       敬具

こんなお手紙でした。

ここで、気づかいの深さを感じるのが、
「ありがとうございました」が途中で改行されていることです。
そのまま書くと、ありがとうが、改行で切れてしまうので、
それを意識して改行しているのです。

文章の中にも、参加された方の感想も添えられていて、
未熟な私でも「少しは役立っているのかなあ」と、幸せを受け取った手紙でした。
相手を通じて、あたたかな思いになれるのは、ほんとうの自分と向き合っている時かもしれません。

ほんとうの自分に出会う 3 考えは、自分自身である

本が語る

鏡を見ると、そこに自分の顔が写ります。
その顔を見て、これが私だと思います。これは確かなことです。
全身を鏡に写すと、そこには私自身が写っていて、
「ああ、これが私だなあ」と、ごく自然に思います。

でも、こんな考え方もあります。
もう亡くなりましたが渡部昇一氏の本に
「知的生活の方法」(講談社現代新書)という本があります。

この本は、私が30才代に読み始め、何回読み直したか覚えていないくらいです。
その本は今、ボロボロになって、ページがはがれているところはテープをはって止めてあります。

そこに、こんなことが書いてあるのです。

あなたは繰りかえし読む本を何冊ぐらい持っているだろうか。
それはどんな本だろうか。
それがわかれば、あなたがどんな人かよくわかる。

という文です。

鏡を見た自分の顔や姿でなくて、どんな本を繰りかえし読んでいるかで、
その人がわかるというのです。そしてこうも書いています。

知的生活とは絶えず本を買いつづける生活である。
したがって知的生活の重要な部分は、本の置き場所の確保に向かわざるをえないのである。

昔は6畳ほどの部屋が私の事務室と勉強部屋で、本が山積みになっていました。
私以外の人が部屋に入ると、本がガサガサと崩れ、
小さくてもいいから、自分専用の図書室が必要になってきたのです。

念願かなって、9年ほど前に、経蔵(きょうぞう・図書館)が、
檀家さんのご寄付もあって、出来ました。3万冊以上は収納できると思います。
その経蔵が、今、事務室と図書室になっています。
本の影響は大きなものがあると思います。

考えている自分

どんな本を読んでいるかで、その人がわかるというは、
その本を読んでどんなことを考えているかということです。
「考えている、それが自分本来の姿」ということです。

ジェイムズ・アレンという人が
「『原因』と『結果』の法則②」(サンマーク出版)で、
こんなことを書いています。

すべての魂が、思いと経験の複雑なコンビネーションであり、
肉体は、それを表現するための物質的な道具にすぎません。
よって、あなたの思い、あなたが考えていることこそが、真のあなた自身なのです。

こんな文章です。

簡単にいえば、
「顔や姿が自分でなく、何を思い、何を考えているかが、ほんとうの自分である」
ということです。

悪いことを考えていれば悪人で、
善いことを思っていれば善人なのです。

ある新聞(毎日新聞 令和4年9月4日付)に
「ひき逃げ犯 今もどこかに」という記事が載っていました。

そこには13年前に、2台の車にひかれ命を落とした
10才の男の子のことが書かれていました。

平成21年9月30日午後6時50分ごろ、
当時小学4年であった男子が書道教室から自転車で帰宅する途中、
後方から来た車にひかれ、倒れていたところを2台目の車にはねられ、命を落としたのです。

この男子はひとり息子で、
母は「1台目がすぐ救護していたら、息子は助かっていたかもしれない」と語り、
事故後ショックで、3週間外出することができなかったと言います。

この男子をひいた2人は、そのまま逃げて姿を隠し、
13年経っても逃げ続けているというのです。

罪から逃げ、責任を取らない。それがこの人たち自身です。
神仏は決して彼らを許さないでしょう。

白隠(はくいん)が教えを説く

臨済宗の中興の祖と言われる白隠という和尚さんがいました。
たくさんの著書を残していますが、その中に
『假名葎』(かなむぐら・禅文化研究所)という本があります。

とても興味深いお話を白隠がしています。
生前悪を犯したものは、やがてその悪を担って冥土に入ることになると語り、
その様子を事細かに説いています。ひきにげ犯も、おそらく冥土にいけば、
白隠の言うようになるということです。
そこのところを、少しまとめてみましょう。

死んだばかりの時は、何の正体もなく熟睡したようなもので意識はないが、
しばらくしてから、かすかに目を開いてみれば、冥府に堕ちていることに気づく。

死出の山、三途の河などという恐ろしい真っ暗闇の所を、
ぼんやりと五里か十里もたどっていったかと思えば、果てしもなく広い野原に出る。

そこは月日の光もないのに昼間より明るく、火事場のようである。
焦熱地獄、大焦熱地獄の焔(ほおの)がドッと燃え上がっている。
そこには罪人どもがびっしり群がってワアワア泣き叫んでいる。

そして嘆く。
「ああ、悲しや。思いがけずに、こんな恐ろしい所に堕ちてしまった。
 娑婆にいたときには、こんな恐ろしい所があるとは知らなかった。悔やまれる。
 極楽、地獄など、根も葉もない作りごとと思っていた。
 せっかく人として生まれ、後の世があると知れば、菩提を求める生き方もあったろうに、
 悔やまれることよ」

また、地獄に堕ちてしまえば、身分が高かかろうが同じように苦しめられる。
その地獄には、大名も代官も、頭を丸め衣を着たお坊様や尼さんもいて、
地獄の中で俗人のように苦しんでいる。

そして嘆き語ることは、
「死んで後、こんな苦しい所があるならば、
 お坊様方が少しなりとも教えてくださっていたならば、
 こんなことにはならなかっただろうに。
 返す返すも恨めしいのは、教えてくれなかった世間のお坊様だ」

そして白隠が言う。

「そういうわけだから、皆様方よ、決して油断してはなりませんぞ。
 油断してのんびりと生きては、いずれおっつけ憂き目をみることになりますぞ。
 『良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らう』と申します。
 老僧(わたし)の話は、よくある極楽話ほどには面白くないとお思いでしょうが、
 きっときっと、間違いない話ですぞ」

こんな話です。

そして白隠の考えの中に、無量の学識を積み、
よく学んでこれを活かして説法し、人びとを利益する、幸せにするとあります。
これが、白隠自身の本来の姿といえます。

ほんとうの自分を作っていく教え

ある新聞に、次の詩が掲載されていました。
24才の男性が作られた詩です。

格言

好きな言葉は
何ですか
そう聞かれた僕は
歴史上の偉人の残した
格言を思い出し
その中から答えた
かっこつけたかったのだ
よく考えれば
母からもらった
素敵な格言が有った
自分がされて嫌な事は
人にしちゃいけない
これに勝る言葉なし

(産経新聞 平成28年3月11日付)

こんな詩です。

格言とは深い経験を踏まえ、簡潔に表現した戒めと辞書にはあります。
この「自分がされて嫌な事は、人にしちゃいけない」は、
作者のお母さんの深い体験から出たものでしょう。

仏教の教えに、「殺してはいけない」という戒めがあります。
殺してはいけない。それを自分にされたらどうでしょう。ひき逃げされたらどうでしょう。
そんなことは自分にしてほしくはないでしょう。

この格言には、自分を正し生きていく教えがあります。
自分を正しく導く教えは、ほんとうの自分をつくる力になっていくのです。

(つづく)