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法話

ほんとうの自分に出会う 4 にせものの自分、ほんとうの自分

先月は、考えは自分自身であるというお話で、
ほんとうの自分を作っていく方法も少しお話し致しました。

そのひとつが、
「自分がされて嫌なことは、人にしてはいけない」
というある男性の母の言葉でした。
今月で、このお話は最後になります。

にせものに騙される

にせものには掛け軸とか絵画、あるいは宝石などたくさんあります。
「開運!なんでも鑑定団」という番組があります。
番組の中で、ほんものか、にせものかを鑑定し、
にせものだったら3千円、ほんものであったら300万円とかで、
視聴者の興味や笑いを取っています。

ちぎり紙細工やペン画で有名な山下清という画家がいます。
よく鑑定団にでて、ほんものであれば高額の値段がついています。
こんな絵が、そんなにするのかと驚くことがあります。
中には、にせもので、持ち主ががっかりしているのには同情してしまいます。

いつ放映されたのか定かではありませんが、
テレビに出ていた山下清が描いたというペン画がでていました。
どうもにせものだったようです。

そのペン画を描いたにせものの人物は、
人を騙して儲けようという思いが推測できます。この思いは、にせものの自分です。

にせもののといっても、自分を守るための、にせものもあります。
今年(令和5年)、6月号の「Newton ニュートン」に
「アジアの昆虫 生きぬくために手に入れた個性豊かな姿」という企画で、
さまざまな昆虫の写真が載っていました。

実際に見ていただくといいのですが、残念です。
その昆虫の中でピンク色をしたカマキリの写真が載せてありました。
ピンク色のカマキリです。

正式な名はハナカマキリ。
マレーシアやインドネシアの熱帯雨林に生息し、
オスが4cm、メスが9cmほどあり、飛行もできるようです。
ラン科の花に擬態(ぎたい)し似せて、チョウやハチを待ち伏せして捕食するのです。
にせもののランの花のようになるのですが、
熱帯雨林で生きる工夫をしているハナカマキリ。

人を騙して儲けをするのとは違い、生きる力を感じます。

正直さと欲深さ

イソップ物語に「金の斧と銀の斧」というお話があります。
有名な話です。

一人の若者が湖のある森で木を切って暮らしていました。
ある日、一心に木を切っていたのですが、
うっかり手をすべらせて、鉄の斧を湖の中に落してしまいました。

たった一つしかない鉄の斧。
どうしようと途方にくれていると、
突然湖の中から、女神が現れて、金の斧を見せて、
「これはお前の斧ですか」と尋ねました。
若者は「とんでもありません。私の斧ではありません」と答えました。

すると、女神は今度、銀の斧を持って現れ、
「この斧は、お前の物ですか」と尋ねました。
若者は「それも違います」と。

そして、今度は鉄の斧を持って現れ尋ねると、
若者は「それが私の斧です」と答えました。
女神は若者の正直さに感心し、金と銀の斧を若者に与えました。

ほんとうは欲が出て、
女神が初めに出した金の斧を自分のものと言いたいところですが、
「そうではない」と言った若者の正直さが、この話の学ぶところです。

この話の続きです。

それを聞いた隣村の若者がわざと鉄の斧を湖に落し、
女神が金の斧を出すと「それが私の斧です」と答えたので、
女神が「自分勝手でウソつき者。さっさと立ち去りなさい」
と叱咤(しった)します。

若者は鉄の斧も失い、貧乏の暮らしをしなければなりませんでした。

正直な若者が、ほんとうの自分を生き、
ウソつきの若者がにせものの自分を生きている。
そのように、自分というものをとらえるのです。

着ている服が意味するもの

私たちは、その人が来ている服装によって、
どんな仕事をしているのかを判断できます。

たとえば、警察官は警察官の制服があり、
その服装を見て、「ああ、あの人は警察だ」とわかります。
警察官が巡視のために乗っているパトカーも、
「警察だ」と判断できます。

高速道路で、パトカーが走っていれば、みな速度を落とし、
パトカーを追い抜く人はめったにいません。

問題は、その制服を着ている人の思いにあります。

ある小学校低学年くらいの女の子が、
道に落ちていた1円玉を、交番に届けました。
すると交番に常駐していた警察官が、ていねいな対応をし、
1円の拾得物を書類に書いて、その女の子を笑顔でほめてあげました。
おそらく、この女の子は、大きくなっても、落とし物があれば交番に持っていくでしょう。

私の息子が高校生の時、市内のお祭りに行って、落とし物のカメラを拾いました。
そこで、駅の横にあった交番にわざわざ行って、
「誰かカメラを落としたようです」と届けたのです。
すると警察官は「お前が盗んだのだろう」という対応をしたようです。
息子はそのことを振り返って、「もう交番にはいかない」と言っていました。
どちらの警官が人としての、ほんとうの自分を活かしているのでしょう。

同じ警察官の制服を着ていても、
どのような思いで、自分の仕事をしているかが問題なのです。
先月号の「考え、思いは、自分自身である」という考えを思い起こしてください。

もっとひどい事件がありました。

昭和43年(1968年)12月10日、東京でのこと。
金融機関の現金輸送車に積まれた約3億円の現金が奪われた事件がありました。
「3億円強奪事件」というようです。
奪った男は、白バイ警察官にふんしていました。
このお金はある会社の4525人の冬のボーナスであったようです。

警察が捜査しましたが犯人を捕らえることができなくて、時効になりました。
警察官の服装を身につけていた男の心の中の思いは、
人を騙してお金を奪うという盗人の思いです。

時効になったとはいえ、あの世に帰れば、先月号で白隠がいうように、
閻魔様にお叱りを受け、長い反省の時を過ごさなければならないでしょう。

警察官の服装をしていても、
この男の思いの姿は、人の物を奪って喜ぶ悪人の姿です。
これはにせものの自分です。

ほんとうの自分と出合う

私たちは普段の生活の中で、ほんとうの自分と出合っているでしょうか。
何気なく日々をすごしていると、そのようなことは、あまり考えないかもしれません。

鏡で見ている自分が、ほんとうの自分であり、
日々食事をし、仕事をしながら暮らしている、今の自分、
この自分をほんとうの自分と感じている。そんな人もいるかもしれません。

ほんとうの自分というのは、そこに尊さがあります。
美しさや清らかさがあるといってもいいかもしれません。

鉄の斧を正直に自分のものといった若者のような、
そんな生き方に、ほんとうの自分が現れています。

この世の泥臭い、欲望や怒り不平不満で心が染められず、
未熟でも、しっかり生きていたい、感謝を大切にしたい、
できるならば相手の気持ちになって、幸せをわけてあげたい。

そんな思いを持って生きている人が、
ほんとうの自分と出合っているといえるのです。

こんな尊い自分に、どれほど日々出合っているのでしょう。
どれほど尊い自分に気づいているのでしょう。
どれほどほんものの自分に目覚めているのでしょうか。

そんなことを、ときどき自分に問い尋ねてみることです。

人間になるってすごいこと

ある投書を読んで、学んでみます。
35歳の女性の方の投書で「娘はお地蔵様」という題です。

「娘はお地蔵様」

夫と知り合ったのは30歳を過ぎたころ。
32歳で結婚した。決して早くない結婚生活のスタートに、
悠長に構える夫と対象的に、私は早くあかちゃんを授かりたいという一心であった。

妊娠検査薬の結果、妊娠したらしいと判明。
大喜びする私の隣で、夫は「可能性があるというだけだよ」と冷静であった。

週末に病院へ行こうと決めた矢先、
職場でトイレに行くと出血していた。生理である。
妊娠はしていなかったようである。

医務室で看護師さんに打ち明けると、
「結婚生活はね、楽しいことだけじゃなくて悲しいこともあるんだよ」
と諭された。

帰り道、人間になるってすごいことなんだと、街行く人を見る目が変わった。
お寺で供養してもらい、ひとりになると泣いた。

気持ちが落ち着いてきたころ妊娠し、翌年長女を出産した。
病室で長女を見て、あれれ、お地蔵様みたいだ。

うちひしがれた私は、
夫の父が眠る墓参りにいくたびに地蔵様に必死でお願いしていた。

お地蔵様があわれんで、私のおなかに宿ってくださったのかな。
隣で夫がうんうんとうなずいていた。

(朝日新聞 平成28年2月18日)

こんな投書です。

人間になるってすごいことなんだと、この女性は書いています。
こんな思いを持つことは、あまりないかもしれません。

お釈迦様も、「爪のうわばの土」のたとえで、
人間の身を受けてこの世に生まれてくることは得がたい。
たとえば、大地の土に比べて、爪の上にのせた土は、比較にならないほど少ない、
それほど人としてこの世に生まれてくることは難しい。そう説いています。

ですから、人間になることはありがたく、感謝して生きていくことが大切なのです。
そんな生き方の中で、ほんとうの自分に出合うのです。

お地蔵様との出合い

この投書の女性は、生まれてきた長女が「お地蔵様みたい」と言っています。
長女が産まれる前に、お地蔵様に必死でお願いしました。
そして、「お地蔵様があわれんで、私のおなかに宿ってくださった」
という妻の言葉を、夫は「うん、うん」とうなずいて受け取っています。

大切な出来事を素直に受け入れる、
そんな2人の思いは、とても尊いものがあります。
信じるというのは、こんなに美しいのです。

私のお寺にもお地蔵様がいらっしゃいます。
そのひとつが謂(いわ)れのあるお地蔵様です。

江戸後期、お寺から遠く離れた
地蔵平というところに安置されていたお地蔵様を、
当時の高遠藩主が気に入って、高遠でお祭りすると決め、
地蔵平から高遠まで運んだのです。

その途中、護国寺近くになると、
お地蔵様が急に動かなくなったのです。

どうしたものかと思案して、お地蔵様の行くに任せて運ぶと、
この護国寺に着いたというのです。

ほんとうかどうか定かではありませんが、
素直に信じて、当寺で大切にお祭りしています。
多くの方がお参りし、その霊験(れいげん)を受け取っています。

仏さまと出合う

このお話をした時の「法愛」の「みにミニ法話」は、
「神仏の姿」という題でした。(平成28年4月号)

その中で、ある詩を載せています。
「仏さま」という題で81歳の男性が作った詩です。
もう一度載せてみます。

「仏さま」

2才3カ月の孫が 桃を食べている
おいしいと聞くと おいちいと言います
そして おじいちゃんと言って 桃を差し出します
孫の顔が仏さまに見え 食べかけの桃をいただきます
ああ わたしも何か 人にしてあげたい
さっき自転車置場で
倒れていた自転車を 横目で見てきたけれど
あれを起こしてくればよかったなあ

(産経新聞 「朝の詩」)

孫が仏さまに見えたと書いています。

先ほどの生まれたばかりの長女がお地蔵様に見えたと同じです。
仏さまとの出合です。
そして仏さまと出合うと、人のお役に立ちたいと思うのです。

この思いが、心の内にある、尊い自分です。
それを良心とも、禅的には仏心とも言います。
その良心、仏心は、この世の苦楽に、決して汚されることはありません。

この良心、仏心がほんとうの自分で、
その自分をどう使い、幸せを得ていくかが、私たちのこの世の修行ともいえます。

修行という言い方が不適切であれば、
人として生きる尊い生き方と表現してもいいかもしれません。

繰り返します。
ほんとうの自分は、良心、仏心であり、
それを上手に使い、自らの幸せと相手の幸せを考え
調和した生活をしていくのです。

どん欲や怒り、不平不満といった、
にせものの自分に翻弄されず、尊い自分を活かし、
感謝と笑顔の日々を送っていきましょう。