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法話

花のにつ 2 言葉の花

先月は「花の香り」ということで、
花とたわむれていると、その花の香りが服について、
花と同じ香りを自分が放つことができる。

そこから、何かの影響を受けて、自分自身が善にも悪にもそまる。
そんなお話でした。続きです。

これはいい絵だ

人は言葉によって左右されることがあります。

何気ない言葉に苛立たしさを感じ、それが原因で喧嘩になったり、
逆に、ある言葉で幸せになったり、勇気づけられたりします。

この意味でも言葉には、不思議な力があるのです。
そんな言葉の影響をうけて、人は善くも悪くもなっていきます。

たとえば、ほめられたことが転機となって、生きる道を決めることもあります。
黒澤明映画監督のことです。

黒澤さんは身長が182cmもあって、貫禄のある人でしたが、
小学校のころは気が弱く、泣き虫で、
何をしても上手くいかず、成績もよくなかったと言います。
学校はまるで牢獄だったと言っています。

それが小学3年生の時です。
図画の授業で、個性的な絵を描くと、
まわりの同級生が「変な絵」と言って、散々笑ったのです。

でも、その絵を見た立川先生が、
「これはいい絵」だとほめ、三重丸をしたのです。

人からほめてもらったのは初めてのことでした。
それ以来、絵を描くことが好きになり、成績も上がり、
級長にもなったというのです。

そのほめてもらったことで、
やがて映画の設計図として数々の絵コンテを描くようになったのです。

私も何かの報道で、その絵を見たことがありましたが、
こうやって映画作りのために絵を描いて、
それをもとに映画を製作していくということを知りました。

哲学を学ぶ

私もひとつの想い出があります。
大学で哲学を専攻したのですが、そのきっかけとなった出来事です。

高校時代に、倫理という時間がありました。
薄い本でしたが、そこには見慣れない写真入りの名前が載っていました。

ソクラテスとかプラトン、ヘーゲルといった
あまり聞いたことのない名前でした。

でも、何か興味をそそるものがあったのです。

倫理の期末テストで、担当の先生が少し変わっていて、
質問を出して解答をするといったテストでなく、論文形式のテストだったのです。

何についての質問かは、はっきりとは覚えていないのですが、
「人間」に関することの問題であったように記憶しています。
一枚のテスト用紙に、空白を残さないで書きました。

後日戻ってきたテストの点は90点以上で、自分ながら驚きました。
黒澤監督と同じように、ほめ言葉をいただいたわけです。

そんな高得点を見て、もしかしたら、こんな傾向の学びがいいのではと思い、
大学では哲学を学ぼうと決めました。
その学びが僧侶になっても生かされています。

励ましの言葉

挫折しそうになったときに、
励ましの言葉をいただいて、立ち直ったという人も多いのではないでしょうか。

励ましの言葉の香りが心にしみいって、
生きる力になっていくということがあるのです。

次の投書で学んでみます。
63才の男性の投書です。「ただ一言を支えに」という題です。

ただ一言を支えに

私が銀行に勤め、課長をしていた時、
ある新人女性行員が私の部署に配属されてきました。
彼女は一生懸命に仕事を頑張っていました。

しかし、1カ月ほどして失敗をしてしまいました。
そして、支店長からひどく怒られました。

彼女は謝りながら泣いていました。
その直後、私は彼女に
「気にしなくていいよ。誰にでも間違いはあるのだから」と慰めました。
彼女も涙をふきながら、小さな声で「はい」と言いました。

それから、彼女は日に日に事務知識を習得し、
その支店で「生き字引」と言われる存在になりました。

月日が経ち、私は転勤し、彼女とは別の支店で働いていました。
そんなある日、彼女から電話がありました。

「この度、結婚するので退職します。お世話になりました。
新人行員の時、慰めてくれなかったら、私は、辞めていました。
あの時はありがとうございました。
それを言いたくて、お電話をしました」

私が何げなく言った言葉が、
彼女にとって強烈な救いとなっていたのだと、初めて気づきました。
言葉は「人生の分岐点」になると知りました。

(朝日新聞 平成28年5月1日付)

こんな投書です。

課長の慰めの言葉に、立ち直った新人行員です。
失敗した時にいただいた言葉が、彼女を強くしたのです。

おそらく、課長と彼女は信頼関係にあったのではないかと思います。
その信頼ゆえに、課長の言葉が彼女の心にしみいっていったのです。

思い返せば、そんな言葉をいただいた時が、
誰にでもあったのではないかと思います。

伸びやかに

私が60才になったころです。
裁判所の非常勤として働くことになりました。

当時の裁判官は私より3つほど上の方でした。
1年半ほどご指導を受けて、あるとき
「あなたは人間が好きですね」と言われたことがありました。

その裁判官とは、仕事で少しご一緒したくらいで
親しく話をしたことがありませんでした。

その言葉を聞いたとき、「よくわかるなあ」という印象でした。
長年裁判官をしていると、人を見る目が深くなるのでしょう。

その裁判官が4月8日に、任期満了で退官されました。
後日、退官されたご挨拶のハガキをいただいたのです。

そのハガキの左上に筆ペンで、こんなメッセージが書かれていました。
「今のまま、伸びやかなご活躍をお祈りいたします」とありました。

裁判所の仕事で、こんなやり方でいいのかと、少し不安を持っていましたが、
このハガキのメッセージを読んで、「今のままでいいのだ」という、
強い前向きな思いになりました。

そして「伸びやかに」という言葉に、
またよく人をみているなあという思いを持ったのです。

そんな「伸びやかさ」が私にあったのか、
それとも、もっと「伸びやかに仕事をしなさい」という意味の言葉か、
今でも定かではありませんが・・・。

何があってもいいじゃないか

このハガキを受け取って、
当時(平成28年5月10日)のブログにこんな詩を作って載せました。
「伸びやかに生きる」という題です。

「伸びやかに生きる」

何があっても
いいじゃないか

何があっても
喜んで事を成す
何があっても
こだわらない

何があっても
相手のことを忘れない
何があっても
一生けん命生きる

何があっても
心ゆったりときりきりしない
何があっても
笑顔を忘れない

何があっても
そこから逃げず
前向きに生きていく

何があっても
伸びやかに
伸びやかに

こんな詩です。

言葉が花のように咲いて、その言葉の花の香りが心にしみいり、
善き人としての生きる力になっていきます。

言葉の力

人それぞれに、自らの人格を深くしていく言葉を持っていると思います。

私のところで出している「法愛」に「月の言葉」を小さな紙に書き、
「法愛」の正面に貼って、みなさんに配布しています。

この「月の言葉」は「法愛」から簡単にはがせて、
自分が見えるとところに貼ることができます。
ですから、この言葉を何度も見て心に入れることができます。

たとえば、今年の4月の言葉は次の言葉でした。

自分のためだけ
相手のことは考えない
その心が
人の美しさをうばいとる

人はとかく自分の幸せを追い求めるものです。

その生き方は間違っていませんが、
それのみであると、幸せな家庭や社会は望めません。

自分のことも大切ですが、
相手のことを考えて行動し、そして相手の幸せのために生きてみる。
その姿が美しいのです。

そんな生き方を尊ぶ人は、この世にはたくさんおられます。
そんな人の姿を見て、自らも学んでいく姿勢が大切だと思います。

正しい言葉の花

私が学び取っている1人の先生は、内村鑑三という先生です。
昭和5年に69才で亡くなっています。

先生は教師であり、新聞記者であり、
キリスト教の伝道者でもありました。

細かな説明は致しませんが、
日本で最初の聖書雑誌である「聖書の研究」を創刊しました。

亡くなるまで続け、
先生のライフワーク(一生をかけてする仕事の意味)になりました。

先生の死後、357号で廃刊になりました。
「法愛」はこの8月で344号になります。
先生が続けていたその姿をまねて、続けているのです。

先生が出された本に『一日一生』(教文館)という本があります。
1月1日から12月31日まで、1日ずつ、
その日に読めるように短い文章が綴られています。

その中の文を少し引用してみます。5月2日の文章です。

死は大事である。しかし最大事ではない。
死はとりかえしのつかぬ災厄(わざわい)ではない。
死は肉体の死である。霊魂の死ではない。
形体の消失である。生命の湮滅(いんめつ)ではない。
われらは死して永久に別れるのではない。われらはまた後にあるのである。
人生の大事は死ではない、罪である。
(後省略す)

こんな文章です。

死は大事であるけれど、死は最大の事ではない。
なぜなら、肉体は消えても、霊魂の死ではなく、
死して後にも、親しい人とも再会ができる。

そう述べています。

9月23日には、こうも述べています。
一部を載せます。

肉体は牢獄である。
その中に宿るのは一種の禁錮である。
しかして死によって霊は肉の束縛より脱するをえて、
その禁錮を解かるるのである。

肉体は牢獄であると述べています。
その肉体の中に入っている霊が、
死によって、その肉体の束縛からでることができ、自由になるのです。
深い洞察力であると思います。

人は死によって無になるのでなく、
死によって肉体の束縛から出て、あの世で霊として生きるわけです。

俳人の女性が、ある雑誌に
「お墓にお骨があろうと無かろうと、死者は無である」
と書いていました。

もし死んで無になったならば、
どう生きることが尊いのかを考える必要もありません。

お釈迦様は「因果の法則」を説かれました。
善いことをすれば善い結果がで、悪いことをすれば悪い結果がでる。
そんな教えです。

この世で悪いことをして、見つからなかったら死んで無になれば、
その悪を問われることはありません。

しかし、この「因果の法則」は、この世とあの世を貫く法則です。
お釈迦様は、死んで後、善なる行いをした人は、
あの世に行くと、善なる人が迎えてくれる。
そう『法句経』で説いています。

ある方が四十九日の相談に来た時、
確かに、その家族についてきた亡くなられた方の霊を感じたことがあります。

その人はお寺に尽くした善人で、四十九日を終えて、
善なる人が迎える世界に帰っていったと思っています。
正しい言葉の花が、正しく生きる方向を決めるのです。

(つづく)