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法話

花のにつ 3 善き行いの花

先月は、このテーマでは2回目でした。
2回目は「言葉の花」ということで、相手をほめた言葉や励ましの言葉で、
その言葉をいただいた人が、前向きに生きられるようになったというお話でした。
言葉にはそれだけの力があるわけです。続きです。

言葉から行いへ

言葉でいくら説明しても、
行って体験しないとわからないことがたくさんあります。

「冷暖自知」(れいだんじち)という禅語があります。
水の冷たさや暖かさは、自分で経験し体験しないと知ることができないという意味です。

「この水は冷たいよ、暖かいよ」と幾度も説明しても、
冷たいとか暖かいということを知らない人にとって、
実際に手で触ってみないとわからないということです。

あるいは、水泳の説明書を読んで、言葉でクロールや平泳ぎを学んでも、
実際に泳いでみないとわからないものです。

プールで泳ぎ方を教えてもらい、実際に泳いでみて初めて、
「ああ、水の中で泳ぐというのはこういうことなのか」というのがわかるのです。

ですから、「ありがとう」という言葉を実際に言ってみて、
相手がその言葉に応じて笑顔で「ありがとう」と返してくれる。

そんな体験を通して、「ありがとう」の意味が、心に深く刻まれ、
「ああ、いい言葉だなあ」と、自分のものになっていくわけです。

詩を通して学ぶ

ここで川崎洋(かわさきよう)さんという詩人が編集した
「にんげんぴかぴか」(中央新書ラクレ)という本から、
子ども達の詩を載せ、学んでみます。

小学校2年の女の子の詩です。「まだまだダメ」という題です。

「まだまだダメ」

ばばにおしえてもらいながら
たまごやきをやいた
じょうずにできたとおもった
けさばばにたまごやきを
やいてもらっておもった
ふわふわしておいしそう まだ
わたしはしゅぎょうがたりない

(川崎洋「にんげんぴかぴか」(中央新書ラクレ))

こんな詩です。

川崎さんのコメントは「おわりの一行を読み、えらいなと思いました」です。

実際に卵焼きを教えてもらって作ったわけです。
でも、ばばが作った卵焼きのほうがふわふわして、美味しそうだった。
そんな体験を通して、私はまだ修行が足りないと言っています。
こんな体験が、この子の生きる糧になっていくのです。

今度は小学2年生の男の子の詩です。
「はんだん」という題です。

「はんだん」

ママ いま 顔ではんだんしたね
人間 顔ではんだんしちゃ
いけないんだよ
校長先生を見てごらん
あんな こわい顔してて
けっこう やさしいんだよ

こんな詩です。

川崎さんのコメントです。
「テレビドラマの悪役に、ママが『わー怖い顔』と言ったときの、発言とのこと」

普段学校で接している校長先生から学んだ体験です。
小学校2年生の人としての深さを知る詩です。

みな大切な体験からきた、何にも代えがたい人生の宝です。
人はさまざまな体験、行いを通して、大切なものを学んでいくのです。
その学びが心に深く染み入っていって、やがてさわやかな香りを放ち、
まわりの人を幸せにしていく力になっていくのです。

善はカタツムリの速度で動く

ガンジーが「善きことは、カタツムリの速度で動く」という言葉を残しています。

悪が知れると、その知られる速度は何と早いことでしょう。
でも、善はこつこつと積み上げても、それでも知られず、表にはでないものです。
ただ内なる心を豊かにしていくことは確かでしょう。

私が中学1年生の時の体験です。
2度としたくない恥ずかしい体験で、そこから何を学んだかが、問われる体験です。

伊那のあるスケート大会で、
先生から「杉田、お前出ろ」と言われ、
少し自信があったので出ることにしました。

でも、ひとつ心配なことがあったのです。
それはスケート靴の刃を研(と)いでないことでした。
父にお願いして、刃を研いできてもらえばよかったのですが、
その準備を怠り、スケート大会を甘くみていたのです。

当日は何メートルの競技であったのか忘れましたが、
競技の最初で、自分の持ってきたスゲート靴で氷の上に立つと、
まともに立っていられないほど安定しなかったのです。
スケート靴の刃が氷にくい込まないのです。

そんな不安定な状態で、8人ほどが、スタートの合図で走り出したのです。
私は一歩で転び、そこでやめておけばよかったのに、
責任感のもと、立ち上がって、走り出したのです。

でも、まともには滑ることができません。
みんながゴールしても、まだ半周残っていました。

転びそうになると、見ていた人たちが
「ああー、ああー」と、みんなで心配する大きな声がします。
今から思えば、笑いを取っているようなお笑い芸人のようでした。

そしてやっとゴールしたとき、
見ていた人たちが一斉に拍手をしてくれました。
人生で一番、恥ずかしい拍手だと思った体験です。

大学生のとき、仲間と一緒にスケートに行って、
私の滑るところを見ていた友が、
「杉田があんなにスケートがうまいとは知らなかった」と言っていたので、
本当は早く滑ることができるのです。(笑)

この体験から、学ぶことが3つありました。

1番目は、スケート靴の刃を研がなかったことから、
何をするにも準備を怠らないということです。

あれから50年以上も経っていますが、
準備をするという善なる行いが、自分なりにできているかと、
自らに問う日々です。

2番目です。
私の参加したレースが終わり、次のレースが始まりました。
すると、最初に私と同じようにころんだ選手がいたのです。
その人は、そこでレースをやめて棄権したのです。
それを見て、「ああ、私もああすればよかった」と、非常に後悔したのです。

レースを棄権するのは、もう1位になれないので、賢い選択かもしれません。
自分が生命の危険にあるときは、その場を逃げなくてはなりません。

でも、人生の難問から逃げないで、
どうすれば解決するのかを問い続ける姿勢が善なる行いではないかと思います。
その難問をやりとげたとき、そこには支える人がいたことを知り、
またやりとげた充実感を知ることができます。

3番目。レースが遅くでも、頑張っている選手をたたえる。
そこから、一生けん命頑張っている人を、バカにしないで、
あたたかな思いで応援してあげることです。

これらの善なる気づきは、失敗から得た智慧(ちえ)です。
そんな智慧が心の中にしみ込んでいくのです。

あたかも善なる種を心の大地にまいて、その種がしだいに成長していくように。
そして、やがてそこから花が咲き、その花の香りが、相手を幸せの香りで包むのです。

花のにつ 4 善き思いの花

どんな思いでするのか

毎日、本堂の前の庭の掃除をします。
そのとき、どんな思いで掃除をするかが問題になるのです。

こんな言葉があります。
この世に雑用などない。雑用にしているのは、その人の心にある。
 用を雑にしたとき、雑用が生まれる

もし、掃除をいやいやしていたり、こんなくだらない掃除は早く済ませてしまおう。
そんな思いで掃除をしたとき、その掃除は雑用になってしまいます。

仏様が降りてこられるように、庭をきれいにして、この仕事を大事にしよう。
そんな思いで掃除をしていれば、同じ掃除でも大きな違いが、そこに出てきます。

草を取るにも、玄関を掃除するにも、
タオルを洗うにも、使った食器を洗うにも、
トイレを掃除するにも、机の上を片づけるにも、
相手と接するときにも、ありがとうの言葉を使うときにも、
どんな思いでそれをするのかで、大きな違いがでてきます。

思いは目に見えませんが、大切な思いでそれらのことをすれば、
そこに必ず清らかな香りが放たれていきます。

もし、こんな事を私がする必要はないとか、
こんなくだらない仕事は私には合わないとか、
どうして私がしなくてはならないのとか、
そんな思いで仕事をしていれば、そこに悪臭が放たれていくのです。

思いを変える

ノートルダム清心学園の教授をへて、学長、理事長になられた渡辺和子さんが、
たくさんの本を出されています。

もう亡くなられましたが、
その本の中に「『ひと』として大切なこと」(PHP文庫)があります。
その中に出てくるひとつのエピソードから、学んでみます。
同じ境遇でも思いを変えれば、強く生きていける、そんなお話です。

渡辺さんが大学の教授をしていたころだと思います。
小さいときに関節炎を患って、片方の足の悪い女性がいました。
大学にいるときには、笑顔の絶えない人でした。

渡辺さんは、もし自分が松葉杖をついて、
いつも片足をひきずって歩かなくてはいけないときに、
あの人のような美しい笑顔ができるだろうか、と感心していたと書いています。

それが、その人が大学を卒業されて勤めを始めて、
初めて世間の冷たい風を受けたのです。

大学内では、みんなが優しく接してくれ、
まるで足が悪くないような4年間を過ごしたのです。
でも外では邪魔もの扱いにされ、
足が悪いため人と同じだけの仕事ができないわけです。

そこで、渡辺さんのところに相談にきたのです。

渡辺さんは彼女に「それが現実ではありませんか」と言ったのです。
「あなたの足が悪いことは事実ではありませんか」と、
ずいぶん冷たい言い方であったけれど事実だから言ったといいます。

そして、その人は、足が悪いという変えられないものを受け容れ、
何が変えられるのかを考えなくてはならないと書いています。

足の悪いのは変えられない、でも思いは変えられる。
落ち込む思いでなく、いつものように笑顔でみんなに接する。
心強く持てばできないことはありません。

その結果、この女性は立派に立ち直って、
もとよりもっと美しい笑顔を持つ人になったといいます。

ありのままの自分、つまり片足が悪いということに恥ずかしさを感じないで、
胸をはって歩く、そんな人になったわけです。

片足が悪いというのは、治すことができない。
できなければ恥ずかしいという思いを変えて、強く胸をはって歩く。
そんな生き方はとても尊く思います。

誰でも、思いは変えられます。
善なる思いを常に抱き、生きていくことです。

自分という花の香りを放つ

今まで言葉と行い、そして思いについてお話ししてきました。

それらの自分が培った善の花の香りを、
今度は周りの人に、漂わせていくわけです。
そんな花たちが咲いている丘は、きっと美しいでしょう。

このお話(平成28年5月)をする少し前、
80才になるという男性が訪ねてこられました。

お寺に上がっていただいて話を聞くと、
ウエスト・ヴィレッジという喫茶店での話に参加したというのです。

そこで「法愛」をいただき、それを読んで感動し、
是非この文を書いている和尚様に会いたいと来たのです。

その人は努力について関心があり、
5月の法愛の後ろの詩に「努力」という言葉があって、
是非努力について教えてもらいたいというのです。

その詩を載せます。「今度は私が」という題です。

今度は私が

人はやさしくされると 心があたたかくなる
人は親切にされると ありがたくなる
その思いを忘れないで
今度は私が やさしく親切にしてあげる
そうして少しずつ努力し 善を積んでいくと
その努力が 必ずむくわれて 心があたたかくなる
生きているのがありがたくなる

私は、その男性に言いました。
「努力ということですね。自分の時間が10個あるとします。
 そのうち3個、人のために使う努力をする。
 人のために努力する時間が、その人の人格を築いていくわけです」

そういうと、目を丸くして「初めて聞きました。ありがたい」
そう言われた顔には笑顔が満ちていました。

人は自分が幸せになるための努力は、確かに大切です。
でも、その自分のために使う努力を少しだけ、相手の幸せのために使う。

自分の善という花の香りを、相手の人に分けてあげ、共に幸せになっていく。
その生き方に、人としての徳が培(つちか)われていくのです。