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法話

学び取る幸せ 1 学びて楽し

今月から「学び取る幸せ」というテーマでお話し致します。
この法話はお寺の女性部の「水無月の法話会」でお話ししたものです。平成28年6月11日のことです。

学ぶことは楽しい

小学校のころ、夏休みになるのが楽しみでした。
なぜなら、勉強しなくてすむからです。
勉強が嫌いなので、夏休みの宿題帳は、夏休みが終わるころあわててしていました。

夏休みに、お寺の子供会に来る子どもたちに「宿題はやったのか」と聞くと、
「もう、やっちゃった」と言っていました。夏休みが始まったころなのに……。
今の子どもは違うなあと、そんな感想を持ったことがありました。

勉強嫌いな私が、
勉強しなくてはならない立場に置くにはどうすればいいかと考えました。
それはお話をするということです。

お話をするためには、勉強しなくてはなりません。
同じ話を、同じ人たちに何度もすることはできません。
ですから、本を読んだり新聞や雑誌あるいは日ごろの体験の中から、
また、多くの方の話を聞き、そうして、日々話の題材を集めるのです。
私が27才ころからのことです。

また、題材を集めるのみでは話はできません。
神仏の世界をどれだけ知っているかによって話に重みが増すのです。

禅では自らの内に仏心(ぶっしん)といって、仏の心があるといいます。
その仏心をどれだけ、つかんでいるか、理解しているかが問われるのです。
これがとても難しく、学びの深さには底がありません。

さらには、還暦を過ぎると、この世にいる時間が少なくなってきます。
こちらの世界にいる内に、さらに多くのことを学ぼうと思うようになり、
学ぶことが楽しくなってきたのです。

チケットの想い出

平成28年5月28日のことです。
駒ヶ根総合文化センターで、
駒ヶ根青年会議所の創立50周年記念公演がありました。
講師は金美麗(きんびれい)さんでした。

その講演を1カ月ほど前に知って、
チケットを求めたのですが、すでにどこにもありません。
よく行く本屋さんでも、もう完売していました。

以前、よく知られていた女性のアナウンサー(小宮悦子さん)が、
同じ文化センターに来たことがありました。
その講演のチケットを持っていなかったのですが、
入れてくれるだろうと軽い気持ちで出かけたのです。
会場に行き、チケットを持っているみんなが会場に入った後、
係の人が「まだ空席がありますので、チケットのない人もどうぞ」と言ってくれました。

そこに十数名の人がいて、一人ずつ会場に入っていきます。
これで話が聞けると思い、一番後に並びました。

私の前には5人ほどの女子高校生がワイワイとはしゃいでいて、
その彼女たちを見た男性の係員が
「お前たち、講演をちゃかしにきたんだろう。ダメだ、ダメ。帰れ」
と言って入れてくれません。

私も彼女たちと一緒(6人の仲間?)に、そこにいたのですが、
坊さんの姿をしていても、ちゃかしに来た高校生と同じに見えたのでしょうか。(笑い)。
結局、会場には入れませんでした。
そこにいた女性の係員が、私を哀れみの目で見つめていたのを覚えています。

運を呼ぶ秘訣

金美麗さんのことに戻りますが、
今度もチケットがなくても入れてくれるだろうと思い、
家内と一緒に出掛けました。

会場に行くと、チケットのない人は会場内には入れません、と書いてあります。
「ああ、これじゃあ入れないなあ」そう思いました。

でも、そう思いながらも、
青年会議所のスタッフが会場の入り口の両脇に並んでいる中を通っていきました。
そして2番目に並んでいる人に、「チケットがないのですが」と言うと、
「ちょうど私が2枚持っています。これを差し上げます」と言うではありませんか。
「いいんですか。ありがとうございます」とお礼を言って、会場に入ることができました。

その時思ったのが「運があった」という思いです。
運を貯めることと、その使い方は難しいのです。

あるとき、交差点が赤信号であったので、車をとめました。
ところが自転車に乗った男性が、赤信号なのに、渡っていったのです。
そのとき思ったことは「こんなところで、運を使うのはもったいない」という思いでした。

赤信号で無事渡ることができた。
事故にも合わず、その男性にとっては早く先に行くことができて、
良かったことです。
それは言い換えると、自分の運を使ったことになるのです。

運というのは、自分が困ったときや、
どうしてもかなえたいと思ったときに使うもので、
こんな安易な使い方はもったいないのです。

運の貯め方ですが、こんな言葉を残した人がいます。

ゴミを路上に捨てると、自分の運を落とす
ゴミを路上で拾い片づけると、運を拾う

このように、小さなことでも、人のためになることを黙ってしていると、
運が貯まっていくのです。陰徳を積むということです。

考えを熟成させる

金美麗さんは台北出身で、早稲田大学を出て、
テレビに出たり、新聞や雑誌など各種メディアにおいて、
家族、子育て、教育、社会、政治など、
幅広い分野にわたってさまざまな提言をしている方です。
今回のテーマは「凛とした生き方」でした。

当時の私のメモ書きを見ると、6つのことが書かれていました。
その中に、台湾の人は日本が大好きで、8人に1人の人が日本に来ていて、
日本の人は100人に1人の割合で台湾に行くと語っていました。

私がとても興味があったのは、知識など蓄積し量を増やすことも大事ですが、
その知識を長い間、熟成させるということでした。

熟成という言葉を辞書で調べてみると
「腐敗しないように、適度に酵素や微生物の作用により、特殊な香りと味を出す」
とあります。

この酵素と微生物の作用を違う表現で表すと、3つあると語っていました。
それは、

1、愛情 2、感謝 3、貢献する心がけ

この3つです。

3つの酵素という考え方が、人としての香りと味わいを深めるというのです。
愛深い思いと、ありがとうという感謝の思い、
そして他のために力を尽くすということです。

このことを、56才の女性の作った「口ぐせ」という題の詩で学んでみます。

「口ぐせ」

「こんな安くて
 お百姓さん
 だいじょうぶかしら」
特売の野菜を見るたびに
出る母の口ぐせ

長いこと
畑を耕してきた母は
野菜を拝むような
目で言う

たぶん一番の口ぐせ

(産経新聞 平成28年5月28日付)

長い間、畑を耕してきた母が、畑を守る大変さを知っている。
だからこそ野菜を拝み、安く売っているお百姓さんへの思いも理解できる。
この母の生き方に、人として熟成してきた姿を思います。

教えを伝える思い

私自身、何を長く熟成してきたかを省みても、
それほど大したものはありませんが、探してみると、
毎月行っているテレホン法話がありました。

今年で37年目になります。
450以上の3分法話を作ってきたことになります。

テレホン法話を聞いてくださる方々が、
何か人生の糧を得ていただければという、私の愛情が込められています。

今年6月には「雨のしずく」というお話をしました。
少し抜粋してみます。

こんな詩があります。
「朝、川沿いを歩く」という題で、62才の男性です。

朝、川沿いを歩く

当たり前のことだけれど 目の前にある雲の形は 昨日と違う
当たり前のことだけれども 聞こえる川の音は 昨日と違う
当たり前のことだけれど 風になびく草の様子は 昨日と違う
当たり前のことだけれど 風が吹けばその風にのり
自分も 昨日の自分と違う自分を生きる

(産経新聞 令和3年10月8日付)

こんな詩です。

そういえば雲の形は2度と同じ形でなく、いつも変化し空を流れていきます。
雨のしずくもよく見れば、先日降った雨のしずくと、
今日降っている雨のしずくは違います。
風が吹けば、その風にのり、雨のしずくも変化します。

私たちも同じように、今日の私と明日の私は違うかもしれません。
この身体自体も変化し、同じ細胞はないと聞きます。

そうであるならば、変化していく私自身をどう変化(熟成)させ、
善き人格を作っていくかにあります。
それは自分自身の考え方にあります。

私自身も日々変化していく。
そうであるならば、愛情深く、感謝を忘れないで、
小さくても相手に役立つ生き方をしていく。

そんな生き方を、金美麗さんから学び取った講演でした。
学びは人を大きくします。

遺影の瞳に涙

私たちは、いつまでも学校に留まって学びを続けることはできません。
やがて社会に出て、仕事で学び、人と人とのふれ合いで学び、
人格を磨いていきます。

先日、ある方の葬儀をしました。
こんなことは初めてですが、葬儀の後のお話を終えて、
亡き人の遺影の前で焼香をし、その遺影を見ると、
写真のその眼が涙で潤んでいるのです。

誰も、このことには気づかないかもしれません。
何故だろうと、静かに考えてみました。
おそらく、家族のみんなが書いてくださった、この方の人生を、
ありがたいと思い、涙したのではないかと思います。きっと、そうです。

人と人とのふれ合いで、人は多くを学び、
尊いその人の生き方を自分の人生に重ね合わせ、幸せの道を歩いていけるのです。

学びは尊いものです。
どんな人であったかを、葬儀の後にお話したことを一部載せてみます。

昨夜みんなでお唱えした「通夜御和讃」のなかに、
「花咲く園で、先に逝きし人びとが、ほほえみたたえて迎え来る」
と詠っています。

そんな人たちと無事巡り会えて、この世での体験を語れるように、
家族の方が、こんな言葉を残してくれました。


人に対して優しく、そればかりではなく、動物や植物にも慈悲深い人でした。
話好きで、いつもにこやかに人に話しかける、そんな母でした。

誰にもわけへだてなく気さくに人を和ませ、たくさんの人に慕われていました。

連れ合いに先立たれ、とても寂しそうでしたが、
畑仕事をしたりして強く生きぬいていました。

春は重箱いっぱいに草もちを作り、秋はお赤飯を重箱に詰めてくれ、
「ありがとう」と手を合わせ、「わるいね」と感謝の言葉を忘れない人でした。

誰にでも優しくおおらかな人柄で、いつもまわりを和ませてくれました。

おばあちゃんと一緒にいると、時間がゆったりと過ぎていき、
大好きな素敵な時間を過ごせました。

いつも明るくみんなを笑顔にしてくれたおばあちゃん。
家に帰ると楽しく過ごさせてくれ、迎えるときには嬉しそうな笑顔で、
帰る時には、見えなくなるまで手を振ってくれたおばあちゃん。

いつも「最近、どう。仕事頑張ってる」と気にかけてくれ、
ほほえみと優しさの絶えないおばあちゃん。
いろいろありがとうございました。


こんな言葉をいただいての旅立ちです。
きっとあの世の古里で待っていてくださる人も、
「よく生きたね」とたたえてくださることでしょう。

こんなお話でした。

亡くなって、こんなに尊いお別れの言葉をいただいたら、
おそらくみんな、ありがたいと感じて、涙することでしょう。

この方は、生前、認知症になっても、
この「法愛」だけは、ページを開いて読み、
寝る時には、枕の下において休んでいたといいます。

この人の生き方に「法愛」も少し、役立ったかもしれません。
死を迎えるまで、人としての学びを続け、
感謝の言葉や、優しさ、笑顔や、和する思い、
そんな生き方を大切にしながら、強く生きぬく。
教えていただく、尊い学びです。

(つづく)