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法話

学び取る幸せ 2 心の学び

先月は「学びて楽し」ということでお話しを致しました。

運を呼ぶ秘訣や、考えを熟成させること、
そして人としての学びを続け、感謝の言葉や優しさ、笑顔や和する思い、
そんな生き方を大切にしながら生きていく。そんなお話でした。
続きです。

人の道として

社会で生き抜いていくための学びは大切なことです。

読み書き計算を学びながら、
さらに、心の学びがとても重要になります。

心の学びは生きていくための土台となるものです。
心は私たちの魂の中心部分に位置していて、
その心が病んでいると、幸せになることは難しいのです。

ある2人の人が、それも同じ日に、
東京にある児童養護施設にやってきました。
その2人は、この施設に300万円を寄付したいというのです。
その施設長さんは、感謝してそのお金を受け取りました。

1人の人の300万円のお金は、日々汗を流して働き、
それを少しずつためたお金でした。
実はこの男性は、自分にも子どもがいたのですが、
不慮の事故で亡くなってしまったのです。
悲しみの日々の中で、何か子どものために役立つことをしようと思い、
この児童施設に寄付し、子どもたちが幸せになるための使い方を願っての寄付でした。

一方の男性のお金は、ある年老いた女性から
詐欺で1,000万円だまし取った中の300万円でした。
それでも、300万円を寄付すれば、少しは罪が薄れると思い、
この児童施設に寄付しに来たのです。

寄付する300万円は、同じ金額です。同じ300万円です。
でも、違うのはおわかりでしょう。

どちらが人の道として尊いのでしょう。
これを決めるのが心なのです。

最初の男性は、自分の働いたお金で、
子ども達が幸せになれるようにと願っての寄付でした。
一方の男性のお金は、人からだまし取ったお金です。

この話は、私が作った話なので、実際にあったことではありませんが、
こんな簡単なこともわからない、そんな人も世の中にはいるようです。

人としての正しさ

宮沢賢治の言葉に、
ほんとうにどんなつらいことでも、
それが正しい道を進む中のできごとなら、
峠の上り下りもみな、ほんとうの幸福に近づく一足ずつです。

自分にとって、つらいことでも、
それが人として正しいことであるならば、
悪口を言われても、バカにされても、のけ者にされても、
幸せを手に入れる道である、というのです。

これが心の学びといえます。

大正7年から第3期として、
尋常小学校で生徒が学んだ「しやうじき」という文章がでてきます。
児童用なので、ひらがなが多く、それを漢字に直しながら、載せてみます。

正直

ある呉服屋に、
正直な丁稚(でっち・年季奉公をする年少者の意味)がおりました。

ある時、客の買おうとした反物に、傷のあることを知らせたので、
客は買うのをやめて帰りました。

主人はたいそう腹を立て、すぐに丁稚の父をよんで、
「この子は自分の店では使えない」
と言いました。

父は自分の子のしたことはほめてよいと思い、
連れて帰って、他の店に奉公させました。

その子はそののちも正直であったので、
大人になってから立派な商人(あきんど)になりました。

それにひきかえ、さきの呉服屋はだんだん衰えました。

(「『修身』全資料修正」四季社)

こんな文章です。

正直に、反物に傷があると言ったら主人に叱られ、店を追い出されました。
峠の下り、すなわちつらいことを体験した丁稚の子でした。

でも、それが正しい道であるゆえに、
やがて立派な商人として幸せを手にしたわけです。

心の学びで大切なことは、このように人として正しい教えを学び、
それをたんたんと行っていくことです。

その行為が、自分にとってつらい立場におかれたとしても、
やがて認められ、なくてならない人になっていくのです。

大切なメモ

心の学びでとても大切なのが、神仏の思いを知るということです。
その学びが、尊い幸せに通じていくのです。

ここでひとつ詩を載せてみます。
「拳(こぶし)の秘密」という題で、68才の女性の詩です。

「拳の秘密」

固く握りしめた
柔らかく小さな手

人は生まれる時
神様から
大切なメモを
握らされている

それは何だったのか
気付かず
開いてしまった拳

今、
じっと拳を見る

(産経新聞 平成28年5月23日付)

こんな詩です。

生まれる時に、神様から大切なメモを握らされていたと書いています。
この「法愛」をお読みのみなさんは、生まれる時に、
自分の拳の中に、どんなメモが書かれていたのか、わかるでしょうか。

自分の今の生き方を振り返ってみて、何か気づくことがあれば、
そこに答えがあるかもしれません。

私自身(「法愛」を書いている人)はどうだろうと、考えます。
おそらくこんなメモかもしれません。

「よく学び、その学びを人の幸せのために生かしなさい」

神様からのメモ

この神様のメモをもう少し考えていくと、こんな投書に巡り会えました。
73才の女性の方で、「神様の計らい」という題です。

神様の計らい

夫が脳梗塞で倒れ、5月で10年になる。
右半身マヒが残り、歩行器が必要だ。

一番の後遺症は高次脳機能障害だ。
会話や読み書きに支障が出て、記憶が保てないと医師に言われた。

夫にはもう一つ障害がある。
4歳の時にポリオを患って以来、右足は細く、歩くのに苦労してきた。

我が国には、よろずの神様がいると聞いたことがある。
それならば、あまりじゃないですか。
心優しい夫にこんな苦労をくださらなくとも。

倒れてから3、4年後、
テレビに流れた字幕を見て夫が笑った。

えっ、読めるんだ。
それから毎日、新聞を渡すようにした。
端から端までじーっと見ているが、どこまで理解しているかは神のみぞ知る。

字を書き写すこともできるとわかり、
私が天声人語を切り抜くと、ノートに写すようになった。
もう16冊目だ。

自分が障害であることも記憶の外へ、幼児のように安穏と過ごす。
そんな夫を見ながら気付いた。 全てのことから解き放たれた今が一番幸せなのかも。

神様、そうきましたか。
粋な計らいと思いましょう。

もう一つかなえて下さい。
私が鬼嫁から、夫の母のような気持ちになれますように。

(朝日新聞 平成28年4月27日付)

こんな投書です。

この投書を書いている女性の旦那さんは、
病気でかなり不自由な生活を強いられています。
でも、自分が障害者であることを忘れ、幼児のように安穏と過ごしていると。

神様からのメモは
「身体の不自由さを乗り越え、安らかさや穏やかさを学び取りなさい」
というメモかもしれません。

この投書の女性は、いつも神様のことを考えています。
そして夫を支え、投書の最後には
「私が鬼嫁から、夫の母のような気持ち(優しい人)になれるように」
と書いています。

神様からのメモは
「身体の不自由な人と一緒になるけれども、
 優しく、ほほえみのある人になりなさい」
かもしれません。

神仏に守られる

神様は私たちに生まれる時に、大切なメモを握らせてくれている、
という話でしたが、そのために、いつも神様、神仏が私たちを守っている
ということを信じることが大事ではないかと思います。

平成28年6月の「法愛」に、こんなエピソードを書いたことがありました。
そこのところを載せてみます。

ある人が、信号が青になったので、横断歩道を渡り始めました。
すると後ろから「おい!」という声が聞こえてきたのです。

誰だろうと立ち止まって振り返ると、誰もいません。
その時、1台の車がその人の前すれすれに走り抜けて止まりました。

車を運転していた人は女性ドライバーで、
よそ見運転をしていて、信号が赤であったのに気付かなかったのです。

そのままこの人が歩いていたならば、
おそらく車に引かれて大惨事になっていたでしょう。

「おい!」と声をかけたのは誰でしょう。

こんな文章でした。

きっと「おい!」と声をかけてくれたのは、気のせいではなくて、
何か見えない存在が、導いてくださったのに違いないと、私は思います。

私自身、最近あったことです。

法泉会という定例の法話会が、9月27日(令和5年のこと)にありました。 その時の演題が「人生に無意味なことはない」というものです。

この法話作りで、ずっと考えていて、
ふとたくさんある本の棚に、飛び出していた本があって、
この本は何だろうと思い本棚から取り出してみました。

普段は気づかずに、通り過ごしてしまうのですが、不思議です。
取り出した本は、絵本でした。題は「ちいさなあなたへ」とあります。
少し読んでみると、母が子を育てる人生が語られています。

その絵本の帯には、
「母でいることの幸福、喜び、不安、痛み、そして子どもへの思い」
とあります。

ちょうど人生のことを考えていたので、
誰か見えない方が、導いてくれたのだと、思ったのです。
さっそく、この本を法話の中で使わせていただきました。

何か不思議な導きという学び

小さな池の中のカエルが、ここが私の世界だと思って暮らしている。
でも、池を出れば、もっと広い世界が広がっている。
それを知らないカエル。

そのように、見える世界のみを私の住む世界だと思っていると、
もっと広い見えない世界のことを知らずいることになるのです。
その広い世界を知る方法が神仏の存在を信じることなのです。

黒柳徹子さんが『本物には愛が』という本を出されていて、
その中に三國連太郎さんや三船敏郎さんのエピソードが書かれていました。
少しまとめてみます。

三國さんが戦争から帰ってきて、仕事もないしお金もない。
そのとき学校の友達が、ペニシリンなんかの会社を、
築地の向こうでやっているというのを聞いて、
その会社に入れてもらえないかと出かけたのです。

ちょうど信号が赤であったので待っていると、そこには松竹が後ろにあって、
そこの木下恵介監督が、主役がいなくて探していて、
信号待ちをしている三國さんと出会い、こんな言葉を投げかけたのです。
「あなた、俳優になりませんか」と。

そこで三國さんは
「月給はいくらですか。あっちでもらえそうなので、高ければいきます」
「もっと出すから」と言われ、俳優になったとうのです。

もし松竹の前の信号が青だったら、
監督と三國さんは出会えなかったかもしれません。

三船敏郎さんも、ニューフェイスに行って、
「笑ってください」と言われ、「そんな、笑えと言われたって笑えない」
それで、もう駄目で帰ろうかと思い、電車に乗ろうとしたけれど、
どうしてか来た電車に乗らなかったのです。

そこに監督のお1人がやってきて、
「もう一度戻ってください」と言われたのです。
もし、あのとき電車に乗っていたら、今の三船さんはなかったかもしれない、と。

(黒柳徹子著『本物には愛が』PHP)

こんな2人のエピソードが載っていました。

黒柳さんにも、そんな不思議な巡り合わせがあったようです。
何か目に見えないものに、導かれている。信じるか信じないかは自由ですが、
目に見えない何かの計らいがあるのは確かです。

そして考えます。
私はどんなメモを神様からいただいてきたかを。

心の学びとして、考えてみませんか。

(つづく)