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法話

よき縁の旅 2 よき縁を作っていくために

先月は「何をよき縁とするのか」ということでした。
人と人とのふれ合いは、たくさんの人との出会い、結びつき、
あるいは尊い縁で成り立っていて、そのふれ合いが、やわらかく、
あたたかなものであるためには、自分本位の生き方でなく、
相手をあたたかな思いで包んであげる。
そんな生き方が大切であることをお話し致しました。続きです。

三つの宝

少しイエス様のことをお話し致します。

仏教者ですが、私も「聖書」を持っていて、ときどき読んだりしています。
人を幸せにするための教えであれば、素直に尋ねていくことが大切であると思っているからです。

イエス様が生まれるとき、遠い国から星に導かれ
3人の東方の博士が宝物を持って、イエス様の所へやってきます。

ひとりは黄金、ひとりは乳香、ひとりは没薬(もつやく)でした。
黄金は、イエス様が王であることを象徴していて、
乳香は、幼子が神の子であることを表しています。
没薬はアフリカ産の植物から取った苦い薬で、それは、
やがて幼子が苦しみを受けて、十字架の上で死ぬということを表しているようです。

アルタバンのこと

先月、アシタ仙人がお釈迦様に会えないと泣いたお話を致しました。
このアルタバン(アルタバルともいう)という人も、
イエス様に会いたくても会えなかった人なのです。

会うという縁をいただけない、そんな人の話です。
このお話は「もうひとりのはかせ」という絵本にもなっています。

アルタバンは天文学者であり、お医者さんでもありました。
イエス様が生まれるというので、財産をサファイア、ルビー、真珠などの宝石に代え、
東方の3人の博士のところに馬を走らせていきました。

旅をしている途中、病気で苦しんでいる人を見つけ、見捨てることができず、
手当をしてあげていると時がたち、東方の3人の博士はすでに出かけた後でした。

そこで、ひとりイエス様が生まれるというベツレヘムまで行くのですが、
イエス様はエジプトに行ってしまい会えません。

アルタバンもエジプトに行き、イエス様を探しながら、
貧しい人たちや病気の人を助け、30年あまり、時が流れました。
宝石の真珠だけ使わずに「イエス様に」と取ってありました。

この真珠は
「私たちの心の中に尊い真珠のような宝物」があることを表しているのです。
禅でいう、私たちの心の内にある「仏の心」と同じではないかと思います。

あるとき、イエス様と呼ばれる人がゴルゴダの丘で
2人の盗賊と一緒に十字架につけられることを知り、
ゴルゴダの丘にかけつけようとします。

しかし、行く途中、1人の若い女性が、
家族が貧しいゆえに、自分の身を売らなくてはならない、
そんな深刻な場に行きあたってしまいます。

アルタバンは非常に迷ったのですが、どうしてもその女性を助けたいと思い、
最後まで残しておいた真珠と引き換えに、その女性を助けてあげます。

イエス様が死に、大きな地震が起き、
急いでイエス様に会いにかけつけたアルタバンは、
倒れてきた建物の下敷になってしまいます。

結局イエス様に会うことができなかったのです。

真珠の意味

建物の下敷になってしまったアルタバンのところに、イエス様が霊的な姿で現れます。
あるいは天からイエス様の声が聞こえてきたともいいます。

アルタバンは、
「イエス様に会いたくて、30数年、ずっとあなたをお探ししきました。
 でも、一度も会うことができませんでした」

イエス様は言います。
「アルタバン。私はあなたに何度も会っています。
 あなたの真珠は私がしっかりもらっています。
 あなたが貧しい人や困っている人にしてくれたことは、
 私にしてくれたのと同じなのです」

この真珠について、渡辺和子さんが
『愛することは許されること』(PHP研究所)の本の中で、
次のように書いています。

私たちは一人ひとり真珠を持っています。

指輪にしたり、イヤリングにしたりネックレスにする真珠、
それは持っていないかもしれないけれど、
私たちには一人ひとり、真珠と呼ばれる心の宝があります。

頭の良い、悪い、顔のきれい、きたない、家柄、身分、職業、
そのようなものと一切かかわりなく、私たち一人ひとりが、
私しか幼な子のイエスさまに差し上げることのできない
心の真珠を持っているはずなのです。

一人ひとりの心に真珠を持っていると書いています。
仏教で説く、みんなの心に仏心(ぶっしん)という仏の心がある、
というのと同じではないかと思います。

先月書いたアシタ仙人も、今月のアルタバンも、
お釈迦様やイエス様に会えませんでしたが、何らかの尊い縁を後世に残しています。

アルタバンのように、真珠や仏の心を使って、みんなを幸せにするために生きていく。
とても難しいことかもしれませんが、この教えをよき縁として、相手を幸せにする、
そんな生き方がとても尊いことであると知るだけでも、学びが進んだことになります。

悪い縁を作ってしまうとき

ずいぶん前になりますが、
私の母の四十九日の法要をした後、納骨をしました。

みんなでお参りしたのですが、
孫が母の墓石の前にある無縁仏様の頭を蹴ったのです。

するとみんなが口をそろえて、
「そんなことすると罰(ばち)が当たるぞ。ごめんなさいをしなさい」と。

するとしばらくして、その孫が転んで大泣きをしたのです。
「ほら、罰が当たった」と。孫はいい経験をしたのではないかと思います。

悪いことをすると悪い結果が出て、善いことをすると善い結果がでる。
でも、悪いことをしても、すぐには結果が出ないときもあるし、
善いことをしてもすぐ善い結果がでないときもあるけれど、
必ず報いを受けると、仏典には書かれています。

幸せを感じとる生き方

よき縁を作っていくためのひとつの方法に、
幸せを感じとる力を養っていくという方法があります。

こんな詩を見つけました。
「人生というものは」という題で55才の女性が作った詩です。

人生というものは

よそ行きだった服が
いつか
普段着になる
そういうものなの
結婚というものは・・・
若い時
王子様と見えた人が
いつか
お爺ちゃんになるの
そういうものなの
人生というものは・・・

悟ったわけじゃない
でも笑って語れる
今日がある

(産経新聞 平成28年7月14日付)

こんな詩です。

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よそ行きの服が普段着になる。
それを結婚に喩(たと)えているところがいいですね。
そして王子様がお爺ちゃんになる。そのことで、不平をいうのでなく、
笑って語れる今日がある、と書いています。幸せを感じとる生き方が見えてきます。

新しいものは必ず古くなっていくし、使えなくなって捨てられていきます。
でも、役立っていたころに感謝し、笑って語らえるようになれば、
すべてが幸せに結びついていきます。

賢者の贈り物

よそ行きだった服が普段着になる。私自身、この言葉で思い出すのが、
よそ行きだった教えが、お粗末であったかもしれないと、笑って省みる。
そんなときもあります。

昔お話して書き込んだノートをパラパラめくっていると、
こんな話もしたなと懐かしく思い出します。

今から27年前、平成9年1月28日のこと。
ある保育師さん38名ほどに「心に愛が満ちるとき」というお話をしました。
どこの保育園でお話したのか、もうすっかり忘れていて、
ノートの内容を見ると、「賢者の贈り物」というお話をしていています。

「心に愛満ちるとき」という演題には、よく合っていると思い、
ここでも少し書いておきます。よき縁となれば幸いです。

「賢者の贈り物」という話は、オー・ヘンリーというアメリカの小説家が書いたお話です。
クリスマスの贈り物についてのお話で、さきほど東方の博士が
イエス様への贈り物を持ってお祝いに来たというエピソードを下敷にしていると言われています。

ジムとデラは夫婦で、お互いクリスマスのプレゼントを考えていました。
お互い貧しく妻のデラは1ドル87セントしか持っていません。
これではプレゼンとは買えません。
そこで、自分のひざ下まである長い髪を切って20ドルで売りました。
そのお金で、夫のジムが欲しがっていた
金の懐中時計のプラチナの鎖を買いました。21ドルでした。

夫のジムは妻のデラが欲しがっていた鼈甲のくしを買うのに、
祖父から父へ伝わる懐中時計を質に出して、くしを買ったのです。

ジムは仕事から帰ってきて、デラの髪を見て驚きます。
デラは気を取り直して、ジムにプラチナの鎖をプレゼントします。
ジムは正直に、懐中時計を質に入れて、
デラが欲しがっていた鼈甲のくしを買ってきたことを告げます。

行き違いのプレゼント。
互いの「おもいやり」を受け取る、最も賢明な贈り物。
この2人に互いを思う愛が満ちていました。

こんなお話です。

愛とは一番大切なものをささげること。
そして見返りをもとめない。そんな生き方を教える物語です。

お話ではありますが、
こんな尊い生き方があるのだと思うだけでも、心が安らいできます。
尊い物語を読むだけで、幸せの縁を作ることもできるのです。

同じことはひとつもないから感謝を忘れない

今まで生きてきて、同じことはひとつもない。みな一度限りの出来事。
だから大切に受け止めていく。そう考えてよき縁を作っていくこともできます。

朝、顔を洗うのも同じように見えますが、
一日、年を取っていますし、鏡に映す顔も少し違っていて、
洗う水の量も、力の入れ加減も同じではありません。
時間も少しずれていて、顔を拭くタオルも同じものではないでしょう。
また、洗うときの気分も違うかもしれません。

平凡な毎日で、日々同じことの繰り返しと思う。
そのことで、同じことができるというありがたさが薄れていきます。
突然襲ってきた地震や大雨で、水が出なかったり、
普段通る道が崩れて通れなかったりすると、不便を感じて、
その時は、同じことができているというのはありがたいと思います。

ですから、時々、同じことはひとつもないと思い、
一つひとつのことを大切に感謝して受け止めていくのです。

同じことはひとつもないと思えば、感謝が培われていきます。
感謝ができると、感謝の気持ちが心に蓄積されていって、心が穏やかになり、
それが善い結果としてあらわれてくるのです。

感謝の仕方を、ある投書から学んでみましょう。
73才の女性の方で「『感謝のノート』を続ける」という題です。

『感謝のノート』を続ける

今まで何度も、日記を書こうと思っては挫折してきたことを友人に話した。
すると、「感謝のノート」を作ってみてはと勧められた。
その日一日、良かったと思うことだけを書くことで、
友人は長続きしているとのことだった。

早速、私も実践し、就寝前に一日を振り返り、書き記すようにした。

先日は、バスに乗った際の出来事について書いた。
バスを降りるのにだいぶ時間がかかった高齢の女性に、
運転手さんが「お気を付けて」と声を掛けた。
その一言に周囲の人もホッとして、車内が温かい空気に包まれた。

ささいなことだったら、一日三つや四つ、書くことは見つかるものだ。
温かい気持ちで一日終えることができるし、これなら続けられそうだ。

(読売新聞 平成28年6月15日付)

感謝のこと事を探して、それを日記に書き、よき縁を作り、幸せの道を歩んでいく。
ただ思うだけでなく、書くことで、感謝の思いが深まっていきます。

私たちは幸せになるために生まれてきました。
であるならば日々感謝して、それをよき縁として幸せになっていきましょう

(つづく)