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みにミニ法話

(174)「不動心」

「不動心」とは心が動かないということですが、
心ほどころころと動くものはありません。

お釈迦様は心を「暴れ馬」にたとえられましたが、
それほど心は思うようにならず、ころころと動くものです。

道に十円が落ちていれば、「たった、十円か」と思う。
百万円の束が落ちていれば欲がむらむらと湧き出て、「これはラッキー」と思う。
「一人じめしようか」あるいは「警察に届けようか」と迷う。
人は多額のお金で、ころっと心が変わってしまうのです。

あるいは、人が馬鹿にするような事を言えば腹が立ち、
優しくしてくれれば嬉しく思う。

「ありがとう」といってくれなければおもしろくないし、
謝ってくれなければ、いつまでも心が落ちつかない。

「頑張って」といわれて元気がでたり、
逆に「これ以上、頑張れって言うの」と反感を思うときもあります。

美味しいと思って入ったレストランで、値段の割には美味しくなかった。
お店を出たとたんに、文句の一つや二つが口元からこぼれ落ちますね。

このようにまわりの状況や受けた言葉、されたことなどによって、
いつも心がころころ変わっていては、なかなか幸せにはなれません。

まわりの状況や受けた言葉、された事ごとに、心がころころと動くことなく、
それを正しく受け止められるために、不動の心が必要なわけです。

その不動の心の一つに「穏やかな心」があげられます。

穏やかさとは心が落ち着いていて静かな状態をいいます。

心が落ちついているので、心の波立ちがなく、
あたかも湖面が山や空の景色を映すように、よくまわりのことが見えて、
正しい判断ができるようになるのです。

一見、不動心という言葉の力強さに比べると、
穏やかさは少し力強さに欠けるような気も致しますが、
穏やでイライラしない心の状態のときに、私達の内に秘められている、
神仏(かみほとけ)の性質としての、力強い生き方が現れでてくるのだといえます。

この穏やかな心を得るためには、
常に「心、穏やかであれ」と自らが自らの心に語りかけることです。

心という暴れ馬をいさめるように、
「心、穏やかであれ」「心、穏やかであれ」と語りかけることです。

この言葉が、心という暴れ馬を操る手綱ともいえましょう。