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みにミニ法話

(274)「いのちを頂いて」

私たちはいのちがあって、生きています。
このいのちは、もちろん両親からいただいたものです。
ですから感謝の深い人は、
特にお母さんに「私を生んでくれてありがとう」と言います。

金澤翔子さんという
ダウン症ですが、書家として立派に活躍している女性がおられます。

別冊「太陽」(223)という雑誌に、
「金澤翔子の世界」と題して特集したものがあります。
「いのち」と書かれた書の片隅に、お母さんの思いが書かれています。

「お母様が好きだからお母様のところに生まれてきたの」。
翔子が寄り添ってきて私の耳元で秘密でも打ち明けるように囁いた。

私は「はっ」とした。
翔子の言葉は深い意味で正しいことが多い。
言語障がいゆえに言葉の少ない翔子の言うことは、
いつだって真言である。

母親を選んで生まれてくるという
古(いにしえ)からの噂はほんとうかもしれないと、
その時初めて命の仕組みを垣間見た気がした。

きっと私も生まれてくる子がダウン症であることを同意して、
二人の合意のもとに私たちは親子としてこの世に結ばれたのでしょう。

今、ダウン症の翔子を授かって本当に幸せだと思う。
苦しくダウン症の告知を受け、オロオロと悲嘆に暮れて彷徨い、
この至福の境地に至るまでには二十年余年を必要とした。

こう書かれています。

互いにいのちを頂いてありがとうと感謝している、
その姿は、美しさを感じます。
美しく感じるというのは、真実だからです。

そしてさらに、いのちのことを深く考えていくと、
神仏からいのちを頂いたのが、私達です。

授かったと言っていますが、
誰から授かったのか。そうです、神仏からです。

シェイクスピアが
「なあに、かまわないさ。
 人間、死ぬのはただ一度。命は神様からの借り物だ」
と、言っています。

このいのちは神様からお預かりしている、
そう思うと、大切に使わなくてはいけないという思いが強くなります。

神仏からお預かりしているいのちであれば、無駄に使ってはいけないのです。