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法話

学び取る幸せ 3 学びが役立っていく

先月は「心の学び」ということで、
人としての正しさ、神様の計らい、不思議な導きなどをお話し致しました。

神様からのメモについては、この法愛を読んでおられるみなさんは、
どんなメモをいただいているのか、答えがでたでしょうか。
それでは続きの話を致します。

佐藤一斎(いっさい)先生のこと

今まで学んだ本の中で、飽きずに何年もかかって読み上げた本があります。
その本は佐藤一斎先生が残した『言志四録』(げんししろく)でした。
文庫本で四冊になっています。

訳した人は川上正光という方で、エレクトロニクスを専門とする工学者です。
川上さんは、社会人として大切なものは何かという問いに、  第一は健康、第二が人物、第三が独創、第四が奉仕、
 そして五と六がなくて、第七が学業と考えている。 と、この本に書いています。

そして、『言志四録』のことを、簡単に説明しています。

この本は江戸末期の大儒(たいじゅ・すぐれた儒学者)である佐藤一斎先生が、
十分な社会体験を経られた後半生の四十余年にわたって書かれた語録であり、
我々にとり、修養の糧として、また処世の心得として
まことに得難き好指導書であると思う。

(『言志四録』 講談社学術文庫)※括弧は筆者

この本を読むことで、社会人として大切な生き方を学び、
役立つ人間として成長していけるということです。

この本は儒学であって、工学を専門とする著者が、
まったく異なった領域の本を訳し、解説しているところに、
「こんな人もいるのか」と、軽い衝撃を受けたことを覚えています。

佐藤一斎先生は佐久間象山や勝海舟、坂本竜馬、西郷隆盛などに影響を及ぼした先生です。

小さな事も粗末にしない

ここで少し『言志四録』の言葉を学んでみます。
学び取る幸せを感じていただければと思います。
原文の後に、川上さんの訳を載せます。

にあるは、くをめ、
にあるは、をにせず。

[訳文]
真に大志ある者は、小さな事柄も粗末にしないで勤めはげみ、
真に遠大な考えをもっているものは、些細な事もゆるがせにしない。

(『言志四録』27 講談社学術文庫)※訳文は筆者

小さな事柄も粗末にしないし、
些細なこともおろそかにしない、という教えです。
そんな生き方をしている人が立派になっていくということです。

普段お金でも1円は粗末にしがちです。
スーパーに行って534円ほどの買い物をして財布を見ると、
533円しかないとわかった。1円足りない。
欲しいものを一つあきらめなくてはなりません。
そんなとき、1円の価値がわかります。

砂時計でも、小さな砂の粒が一つひとつ下に落ちて、
3分の時間を教えてくれます。
砂時計が小さな砂の粒を粗末にして、200粒いらない、と言えば、
3分の時間を計ることはできません。

していただいて、「ありがとう」と言ったり、
迷惑をかけて「すみません」と謝ったり、
名前を呼ばれて「はい」と答えたり、
落ちているゴミを拾ったり、
ゴミを捨てないで持ち帰って処分したりなど、
みな些細なことです。

でも、こんな小さな事柄でも、ちゃんとおこなっていくところに、
人としての尊さが培えるわけです。

学び多い人生

もう一つ学んでみます。
この言葉は有名なので、知っている人も多いと思います。

にしてべば、ちにしてすことり。
にしてべば、ちいてもえず
いてべば、ちしてちず。

[訳文]
少年の時学んでおけば、
壮年になってそれが役に立ち、何事か為すことができる。

壮年の時学んでおけば、老年になって気力の衰えることがない。

老年になっても学んでいれば、見識も高くなり、
より多く社会に貢献できるから死んでもその名の朽ちることはない。

(『言志四録』60 講談社学術文庫)※訳文は筆者

先月11月号で「正直」という題で、
呉服屋で働く少年の話がでてきました。

小さいころから正直さを学んで、
その少年が大人になって立派な商人になったというお話でした。
小さいころの学びが役に立ったのです。

学んで社会に貢献する人

時々ブックオフに行っては、読みたい本を探してみます。

ずいぶん前になりますが、
「日本の『創造力』」―近代・現代を開花させた四七〇人―
というNHK出版が出している本を見つけました。

15巻もあって、最後の15巻目は、貢献した外国人を載せていました。
1冊の金額が108円であったので、1,620円で買えたのです。
本当の値段は1冊5,800円と、本には書かれています。

目次にある470人の名前に目を通したのですが、知らない人ばかりで、
こんな人たちが、日本に貢献し、発展させてきたのだと、
感謝の思いがふっと湧いてきたのを覚えています。

その470人の1人に、古賀政男(こがまさお・1904~1976)という人がいました。
若い人は知らないと思いますが、私はよく知っていて、
この本では、

大阪の商店に勤めていた頃、古賀政男は日曜ごとに宝塚歌劇団に通った。
彼の目的は舞台ではなくオーケストラボックスのほう
で、どんな曲がどこで使われどう演奏されるのかを学ぶことが楽しみだっ
た。やがて明治大学に入ってマンドリン俱楽部を創立し、
「影を慕いて」を最初に大衆的歌曲の作曲を始める。
レコードで発表される古賀メロディーは万人の心をとらえ、
大衆音楽に歌謡曲という新ジャンルを確立するにいたった。

と、紹介しています。
古賀政男は、音楽学校に行って、音楽を習ったのでなく
独学で作曲家になったわけです。その様子をこう書いています。

先生について教わるわけでもなく、もちろん音楽学校にも行かず、
すべて独学で勉強して作品を仕上げ、いろいろな楽器の演奏法を身につけた。
どれも自らの体で覚え、頭の中からひねり出したものだった。
その創意工夫は日常生活のちょっとしたこともヒントになり、
そこで一曲できあがることもあった。

独学で学ぶとあります。
そして音楽で社会に貢献し、多くの人びとの心を癒す、
そんな曲をたくさん創ったのです。「老いても学ぶ」そんな姿勢が尊く思います。

享年73歳、国民栄誉賞を授与されています。
「死しても朽ちず」そんな人生を生きられたように思います。

学ぶことは、人を大きくし、そして多くの人の助けとなる。
そんな学びの姿勢が尊く思われます。

学び取る幸せ 4 学びを役立たせていく幸せ

学びを人のために

学びは自分の知識を広げ、心を養っていくところにあります。
その学びを自分の楽しみのためのみに使うのもひとつの生き方ですが、
できるならば、学びを他の人の幸せのために使っていくと、
自分の幸せをさらに高めていく人生になっていきます。

この「法愛」も今月で348号になります。
自分が学んでいかなくては、到底出せない量になってきています。
そのために、学び考え、考え学んできました。

まだ未熟で、人様のお役に立てるほどのことはしていませんが、
「壮にして学び、老いても学ぶ」という精神を捨てないでいます。

このお話をしたのは、平成28年のことで、
この年は東日本大震災から5年目になります。
この年の3月11日には政府追悼式が行われ、
「遺族代表の言葉」が新聞などに掲載されました。

この言葉を読んでみると、
みんな深い人生のことを学びながら、苦難を乗り越えている。
そんな印象を持ちます。

この時、遺族代表の言葉を述べたひとりに、
山本永都(ひさと)さんという(当時22歳)女性がおられました。

震災で、おじいさんとお父さんを亡くされ、
お父さんの遺体はまだ帰ってこないようです。
お父さんは消防団員として、防波堤の水門をしめにいって、
津波に遭ったのです。いかなければ助かったはずです。
山本さんは、震災当時は「水門を締めにいかなければ、助かったはず」
と母を問い詰めたようですが、今では住民を守ろうとした、
父を誇りに思っていると述べています。

そしてこの5年は、ずいぶん私を成長させてくれ、
住民の命を守った父の背中を胸に、いつか私も役に立てる人となり、
努力を惜しまず前に進んでいきたい。
それが亡き父への親孝行であると述べていました。

人生の苦難の学びが、
やがて人に役立つ人となっていきたいという彼女の決意には、
頭の下がる思いがします。

輝く一生

私は僧侶という仕事をしていますので、
亡き方と、その家族の最期の別れの時を何度も立ち会わせていただきます。
それがまた、私自身の人生の学びにつながっていくという、
有り難い体験をさせていただいています。

山谷美恵(仮名)さんが亡くなられたのは、49歳でした。
高校2の娘さんと中2の息子さんがいて、
亡くなる前の日に、一人ひとりに言葉を残し、
翌日の3時51分に、天のみ国へ旅立っていかれました。
看護師さんをしていたのですが、自分の異変に気がつかなかったようです。
それほど、家族のために、そして患者さんのために働いたのでしょう。
葬儀の終わりに、こんなお話を致しました。載せてみます。

ここに山谷美恵さんは49年の生涯を閉じられました。
今の時代、49年というのは、とても早い旅立ちです。
長生きをする人と比べれば、
まだこの世にやり残したことがたくさんあったでしょう。

子どもさんの成長を願いながら、娘さんが嫁ぐ時のお嫁さんの姿、
凛々しい息子さんの社会人としての活躍、
夫婦共に語らい老後を過ごす日々、
みな綿雪が消えるように、幻となってしまいました。

しかし、お釈迦様は説きます。
怠り怠けて、気力もなく、百年生きるよりは、
人のために努め励んで、一日生きるほうがすぐれている
、と。

美恵さんは妻や母をこなしながら、看護師として働いてきました。
病で苦しんでいる人の手を取り、癒してあげ、
安らぎを与えてあげることを仕事とし、その仕事に誇りを持ち、
自分のことよりも相手を思う気持ちを常に忘れず、生きてきました。

この49年の生涯は、短くも見えますが、
本当は充実して、ダイヤモンドのように、輝いた一生であったと思います。
そんな生き方をたたえてあげ、そんな生きる姿勢を、
残された方も、自らの人生を重ね合わせ生きていくことが供養の大切な心構えです。

そしてまた、この世に未練を残さないように、
仏様の世界へ帰っていかれることを念じてあげていただきたいと思います。

家族のみなさんが美恵さんに託したメッセージです。

常に他の人の事を考え、自分の事は後回しにし、
自分がつらい時、「いたい」とか「しんどい」を言わず、
他の人のために行動する人でしたね。

4年前からの抗がん剤治療で戦っている時でも、家族の心配をし、
相談にのってくれたり、頼れる存在でもありました。
仕事以外でも、看護師として白衣(びゃくえ)の天使でしたね。

お母さんは、私の憧れの人でした。
看護師になるという夢ができたのも、お母さんが看護師だったからです。
仕事をしている時の姿は、本当に素敵だった。
いつも明るく笑顔を絶やすことがなかったお母さん。
ありがとう。お母さんの子で、とても幸せでした。

お母さんを思い出すと、笑顔しかでてきません。
どんな時にも「前向き」で、「あきらめない」そんな人でした。
そんな生き方をわすれません。ありがとうお母さん。

こんなメッセージを心に受け取り、今、天に帰っていくのです。
お別れはつらいことですが、無事花の咲く古里の温かな世界へ帰って、
天から私たちを見守ってくださいますよう念じて、お別れの拝礼を致します。

人生の学びが、やがて人の役立つことになっていき、
それがまた、自分の幸せでもあり、相手の幸せにもなっていきます。
いつまでも学ぶ道を、共に歩んでいきましょう。